Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2020/05/12

『鉄の時代』のファーカイルは白人か、黒人か?

J・M・クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルは白人か、黒人か?
河出文庫 2020.5.7発売
これはなかなか解けない問いのようだ。2008年に初訳が出たとき、ある研究者は白人と断定して自作内で論を立てた。ある読者は黒人とみなして感想を書いた。しかし。

主人公ミセス・カレンの家の敷地に無断で入り込み、ガレージのわきの通路にダンボールとビニールシートで家らしきものを勝手に作って、そこに身をまるめていたのがファーカイルだ。作品の最初に、まず書かれているのがファーカイルの風貌で、細かな描写がある。

「背が高く、痩せこけて、風雨にさらされた皮膚に、長い虫歯の犬歯、ぶかぶかの灰色のスーツを着て、縁のほつれた帽子をかぶっていた」

 これだけでは「黒人か白人か」はわからない。ところが数ページ後に非常に重要な語がはさみこまれる。

「馬面の、風雨にさらされた顔、酒で目のまわりがむくんでいる。奇妙な緑色の目──不健康な」

 この「緑色の目」というのが決め手となるか、ならないか。白人だ、と思ったひとはここで判断したらしい。しかし、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』の主人公はカラード(混血)だが紺碧のような緑色の目をした男だった。ということは?
 だが、決め手は、じつは、もっと後ろにある。ミセス・カレンの家で働いているメイド、フローレンスには子供が3人いて、長男ベキがいつのまにかタウンシップから逃げてきて、カレンの屋敷に住み着いている。住み着いて、といっても庭に離れのように立てられた狭い召使い部屋に、ということなのだが、このベキがあとからやってきた友人ジョンと2人で、酒浸りのファーカイルに殴りかかり、ファーカイルが手に持っていたブランデーの瓶の中身を地面に捨てるシーンがある。ここが決定的なのだ。なぜか?

ペンギン版 2018.9.25発売 
白人の屋敷内で黒人少年(ベキというのはバンツー系/黒人の名)が、いくら浮浪者でも白人に殴りかかることは、まず考えにくい。87年のケープタウンでの出来事なのだ。まだアパルトヘイトの法律は歴然と存在する。そして、酒ばかり飲んでいて闘わない旧世代へ若い世代が憤怒を募らせてきた歴史的事実があったことを思い出したい。南アフリカの解放闘争の歴史を少しひもとけば、それはわかる。とりわけブランデーがカラードの労働者たちに給料の代わりに支給された事実は『デイヴィッドの物語』にも出てきた。だから、若者が「のらくら者」と思われるファーカイルに殴りかかるシーンは、世代間の対立をあらわにする場面でもあるのだ。 
 そこまで読み解けば、ファーカイルは白人ではありえないことがわかるだろう。たとえ緑色の目をしていても。

 また、「黒人」だという見方は、非白人をすべて「ブラック」と呼んで団結した人たちの用語からすればあたっているが、フローレンスやベキのような「黒人」は当時南アフリカの法律では「ネイティヴ」と呼ばれた。だから「ブラック」というのはあくまで「非白人」という大雑把なカテゴリーなのだ。そこにはカラードもインド系もアジア系も入った。闘争の最終段階では「we black」と明言した反体制の白人闘志もいたくらいだ。そしてケープタウンはこのいわゆる「カラード」が「ネイティヴ」より多い街だったのだ。

 ということを考えると、ファーカイルはやっぱりカラードか、と思いいたる。おそらく、そうだろう。カラードといっても、肌の色とか文化的な背景とか、じつにさまざまなんだけど。
 そして作家は「ジョン・クッツェーはあたうるかぎりこの語を使うのを避けた」と『サマータイム』のなかで元恋人・同僚のソフィーに言わせていたことも思い出したい。


(2014年11月にアデレードで開かれたTraverses: J.M.Coetzee in the World の初日の朗読でクッツェーはこの『鉄の時代』の冒頭を朗読した。)

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付記:そもそもVercueil・ファーカイルという名前は、いわゆるバンツー系(コーサとかズールー)の黒人の名前ではない。この作品中に出てくるThabane・タバーネとか、『恥辱』のセクハラ委員会の委員長Mathabane・マタバーネはともにバンツー系の名前だが、Vercueil・ファーカイルは明らかにフランス語かオランダ語起源の名前をアフリカーンス語読みしたもの。「V」は「ヴ」ではなく「フ」に近い音なのだ。これは2006年の初来日時に、作家本人に何度も発音してもらって確認した。