Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2023/08/09

渋谷で映画「サントメール ある被告」を観てきたのだ

 朝から雷が鳴って、ざざーっと雨が降り、いきなり青空に白い雲が浮かんだかと思うと、また一天にわかにかき曇り……というのがくり返される1日だった。

 でも行ってきたのだ。金輪際いくもんかと思っていた「渋谷」へ。宮下坂側のBunkamuraシネマで観てきたのだ。噂の映画「サントメール」を! とてもよくできた映画だった。映画館で映画を観るのは、7年ぶりだ。

 まず大学の講義で始まる。マルグリット・デュラスがカメラに収めた白黒の映像が流れる。髪を切られて丸坊主にされる女性たち。対独協力者のフランス女性たち。

 講義をするラマは、売り出し中の若い作家だ。彼女が北部の町サントメールヘ赴くのは、そこで開かれる裁判を傍聴するためで、被告は15ヶ月の赤ん坊を満潮の浜辺に置き去りにした(自分では育てられない赤ん坊を海に返してやった?)女子学生ロランス。セネガルからやってきて、完璧なフランス語を話すロランスは、幼いころから現地語であるウォロフ語を話すことを禁じられて育った優等生だ。親の期待が重たかったと語るロランス、父は法律を学ぶなら学費を出すと言ってくれたが、彼女は哲学を学ぼうとする。すると学費を打ち切られ、身を寄せていた叔母との関係もうまくいかなくなって、ある男性と暮らし始める。やがて妊娠、ひとりで出産することになり、そして赤ん坊を……ラマはこの裁判を元に新作を書く予定なのだ。

 実際に起きた事件の裁判記録を用いてシナリオが書かれ、この映画が制作されたという。監督はセネガル出身のアリス・ディオップ。

 裁判の過程で、何が起きたかが少しずつ明らかになっていくのだけれど、このやりとりが絶妙。俳優の選び方もいい。裁判官も、被告の弁護士もキレキレの、しかし、人間的な心を失わない女性として描かれている。黒人女性のラマとロランス、白人女性の裁判官と弁護士、彼女たちの表情の変化と無変化で、観るものの想像力が否応なく掻き立てられる。

 何度か傍聴に通ううちに、ラマはロランスの母親と知り合う。直感力の鋭いその母親に、ラマは妊娠していることを見抜かれる。自分の母親と感情的にすれ違う記憶が何度もラマの脳裏をよぎる。

 事件の背景に埋もれる事実を掘り起こすための「なぜ?」が全編にあふれているが、決して「説明」的にならない。むしろそう簡単に文化の差異や歴史の暴力が、人間と人間の関係(ここでは母と娘)におよぼすものを言語化できるわけがないのだ。なぜ? と観客も自問し、考えながら、積極的にコミットすることをこの映画は要求してくる。裁判の結果も出さない。最終弁論と裁判官のコメントだけで終わる。それでいて、観るものにはある納得が準備されていもいて、制作者が安易な結論を観客へ押し付けない演出がなされている。そこがこの映画の最良のポイントだと言えるだろう。

 ヨーロッパ言語では「説明不可能」なものを、ヨーロッパ言語を使いながら、そこに浮かび上がらせる手法。

 シナリオを書いたのが、かの、マリー・ンディアイだと知って、膝を打つ。

 最後の方で、いきなりニーナ・シモンの「Little Girl Blue」が流れ、おそらくダカールと思われる街並みが映し出される。ここで感情がグッと柔らかくほぐされ、ほろりとしそうになるのだけれど。ああ、そうだよな、最後はやっぱり母と娘の関係の、繋がりの、、、ちょっとだけほの明るい場面が挿入されて終わる。それでこれは記憶のハッピー・メンテナンスなんだな、と納得するのだ。

 途中、ホテルでラマがPCで観る映画のなかに、息子を溺愛する母親の映像が挿入されていて(どうやらモロッコかアルジェリアが舞台の映画)、その息子が弦楽器を奏でる夢想シーンがある。そこに流れるのが、三味線を弾きながら女性が歌う端唄か小唄のようなんだが、そこがなんとも「エキゾチック趣味で」おかしかった。

(追記:PCの映画はパゾリーニの『王女メディア』1969 だそうです! 学生のころ観たけどな、全然覚えてなかったよ、マリア・カラス!😅)


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2023.8.12──付記。上の感想は作品構成とか背景とか描かれ方とかを中心に書いたのですが、この映画は2組の移民の「母と娘」を炙り出す映画でもあるんですね。

また、57歳の白人男性が、自分の娘の結婚式のときロランスを赤ん坊ともどもホテルに追いやっておいて、家族には絶対に紹介しなかったことが描かれているが、彼が身分の不安定な若いセネガル人留学生を「人間として壊れるほど軽く扱った」ある種の記録映画のようでもある←ここ、次に細かく書いてみたい。