Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2022/11/16

J・M・クッツェー絶頂期の短篇集『スペインの家:三つの物語』発売です

 J・M・クッツェーの絶頂期に書かれた三つの短篇が日本語になりました。『スペインの家:三つの物語』(白水社 Uブックス)です。予定より少し早く11月24日発売で、版元サイトに書影も出ました! この本の原書を入手した経緯はここでお知らせしました。

白水Uブックス, 2022
 収録された「スペインの家」「ニートフェルローレン」「彼とその従者」は、クッツェーの移動期にあたる2000年から2003年に書かれた短篇です。

「スペインの家」が発表されたのは2000年、『恥辱』で2度目のブッカー賞を受賞したばかり。これから移り住む家を、中高年になった男性が結婚する相手に喩えて、あれこれ考える話です。移民先の土地の人たちとの関係はどうなるか、なんてことも描かれています。

 次の「ニートフェルローレン」は62歳まで住んだ南アフリカという土地(農場)は、こんなふうに使われることだって不可能じゃなかったはずだ、と残念に思う気持ちがじわじわとにじみ出てくる作品。そして最後の「彼とその従者」はノーベル文学賞受賞記念講演で、本邦初訳です。

 どれも、飾らない端正な文体で、サラサラと読ませますが、最後の「彼とその従者」はなかなかの曲者です。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をベースにしたポストモダンぶりを楽しんでいると、だんだん「?」となってくる。既知の作品世界の要素をちりばめながら、作家個人の体験へと読者を引きつけていく寓意的な物語なんです。クッツェーはこの短篇を、2003年12月にストックホルムで朗読しました。

 J・M・クッツェーがノーベル文学賞を受賞したのは、南アフリカのケープタウンからオーストラリアのアデレードへ住まいを移した翌年のことです。

 クッツェーという作家がどんな作品を書いてきたか、ケープタウンからアデレードへ移ってどう変化したのか、彼の作品は単なるオートフィクションじゃないのだということも含めて、「訳者あとがき」で謎解きをしました。この作家の曲者ぶりを、ぜひ確かめてください。
 謎解き解説のタイトルにした「大いなる思想と寓意の海へ」は編集者のSさんの発案で、「訳者あとがきに代えて」使わせていただきました。

Penguin 版、2004
 さてさて、Uブックスのカバー(左上の写真)はジョン・クッツェーの渋いプロフィールですが、もうお気づきでしょうか? ここには作家名:J. M. Coetzee に含まれるアルファベットがすべて使われているんです。それも変形を重ねてデフォルメした文字群で描かれています。

 ノーベル文学賞を受賞した翌年にペンギンから出た、おしゃれな、ざらっとしたベージュの布張りの本に使われていたプロフィール(右の写真)です。これは2006年9月に初来日したジョン・クッツェーから何人かの人が、お土産にプレゼントされた本でもありました。

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追記:2022.11.18──Uブックスの帯をとった1冊とつけたままのものを並べて写真に撮ってみた。それをアップして、気がつきました。Penguin版のオリジナル・デザインと微妙に違うのです。襟のところが、、、ふむむむ。

 



2022/11/01

八巻美恵『水牛のように』をしみじみと読む秋

 暑かった夏が終わり、秋の気配に喜びつつも、この一年間の怒涛のような時間からようやく抜け出せてホッとしすぎてしまったのか、先月は脱力のあまり投稿ゼロとあいなりました。気がつくと今日はもう11月です。


 八巻美恵さんの『水牛のように』 をポツポツと読んでいます。おすすめです。これは一気に読みたくなる本だけれど、一気に読んでしまうにはもったいないほど「美味しい本」なので、はやる気持ちをおさえて、毎日、ちびちびといただいています。美味しいチョコレート、いや、美味しいリモンチェッロ(どうしてこのお酒の名前が出てくるか、それはこの本を読めばわかります!)を舐めるように、読んでいます。

 ガッツリ翻訳をやったあとや、昔読んだ本を書架の奥から引っ張り出して(自分の記憶を訂正し)引用しながら書いたりしたあとに、このエッセイ集を手に取って、はらりと開く。読みはじめると、肩の凝り、首の凝り、そして気持ちの凝りまでほぐれてくるんです。

 この『水牛のように』は、毎月「水牛」のウェブサイトで更新される短めのエッセイをまとめた「日々のかけら」(あ、これ、前にも読んだかな)と、しっかりエッセイと(これは初めてかも、でもひょっとしてあそこで……)とが混じりあっていて、こちらの記憶も定かではなく、ふんわり混沌としてきます。日付はあっても年の記載がないのです。そしてそれが心地よい。効能は抜群! それがどういうことかは……ふふふふ、ふっ🌹

 八巻美恵さんと、この世で初めて会ったのは、多分、1970年代の半ばで、わたしがまだヘロヘロOLをやっていた時代でした。知人が企画したコンサートを手伝ったときでしたが(たぶん八巻さんは覚えていないと思う)、80年代になって「水牛通信」に混ぜてもらってからは、断続的に会うようになって、わたしが「アフリカ」で忙しいころまた少し遠ざかり、落ち着いてきたころ復活して……という感じだったかな。

 そして2014年に出した第四詩集『記憶のゆきを踏んで』を八巻さんに編集してもらったのでした。装丁は平野甲賀さん、発売はおなじころ出た、J・M・クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』の版元インスクリプト。

 その後、藤本和子の本を復刊させるために集まった「塩を食う女たちの会」で飲み会を開くようになって3冊の復刊が成りましたが、八巻さんはその中心にいつもいた。ふわっと、重力のないような不思議な存在感を発揮して。

 エッセイ集をはらりと開くと、そのあたかも「重力のないような」がたちどころに伝播して脳内に透明な膜をはり、独特な心地よさを醸成します。その不思議さには、分析なんかしちゃだめよ、ときっぱり言われているようなところがあって。。。ふむ。ただ、感じていたいような、月とか星とか花なんかもたくさん出てくるエッセイです、(あっ!そうか!)

 帯は、斎藤真理子が書いた「読書感想文」から取られています。発行が平野公子の horobooks(hello@horobooks.net)、編集が賀内麻由子、装丁・本文デザインが吉良幸子、カバー画が木村さくら、という面々で、本に手を触れると紙からも指先にしっかり伝わってくる、とても素敵な本です。(敬称略)