Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2007/12/29

「遠いアフリカ」から「等身大のアフリカ」へ

 1999年に北海道新聞に書いた書評に加筆しました。あれから8年あまりの時がたち、さて、なにが変わり、なにが変わらなかったか、とあたりを見まわして、今年の最後の書き込みにしたいと思います。
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 アフリカ文学を読むための絶好の案内書がついに出た! といっても少しも大げさではないと思える本が、ようやく登場した。福島富士男著『アフリカ文学読みはじめ』(スリーエーネットワーク、1999年)である。

 ヨーロッパの東洋世界に対するものの見方や考え方を、オリエンタリズムとしてとらえ、綿々と受け継がれてきたその思考様式や価値観を、鋭く分析し、厳しく批判したのはエドワード・サイードだが、この構図のなかの「東洋」を「アフリカ」に、「ヨーロッパ」を「アメリカ合州国」に置き換えて論じたのが、1993年に黒人女性として初めてノーベル文学賞を受賞した作家、トニ・モリスンである。その著書『白さと想像力/Playing in the Dark』(邦訳は朝日選書、1994年)のなかでモリスンは「アフリカニズム」という語を用いて、言語のすみずみにまで浸透しているアフリカと黒人、また黒さそのものにまつわる白人上位の思考と知覚の様式をあらわにしてみせた。
 本書『アフリカ文学読みはじめ』は、このような脈絡からみても、あるいは前知識などいっさいなしにアフリカ文学を読もうとする人にとっても、たぶん、目からウロコが何枚も落ちる本だと思う。「エキゾチシズムの色眼鏡」なしにテキストを読むための、格好のガイドブックになっているからだ。

 南アフリカの2人のノーベル賞作家、ナディン・ゴーディマ、J・M・クッツェー、あるいは、ズールーの民族詩人、マジシ・クネーネ、野間賞を受賞したジンバブウェのチェンジェライ・ホーヴェなど、日本でも知られた作家、詩人はもちろん、あまり馴染みののない作家のものも含めて、英語圏アフリカから発信されてきた多くの作品を引用しながら、口承文芸から植民地時代の文学を経て現在にいたる、南部アフリカの文学世界の特徴や、背景を、平易な語り口で展開している。

 読みすすむうちに、西欧の知識経由で、知らず知らず私たちのなかに養われてきた「遠いアフリカ」に対する固定観念、アフリカニズムともいえる薄い皮膜が、ゆっくりと、何枚もはがれていく。思わぬ発見や、覚醒がいくつもあるはずだ。この本の最大の特徴はなんといっても、アフリカに生きる人たちを、あくまで、等身大に見る窓が大きく開かれていることだろう。
 そんな窓から、興味をそそられる風景を見つけたなら、さっそく具体的な作品世界に入っていくのをおすすめしたい。長編、短篇、お話など、さまざまな形式の作品を含む11冊のアフリカ文学叢書が、滋味ゆたかなことばたちを準備して待っている。また、本書の各章末には原書リストと、ここ十数年ほどのあいだに出版されたアフリカ文学の邦訳リストも網羅されていて、とても重宝!
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付記:このサイトへ行くと、南アフリカ文学邦訳書リストがアップされています。南部アフリカではありませんが、ぜひ、参照してください。

2007/12/25

週刊ブックレビューで『アメリカにいる、きみ』が…

 来年のことをいうと鬼が・・・という諺も、なんだか遠いむかしの話のような気がしますね。
 うれしいお知らせです。新春のTVに、アディーチェの本が「出演」することになりました。NHK衛星第2TVの、1月13日午前8時放映の週刊ブックレビューで『アメリカにいる、きみ』が取りあげられます。評者は、1977年生まれのアディーチェとおなじ世代の若い作家! 
 ぜひとも若い読者にとどいてほしいと思ってセレクトし、訳した作品なので、これはとても嬉しいニュースです。

************** 来年は、長編『Half of a Yellow Sun/半分のぼった黄色い太陽』も訳すことになりました。アディーチェが、父母や祖父母が体験したビアフラ戦争について書き、2007年にオレンジ賞を受賞した作品です。
 気を引き締めて、新しい年を迎えたいと思います!
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2007/12/18

アディーチェ書評「物語から描くアフリカ」

 アディーチェの『アメリカにいる、きみ』がふたつの新聞で書評されました。
 まず、中村和恵さんが12月16日付けの北海道新聞の書評で、だれもが身構える「アフリカ」とか「ナイジェリア」という語に、だいじょうぶ、ふつうの人の暮らしの細部についてのエピソードから描き出される本だから、と書いてくださいました。そうなんです! ふたたびの、Muchas gracias!!
 また、12月9日の朝日新聞の書評には「肌理(きめ)こまやかで伸びやかな語り口にこそ瞠目すべし」としめくくる、望月旬氏の評が載りました。これもまた、的を射た嬉しいことばです!!

 昨日、東大駒場で開かれたJ・M・クッツェーさんの自作朗読会は120名ほどの観客で、とてもよい雰囲気の会でした。2週間あまりの滞在の最後を飾る朗読会に、この作家としてはめずらしく、最後に5人ほどの質問を受けて、それに丁寧に答えていました。
 今回の来日はパートナーのドロシー・ドライヴァーさんもいっしょ。初めてお目にかかるドライヴァーさんは、南部アフリカの文学、とりわけ女性作家の作品研究を専門とするアカデミックです。興味深いお話がいろいろ聞けて、収穫の多い会になりました。

2007/12/16

明日、朗読会があるJ・M・クッツェー氏のノーベル賞受賞時の記事

 2003年10月に時事通信のために書いた拙文を「南アフリカのワインを飲む会」からここへ移動します。移動にあたって、事実関係をより正確にするため2箇所、加筆しました。
 あくまで2003年の時点で書いたものです。その後のことは2006年8月に出た拙訳『マイケル・K』のあとがきや、このサイトの「クッツェーの微笑、あるいは…」に詳述しましたので、参照してください。
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「2003年のノーベル文学賞はJ.M.クッツェーが受賞」         
 
J・M・クッツェーが、ついにノーベル文学賞を受賞した。
 毎秋、最終リストに彼の名が残るようになって何年になるのだろう。最初に耳にしたのは『マイケル・K』を訳していたときだから15年も前のことだ。以後『夷狄を待ちながら』など8作品が邦訳されている。
 南アフリカの作家、ジョン・マクスウェル・クッツェーは1940年2月9日、オランダ系植民者(アフリカーナー)の父ザカライアスと、アフリカーナーとドイツ系植民者の娘である母ヴェラとのあいだに、ケープタウンで生まれている。クッツェーという名は典型的なアフリカーナーの姓だが、家庭では英語が使われたため、この作家の第一言語はアフリカーンス語ではなく、英語になった。
 人種によって苛烈に区分けされた社会でアウトサイダーとして育ったことが、作家としての自己形成に深く影響していることは間違いない。アパルトヘイト(人種隔離)体制が強化された1940〜50年代の南アで、複雑な疎外感を感じながら成長したころのことは拙訳『少年時代』にも詳しい。
 ケープタウン大学で数学と文学を学んだ後、ロンドンでコンピュータプログラマーとして働きながら修士論文を書き(この時代のことは『青春時代』未邦訳…に詳しい)、さらに米国のテキサス大へ留学し言語学で博士論文を仕上げた。ニューヨーク滞在時にベトナム反戦集会に出たため、ビザが発給されなくなり、やむなく帰国。ケープタウン大学の教職を得て、74年に実験的作風の『ダスクランズ』を出版したのを皮切りに、発表する作品が次々と名だたる賞を受賞。1999年にはブッカー賞史上初の、2度目の受賞者となって、マスコミの話題をさらった(受賞作は83年の『マイケル・K』と99年の『恥辱』)。最新作の『エリザベス・コステロ』を含めて、これまでに小説やメモワールを11冊、エッセイ集を4冊発表、アンドレ・ブリンクとの共編著やアフリカーンス語からの翻訳などもある。

 クッツェーは、91年におなじくノーベル文学賞を受賞した南アの作家ナディン・ゴーディマと、作風や政治的スタンスなどをよく比較される。ゴーディマの作品が南アを舞台にしたリアリズムに貫かれているのに対し、クッツェーは一作ごとに南アと架空の舞台を行き来しながら書き方を変えてきた作家だ。
 だが、寓話的な手法を駆使した検閲制度下でもアパルトヘイト撤廃後も、無駄をそぎ落とした文体、痛々しいほどの内省といった特徴は変わっていない。西欧的カノンを引用し解体し、パロディ化しながら西欧植民地主義の源を根底から批判しようとする、知的で倫理的なその作風は、読者の意識の薄皮を何枚も剥がし、微妙にずらし、後戻りできないところへと導いていく。一度読んだら病みつきになる作家である。
 たまたま南アフリカという土地に白人として生を受けたことに、あくまで個人として向きあおうとする作家クッツェーの受賞は、狭い集団意識に逃げ込もうとする人間への痛烈な批判でもあり、また、西欧中心主義的な世界文学の受容から抜け出せない北のアカデミズムへの、南半球からの強力なパンチとも受け取れる。
 大のマスコミ嫌いで、ブッカー賞受賞式を2度とも欠席するという徹底ぶりだ。今回の受賞も、定例講義のためにシカゴ大学に滞在していたクッツェー自身はまったく知らず、スウェーデン・アカデミーが本人と連絡を取るのにずいぶん手間取ったと報じられた。
 人柄は誠実そのもの、拙訳書を送るたびに、几帳面にすぐ返事をくれた。『少年時代』の翻訳時、作品内の時間的矛盾について質問すると「嗚呼(アラース)、間違いました」とじつに率直なことばが返ってきたことを思い出す。

2007/12/08

週末に読む『アメリカにいる、きみ』

 児童文学の翻訳で著名なさくまゆみこさんが、12月8日付けのmsn.産経ニュースに、C・N・アディーチェの短編集『アメリカにいる、きみ』の書評を書いてくれました。
 アフリカの子どもたちの現状にかかわりながら、アフリカの絵本や、若者向けの本を訳してきた人ならではの視線で、アディーチェの作品の魅力をとてもよく伝えてくれています。ぜひ、読んでください。Muchas gracias!!!

 また、昨日、再来日中のJ・M・クッツェーさんにこの本をプレゼントすると、「これは英語のオリジナルはまだ出ていないですね。すばらしい! ありがとう!」と、とても喜んでくださいました。
 

2007/11/30

鏡のなかのボードレール(2)

「自分が見せ物として貸し出されるとか、所有者である男から動物の調教師に売られたり、科学者に賃貸しされるなんて想像つきますか?」

 そんなショッキングなことばで始る記事が南アフリカの新聞に掲載されたことを、ある新聞のコラムに書いたのは1999年3月のことでした。それは、ゾラ・マセコ監督の「サラ・バートマンの生涯」というドキュメンタリー・フィルムが、南ア国内で放映された記事にまつわるものでした。ここではまず、その後日譚を。

 サラ・バートマンは18世紀末にグリクワ民族として生まれた女性です。グリクワというのは南アフリカの先住民族のひとつで、ヨーロッパ人入植者たちが「ホッテントット」という蔑称で呼んだグループに入れられてきた人たちです(2012.6.13付記:『デイヴィッドの物語』を書いたゾーイ・ウィカムによると、バートマンがグリクワだったという説には異論もありそうです。また現在グリクワとして生きる人たちは「コイサン諸民族」のひとつであるとされ、長いあいだ、コイコイ=ホッテントット、サン=ブッシュマン、とされてきた区別そのものにも疑問を呈する研究が出ています。このブログを書いたのは『デイヴィッドの物語』を訳す前だったせいか、記述がやや不正確な箇所があります。ごめんなさい。正確な詳しい情報はぜひ、もうすぐ出版される拙訳『デイヴィッドの物語』本文やドロシー・ドライヴァーさんの緻密な解説を読んで確認してください)。

この投稿は、拙著『鏡のなかのボードレール』におさめられることになりました。


つづく

2007/11/19

わたしの好きな本 (2)『ティンカー・クリークのほとりで』

 この表紙に使われている木の実がなんだかわかりますか? わかる人は相当の樹木好きです。これはプラタナス、別名スズカケノキの実。樹皮が自然に剥けて、まだら模様になった幹が、遠くから見ると不思議な印象をあたえる木です。直径3センチくらいのまるい、かわいらしい、鈴のような実をつけます。大きな葉っぱが特徴で、秋になるとバサリ、バサリと地面に落ちてくる。
 作者アニー・ディラードはこの本で1974年にピューリッツァ賞を受賞しました。日本で邦訳が出たのは1991年(めるくまーる刊)、もうずいぶん前のことですが、わたしにとってはいちばん最初に翻訳というものをやった思い出深い本です。途中で、もっぱらアフリカのほうを向いてしまったわたしに代わって、共訳者の金坂留美子さんが仕上げてくれました。
 とにかく、人間の感覚のみずみずしさが、目も眩むほどの豊穣さで書き連ねられた書物です。心を澄まし、ひたすら見つめると見えてくる、わたしたちを取り巻く世界の不思議さ、自然界の生命の豊穣さ、そして、そのあまりの無駄遣い、そこに織り込まれた不条理な美しさ、地球という惑星の美しくも残酷な風景が、細部につぐ細部の積み重ねで、読む人を圧倒させる筆致で描かれていきます。
 賑やかすぎる世俗の世界にいささか疲れた人には、とりわけお薦め。一気に読み通す必要はありません。ぱらりとページを開いた章を、折りに触れて、ぽつりぽつりと読むのに適した本です。心が洗われること必至です。
 いまは古書でしか入手できませんが、いつか、文庫になるといいなあ、と秘かに思っているのですが・・・。
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付記:プラタナスが日本に渡来したのは明治末期。街路樹として葉を茂らせるようになった大正初期に、さわやかな初夏の街の情景を歌った、アララギ派歌人の歌を一首。(篠懸樹=プラタナス、と読みます。)

 篠懸樹かげゆく女(こ)らが眼蓋に血しほいろさし夏さりにけり  
                          中村憲吉

2007/11/14

ラッキー・デューベ、ナディン・ゴーディマ

南アフリカのカリスマ的レゲエ歌手、ラッキー・デューベが死んだ。
 享年、43歳。現地時間の10月18日午後8時すぎ、ヨハネスブルグで。車で子どもたち2人を親類の家まで送っていったところを、カージャック犯に撃たれたのだ。突然の銃撃と伝えられる。
 3年後のサッカーのワールドカップ開催をひかえて、南アの治安の悪さが話題になっている矢先、国民的英雄であるデューベが殺されたとあって、南ア警察は犯人逮捕にむけて、精鋭の捜査員からなる特別捜査班を組織。犯行から3日後、5人の容疑者がスピード逮捕された。
 そのうち4人(2人はモザンビークの出身*)が起訴されて23日、ヨハネスブルグの法廷に姿を見せた。だが裁判は手続き上の問題から1週後に延期され、30日には捜査不十分でさらに1カ月延期された。
 この半月にわたって南アのメディアは、不出世のミュージシャンを惜しむ記事や、大勢のファンがつめかけた追悼集会の模様などを連日伝えている。

年に2万人が殺人によって命を落とすといわれる南アで、暴力犯罪の対象となるのは有名無名を問わない。昨年はノーベル賞作家、ナディン・ゴーディマも自宅で強盗にあった。当時82歳のゴーディマが、ためらうことなく現金と車のキーを渡すと、若い犯人たちは66歳の家政婦と彼女を物置に閉じ込めた。
 無事に救出されたゴーディマは「1人が腕で私を押さえ込んだ。腕は筋骨たくましくて滑らか。そのとき思ったわ。この腕をもっとまともなことに使う場はないものかって」と語る。「南アフリカは暴力犯罪をめぐる深刻な問題を抱えている。でも、解決は警察だけの問題じゃない。犯罪の背後にあるものを見なければ。機会を奪われ、貧困のなかから出られない若者たちがいる。彼らには教育と職業訓練と雇用の場が必要なの。犯罪を減らす方法はそれしかない」とも。
 強盗に押し入られた恐怖よりも、この国が抱える貧富の差と、職のない大勢の若者のことに心を砕く、ゴーディマらしいことばだ。

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付記:11月13日付、北海道新聞夕刊に掲載されたコラムです。

 *カージャック犯の容疑者として逮捕された4人のうちの2人が、モザンビークから「富める」南アへ流入した人たちだったことが印象的です。これは、アパルトヘイト体制下の南ア政府が周辺国に対して、「不安定化工作」を行ったことと無関係ではなさそうです。当時白人政権は、アパルトヘイト体制維持のために、周辺国の反政府勢力になりふりかまわず武器や資金をあたえて政情不安をあおり、その国が安定した国力を得ないように画策しました。その結果、政治的に混乱し、経済的に疲弊した国の代表例が、モザンビークやアンゴラだったのです。
 ゴーディマは、強盗事件によって世界の耳目が自分だけに集まることに、とても戸惑ったと伝えられています。

2007/11/09

アディーチェ! アディーチェ! アディーチェ!


 昨日発売の「週刊文春」でこの本が取りあげられました。評者の池澤夏樹氏が、アディーチェの魅力を鋭く柔らかな感覚でじっくりと読み込み、この本の同時代的な意味を明らかにしています。とりわけ、いくつかの短編に出てくる、名前にまつわる人と人の関係の問題を、「誇り」ということばをもちいて的確に指摘していたことが嬉しかった。訳者としてはとても励まされる評でした。
 Muchas gracias!
 せっかくなので、中日新聞/東京新聞に書いた拙文を、ここに移動します。
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 いま一度、C・N・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)のことを。
 この9月で30歳になったばかりのナイジェリアの俊才、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品を初めて読んだときは、心地よい驚きがありました。すばらしく切れのよい、心にしみる文章をさらさらと書ける、天性の資質に恵まれた作家がついにアフリカから出てきた、と思ったからです。
 短編集『アメリカにいる、きみ』のためにセレクトしたのは、運よく渡米した少女が異文化のなかで働きながら、恋人に出会い、閉塞感から解放されていく表題作をはじめ、ナイジェリアや米国を舞台にした、心にまっすぐ届く10編です。さまざまな国の人と隣り合わせになる暮らしのなかで、困難な同時代を生きるアフリカ人の声を、肩ひじ張らずに楽しんでもらえる本にしました。
 いま世界文学の先頭を切っている作家です。(2007年9月25日、河出書房新社より発売、1890円)
        東京新聞(10/25)夕刊「翻訳ほりだし物」より
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☆おまけ情報:もっと読みたいと思われる方は、つぎのサイトに最新作が載っています。この作家は、なんだか、ある種のリトマス試験紙みたいな存在になっていきそうな気配です。
My American Jon ←作家の写真も!
REAL FOOD ←これは最新エッセイです。
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2007/11/08

『バーガーの娘 上/下』by ナディン・ゴーディマ


1991年のノーベル文学賞を受賞した南アフリカの女性作家、ナディン・ゴーディマの代表作。
 この作家は、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離)政策との関係で、日本でも名前だけはずいぶん早くから有名になってしまったけれど、本格的な長編作品が邦訳されたのはこの『バーガーの娘』(福島富士男訳/みすず書房 1996年)が最初でした。それまでにも短編集は何冊か出ていましたが、1994年に中編『ブルジョワ世界の終わりに』が出て、1996年にこの『バーガーの娘』が邦訳されました。
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 物語は1960年代初頭、12歳か13歳の少女ローザ・バーガーが、拘禁された母親に差し入れをする場面からはじまる。父も母も、結婚した当初から、反体制活動のために逮捕され、拘禁される生活をくりかえしてきた。たったひとりの弟は、幼くして溺死。やがて母は病死し、父も獄死する。
 南アフリカのオランダ系白人、アフリカーナーの名門に生まれながら、そのアフリカーナー集団とは真っ向から対立する活動をつづけてきた父(ネルソン・マンデラの弁護をしたブラム・フィッシャーがモデル)と母をもって生まれたローザは、それまでよりどころとしてきた家族を失い、27歳のときに、逃げるようにヨーロッパへと旅立つ。
(それは当時、白人にしか許されない「自立のための旅」ではあったのだけれど。)
 ニースに住む、父の前妻、カーチャのもとへ身をよせたローザは、そこでめぐり逢ったフランス人と恋に落ちる。バカンスが終わり、ロンドンで落ち合うはずだった恋人の代わりに、彼女が出会ったのは……。
 全体にピーンと張りつめた緊張感。ひとかけらの幻想も許さないことば遣い。語りの相手を交替させながら、自在に会話を組み込んでいく独特な文体。心理の裏の裏を読む、屈折した光によって描き出される、さまざまな人物像。
 一歩まちがえると絶望の奈落の底へ蹴落とされるような状況で、踏みとどまり、生き延びるための、その精神のありようを描ききろうとする姿勢に、ゴーディマとはこんな作家だったのか、とあらためて思った。
 マンデラが終身刑をいいわたわされたリボニア裁判(1963-4年)あたりから、ローザが帰国して投獄される1976年のソウェト蜂起直後までの、南アフリカの現代史を小説というかたちに結晶させた作品である。南アでは発禁処分を受けたこともある。
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付記:その後おなじ訳者で1998年には『この道を行く人なしに』が出ています。アパルトヘイトから解放されたこの作家の、じつにのびやかな筆の運びが楽しめる傑作です。その書評はこのサイトへ

2007/11/07

『ポイズンウッド・バイブル』

 バーバラ・キングソルヴァー(Barbara Kingsolver)はわたしの大好きな作家です。米国のベストセラー作家で、邦訳も何冊かあるのですが、どういうわけか、日本ではあまり知名度が高くありません。もったいないことです。
 ここではアフリカを舞台にした、『ポイズンウッド・バイブル』(永井喜久子訳、2001年 DHC刊)という、とても読ませる作品を紹介します。
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 舞台は中央アフリカ、時は1959年。米国南部出身のバプティスト協会牧師ネイサン・プライスが、妻と4人の娘を連れて、コンゴ川流域の村へ伝道に赴く、そこから物語ははじまる。妻のオーレアナ、15歳になる長女レイチェル、一歳年下の双子のレアとエイダ、そして幼いルース・メイ、この5人が交互に登場して、それぞれの視点と声とことばで、体験を語る形式で話は進んでいく。
 娘たちが気乗りしないアフリカ行きで、宣教師一家がたどり着いたのは、ベルギー領コンゴのキランガという村だ。「未開の人間に福音をもたらす」という「西欧的使命」をかたくなに信じる父は、村人の考えや習慣には聞く耳を持たず、自分たちの行いが、村人に災厄をもたらすことなど想像すらできない。
 家族を支配し、暴力を振るう男のもとで、食べ物さえも自力で手に入れざるをえなくなった妻や娘たちは、生き延びるために、否応なく自立の道を歩みだす。動乱のさなかに、美貌が頼りのレイチェルは、南アフリカの白人操縦士と逃亡し、気丈だがマラリアで動けなくなったレアは、愛するコンゴ人アナトールと結婚。エイダのほうは母親とアメリカに帰国して医者になり、幼いルース・メイは悲惨にも……。

 60年代のアフリカでは、民族自立の機運のもとに、続々と独立国が生まれた。旧ベルギー領コンゴも60年6月に独立し、民衆の強い支持を得て、ルムンバが首相に選ばれる。しかし、鉱山資源の豊富な南部カタンガ州が分離独立を宣言し、米政府の暗躍によってルムンバは逮捕され、虐殺される。それに続くさまざまな事情が、96年にいたるまで、モブツの完全独裁体制を許したのだ。
 そういった政治状況をきちんと書き込みながら、米国のベストセラー作家、キングソルヴァーはみごとな語り口で、コンゴという、豊かで過酷な自然と文化のなかに、身ひとつで投げ込まれた女たちの運命を、克明に描き出す。生き抜いていく女たちの語りによって姿をあらわすアフリカ、それが本書の最大の魅力となっている。
 フィクションならではの細部とリアリティーで、ふだんは遠いアフリカが、ぐんと身近に感じられること必至。とにかく読ませる。小説好きにはたまらない一冊である。
 原文で読みたい方は、こちらへ。

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付記:2001年9月、時事通信社によって配信された記事に加筆しました。
バーバラ・キングソルヴァーは、2001年秋の自国軍によるアフガニスタン攻撃に反対の声をあげた「もうひとりのバーバラ」でもあります。

2007/11/04

『サルガッソーの広い海』──ジーン・リース

 いまは古書でしか入手できないようですが、今月から刊行が開始される「世界文学全集」(河出書房新社)の第2期に入ることになった、ジーン・リース著/小沢瑞穂訳『サルガッソーの広い海』(みすず書房刊、1998年)。
 紙幅の関係で、以前書いた書評では触れることができませんでしたが、中村和恵さんによる巻末の解説が秀逸です。中村さんはその後、リースをめぐる大変興味深い文章をいくつも発表しています。カリブ海文学を考えるとき、この作品はとても面白い位置にあります。映画にもなりました。

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 シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」といえば、一昔前はだれもが読んだイギリス小説の古典といえるだろう。私はまず小学校の図書室で見つけた少女版──たしかタイトルは『嵐の孤児』(すごいタイトル!)──で読み、つぎに中学のころ、家の書架に並んでいた世界文学全集で再読した。そこには、孤児院を出たジェーンを家庭教師として雇い、やがて彼女に結婚を申し込む、口ひげをたくわえたお金持ちの紳士、ロチェスターなる人物が登場した。
 だが本書は、そのロチェスターの最初の妻、ジャマイカ出身の女性の目から書き改められた物語なのだ。狂女さながらに屋敷の屋根裏に幽閉されていた、あのバーサである。

 十代の私は「ジェーン・エア」をどのように読んだか。伯母一家から虐待され、孤児院では極貧と厳格な規律に苦しめられ、ようやく安定した職をあたえてくれたロチェスターの愛を得たのも束の間、重婚しようとした氏のおぞましい経歴を知り……と波乱万丈のジェーンの生涯に自分を重ね、夢中になって読みふけったのではなかったか。そのように読めるストーリーのなかで、植民地生まれのこの「忌まわしき狂女」は、ジェーンの幸福を邪魔する、不気味な存在として脳裏に焼きついていた。

 けれども、その女性の側からしてみれば、本国からやってきて、彼女の遺産目当てに結婚したこの名門の男性こそ、支配欲、無理解、放蕩、自己憐憫を絵に描いたような典型的イギリス人ということになる。彼女のほうは、生まれた土地から、根こそぎむしりとられるようにして連れ去られ、軟禁され、家に火を放って狂死するのだから。イギリスという異郷=帝国は、決して彼女をありのままには受け入れることはなかった。アントワネットという名前さえ、一方的にバーサと変えられてしまった。

 作者のリースは一八九〇年、カリブ海のドミニカ島に生まれたクレオールの作家だ。ヨーロッパ植民者の系譜だが、カリブの風と暑熱を全身に吸い込んで育った。黒人になりたかった、白人の、女性の、作家である。この幾重にも屈折したスタンスが、彼女の生まれた時代とともに、解き明かされるのを待つ混沌といった魅力を、この作品にあたえているように思える。

 とはいえ、作中、私がもっとも共感をおぼえたのは、オービア(魔術)を使う元奴隷のクリストフィーヌといいう黒人女性だったのだけれど。
 さまざまな意味で、いま、世界を見るときに不可欠な、視座の転換を確認できる作品である。

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付記:1999年1月24日付「北海道新聞」に掲載されたものに加筆しました。

2007/10/29

わたしの好きな本(1)『ハーレムの少女 ファティマ』


 ときどきこんな書評コラムもアップします。これまで書いたものが中心ですが、ずいぶんむかしのものも顔を見せます。へえ〜、そんな本があるんだ、と新鮮な気持ちで読んでくれる方がいることを願って…!
 まず第1回はファティマ・メルニーシー著/ラトクリフ川政祥子訳『ハーレムの少女 ファティマ』(未来社、1998年刊)。
 9年前に出たものですが、この本の中身はいまもって新しい!
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 モロッコの古都フェズを舞台にした、8歳の少女の目で見た女たちの日常生活の物語。そう書くと、なんとなくわかったような気になるかもしれない。
 でも、読み進むうちに、そんな思い込みは子気味よく裏切られる。
 むしろ、読み手である私たちのなかには、いまだにイスラム世界の内側、ベールに隠された暮らし、といったステロタイプなイメージとして、彼女たちを「未知の世界」に閉じ込めておきたい欲望が、意識されないまま眠っているのではないか。この本を読んでから、私はそんな疑問にとらわれている。
 過去百年にわたって、西欧キリスト教世界を通して見た世界観を否応なく学ばされてきた日本人にとって、これは新鮮な驚きや発見が随所にちりばめられている本だ。
「ハーレム」ということばひとつとっても、私たちが抱いているのは「権力を握った一人の男が多くの女性を囲っている後宮」といったイメージだけれど、そんな思い込みはさらりとくつがえされる。
 イスラム世界では、決しておろそかにされてはならないフドゥード(神聖な境界線)によって、多くの不自由を余儀なくされながらも、女たちは束縛の裏をかく術をみごとに発達させ、したたかに、賢明に生きてきたこと、そして、いまも生きていることが、少女の目を通して活写されていくのだ。
 なかでも私を爽快な思いにさせてくれたのは、主人公ファティマの母方の祖母、農場に住むヤースミーナだ。町中に住む女たちよりもずっと行動範囲が広くて、馬を乗りまわしたり、自然のなかで生き生きと暮らす場面が、じつに印象的。とりわけ、大勢の女たちが川べりで、競争しながら皿や鍋を洗う場面は圧巻。
 著者、ファティマ・メルニーシーは1940年生まれの、著名な社会学者で、モロッコ、フランス、アメリカで学び、海外で初めて博士号を取得したモロッコ女性だという。目からウロコの好著。
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付記:1998年10月初旬、共同通信社が配信したものに加筆しました。
(2001年9月以降、イスラム世界の情報はぐんと増えましたが、ごくふつうの人びとの暮らしが見えるものは、どうなのかしら?)

2007/10/28

チヌア・アチェベにマン・ブッカー国際賞


 「近代アフリカ文学の父」といわれるナイジェリアの作家、チヌア・アチェベ(Chinua Achebe)がこの6月にマン・ブッカー国際賞を受賞した。この賞は隔年に受賞者が発表され、個別の作品ではなくその作家の仕事全体にあたえられるもので、賞金は6万ポンド(約1400万円)。
 1958年に出版されたアチェベのデビュー作『Things Fall Apart/崩れゆく絆』はこれまで世界中で1000万部以上も売れた超ロングセラーだ。200ぺージほどの小説だが、アフリカ文学を知るためにも、植民地化による近代アフリカ社会の変遷を知るためにも、必読の書といっていい。70年代に邦訳が一度、出たようだが、現在は入手困難。ぜひ新訳で読みたいものだ。
 受賞後、アチェベはBBCに対して「アフリカ文学がやろうとしてきたのは、世界文学という概念の枠を押し広げることだった──そこにアフリカを含めること、アフリカは含まれていなかったわけだから」と述べた。この作家が『闇の奥』を書いたジョゼフ・コンラッドを「べらぼうな差別主義者」と呼んだことが長いあいだ、英文学者たちのあいだで物議をかもしてきたことを考えあわせると、エキゾチズムではないアフリカ文学が世界文学のなかに正当な位置を占めるためには、半世紀の道のりが必要だったということだろうか。「英文学」から「英語(圏)文学」へと視点の転換が進む時代に、現在76歳のこの作家の存在を評価せざるをえない時代になってきた、と考えていいのだろうか。

 若手作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ──アチェベとおなじイボ民族出身──がガーディアン紙に、尊敬する大作家の受賞を喜ぶコメントを寄せていた。彼女自身この7月に、ビアフラ戦争の内実を克明かつ人間的に描いた2作目長編『Half of a Yellow Sun/半分のぼった黄色い太陽』でオレンジ賞を受賞したばかり。

 ビアフラ戦争というのは1960年代末に、石油資源の利権をめぐってナイジェリアで起きた内戦で、その後もこの国はアフリカ諸国の例にもれず、「資源があるゆえの」政情不安定に悩まされている。
 しかし、豊かな口承文芸を背景に持つ、アフリカ最大の多民族国家であるナイジェリアはまた、南アフリカとならんで、多くの文学者を生み出してきた国でもある。しばらくは、ナイジェリアから目が離せない。
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付記:2007年8月28日付「北海道新聞」に掲載したコラムに加筆しました。

2007/10/19

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(5)

 思えば、この作家の笑顔の写真はそれほど多くはない。翌30日、「ベケットを見る8つの方法」と題した講演で、クッツェー氏は写真に残るベケットやカフカの眼差しは、凍りついたような視線、犬のような目、といったことばで語られることが多いが、イメージと実物には大きなズレがあるのではないかと疑問を投げかけた。
 カフカはよく「ミスフィット」という語とともに語られるが、じつはこの作家は保険会社につとめる優秀な社員で、写真の眼差しによって作り出され、流布しているパーソナリティとはちがい、同僚たちから尊敬されていたのだ、それにしても「fit=適合する」という語は、たった一音節ながら、なんと容赦ないことばだろうか、と。その前に延々とくり返された「サルとおぼしき生物=it と餌の入った箱の話」は、とどのつまり、「生き延びるための適応」を意味する、この「フィット」に繋がっていたのではないか、それに続く写真と眼差しの話も、冷たい、気難しい、人嫌い、といわれてきたクッツェー氏自身について暗に語っていたのではないか、とわたしは妙に納得した。この作家の境涯とも、じゅうぶん重なるように思えたからである。

 南アフリカ社会でアウトサイダーとして育ち、1960年のシャープビル事件のあとに故国を出る決心をし、大学卒業後にケープタウンを飛び出して行った先のロンドンでは、旧植民地生まれの部外者として歓迎されず、その後わたった米国からもヴィザの発給を停止されて、1971年に31歳で、アパルトヘイト体制の南アへ覚悟の帰国を余儀なくされたクッツェー氏は、以来、検閲制度をかいくぐりながら密度の高い小説作品をつぎつぎと世界に送り出してきた。解放から5年後、息子の死からちょうど10年後に、ようやく、のびやかな筆致で書いた『恥辱』を発表したが、アパルトヘイト撤廃後の南ア社会で生きる人たちを容赦なく描いたこの傑作は、翌年5月「人種差別的だ」として政府与党と人権委員会から公的に批判されることになる。
 2002年、クッツェー氏はついに南アを離れた。(作家自身は、あるインタビューで「祖国を出るのは離婚に似て内密なものだ」として、その理由をはっきりとは語っていないが、南アを離れたことは『恥辱』をめぐる批判や、その後の出来事と無関係だとは思えない。)(付記/2015.11.13:その後、J・C・カンネメイヤーの伝記などによれば、クッツェーがオーストラリアへ移住する計画を立て始めたのは1990年代の早い時期で、1999年の時点ですでにその計画はかなり進んでいた。したがって『恥辱』をめぐる騒動はたんなる偶然の一致だったことが明らかになっている。)そして03年10月にノーベル文学賞を受賞し、06年3月にはオーストラリアの市民権を得るにいたった。

 顔写真には撮影者と被写体となる人の関係がはっきり出る。9月29日の初会見の最後にわたしが撮った写真も、いざ現像してみると、ほおのあたりは笑っているのに、深い悲しみをたたえたような目もとは、とても厳しい。
 だがしかし、である。翌日、2時間半におよぶ講演が終わって、サインをもらう読者の長蛇の列からようやく解放されたクッツェー氏に、挨拶のために近づいて行ったときのことだ。
 「こんばんわ」といって手を差し出すと、一瞬「誰だ?」と相手を射すくめるように凝視したあと、その顔にこぼれんばかりの、破顔の笑みが浮かんだのだ。鋭く光る目の下には、これまで頑固に、厳しく、自分を律して生き抜いてきたことを思わせる、無数の皺が刻まれていた。
 そのときわたしは一瞬のうちに理解した。彼が見せるこの微笑みは、やがてわたしの記憶のなかで、飴色の光を放ちはじめることになるだろう、と。(了)☆☆☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/18

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(4)

 確かめておきたいことがひとつあった。作家のミドルネーム「M」をめぐる欧米メディアの対応に関するものだ。ある新聞にすでに書いたことだが、ここでも再度書いておきたいと思う。
 作家の名前はジョン・マクスウェル・クッツェーで、作品にはデビューから一貫してJ・M・クッツェーと記されてきた。しかし欧米の主要メディアはこれを、ジョン・マイケル・クッツェーと勝手に読み替えてきた。米のニューヨークタイムズ紙も、英のタイムズ紙やガーディアン紙も、仏のルモンド紙も。はては文学事典の類いまで。いくつかの根拠から「マクスウェル」が正しいことはわかっていた。
 1999年の『恥辱』で2度目のブッカー賞を受賞したとき、長年購読してきた南アの新聞「メール&ガーディアン」にも「マクスウェル」とあったので、やはり、とうなずいた記憶がある。しかし、なぜ欧米のメディアが訂正しないのか、疑念は晴れなかった。そこへ2003年10月3日のノーベル賞受賞記事内に、米のニューヨークタイムズと英のガーディアンが記者の署名入りで「生まれたときはマイケルだったが、それをマクスウェルに変えた」と書いた。この辻褄合わせを迂闊にも、わたしは真に受けてしまったのだ。
 「生まれたときからマクスウェルで、名前を変えたことはない」と彼が、静かに、確固たる口調で語るのを聞いたとき、あれは確かめもせずに作り上げた記事だったのだ、とそれを鵜呑みにした自分が恥ずかしかった。
 さらに「フランス語訳の『少年時代』でも裏表紙にジョン・マイケル・クッツェーと書いてありましたが」とたたみかけると、氏からは「彼らはジャン・マリー・クッツェーとまでいったんです!」ということばが返ってきた。大きな声ではなかったけれど、抑えた語気は烈しかった。
 なぜこういうことになるのか。このようなズレがなぜ起きるのか。ずっと考えてきて思い至ったのは、この作家のスタンスはある意味で、西側メディア、とりわけ欧米諸国のメディアが流す情報と事実との差を可視化することに貢献している、ということだった。ズレはそのまま放置する。一方的な決めつけをして恥じないのは、気づかなければならないのは、メディア自身なのだ、と。これは『マイケル・K』の第2章で医者が主人公の名前を誤って「マイケルズ」と呼びつづけたり、『フォー』で舌を切られて発語できないフライデーのある動作に、主人公が勝手な意味づけを行ったり、といった場面を書き込むことで、「名づけ」をめぐる権力構造を可視化させる手法にも通底する。

 話は音楽のことや彼が訳したオランダの詩人たちの作品、あるいはその訳詩集に彼が書いたオランダの国民性のことなどにおよび、ふたたび日本語の翻訳書へともどっていった。日本では一般に翻訳書には「訳者あとがき」というスペースがあることなど、作家にとっては耳新しい話だったようだ。
 そして「クネーネの叙事詩の翻訳にはとても苦労しました。その翻訳の最中に『マイケル・K』を読んだのですが、それがオアシスのように感じられて」というわたしのことばに、作家は「ふふっ」と笑い声をもらした。(つづく)☆☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/17

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(3)

 『鉄の時代』が発表された1990年は、南アフリカにとってはとても重要な年である。アパルトヘイト体制がはっきりと崩れていく、激動の年だったからだ。兆しはすでに前年にあらわれていた。89年1月中旬に当時のボタ大統領が脳溢血で倒れ(このニュースをわたしは、ジンバブエの首都のホテルの部屋にいて偶然つけたテレビで知った)、その後デクラークが大統領になって、10月にウォルター・シスルーをはじめとする7人の政治囚が解放され、いやがうえにも期待感はたかまっていった。翌90年2月2日にそれまで非合法だった解放組織が合法化され、ネルソン・マンデラが27年におよぶ拘禁ののち、同月11日に解放されて、人びとを苦しめつづけたアパルトヘイト体制が崩壊するという予感と、その興奮は頂点に達した。
 『鉄の時代』が書かれた86年から89年(作品末尾には、この作家にはめずらしく「1986─89」と記されている)という時期は、再度発動された非常事態宣言のもとで、一連の激変へいたる事実が着々と準備されていった時期とほぼ重なる。扉をめくると、作家がこの作品をささげた人たち(両親と息子)のイニシャルと生没年が刻まれている。こういったことからも『鉄の時代』という作品が、この作家にとって、特別の意味を含みもつ作品であることが推察できる。

 カフェでの会見は、沈黙とことばが拮抗する濃密な時間だった。わたしはほかにもいくつかの小道具を持参した。寡黙な作家との会話が行き詰まったときのための、話のネタである。まずは自分自身の三人称で書かれたバイオグラフィー。そこに並んだマジシ・クネーネの名前を見て、彼は質問してきた。「クネーネの叙事詩はズールー語から訳したのですか?」(答「いいえ、英語からです」)「彼が亡くなったのは知っていますか?」(答「ええ、8月にメール&ガーディアンの記事で知りました」)
 ベッシー・ヘッド、マリーズ・コンデ、エドウィージ・ダンティカといった名前に、「アフリカ系の作家が多いですね」と述べたあと、話はアフリカ出身の若手作家のことになった。翻訳中のナイジェリア出身の若手作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの名前を見て、「この作家のことはよく知っていますよ」といった。それもそのはず、アディーチェが短編「半分のぼった黄色い大陽」で受賞したPEN/デイヴィッド・T・K・ウォン賞の審査員の1人は、ほかならぬクッツェー氏だったのだ。それから何かいいたそうに、しかし、いいだせないような、どこかいぶかし気な表情を見せた。ああ、そうか、とわたしは察した。近刊と書かれたアディーチェ短編集「Collected Stories」(註/2007年9月に『アメリカにいる、きみ』として刊行)にはオリジナルがないのだ。「短編集はまだ英語版は出ていません。わたしが作品を選び、編集し、それについて著者から許諾をえました」というと、彼はホッとした表情を見せながら、大きくうなずき「彼女の第一小説の名前は、ええと…」と口ごもった。ほぼ同時に思い出した両者の声が、ユニゾンであたりに響いた。
 「パープル・ハイビスカス!」(つづく)☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/16

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(2)

 翻訳をするとき、あるいは作家論や作品論を書くとき、テキストとしてどの版を使うかはとても重要なことだ。クッツェー氏の作品の場合、いつも最初に出るセッカー&ウォーバーグ社版とその少しあとに出るヴァイキング版では作りが微妙に違っていることがある。ハードカバーから1年ほどあとに出るペーパーバックでは、英国と米国の読者層の違いを考慮してか、表紙に書かれる推薦文やうたい文句などは、当然ながらまったく違う。だからこれは要注意。
 たとえばいまわたしが訳している『鉄の時代/Age of Iron』の場合、ペンギン版のペーパーバックの表紙には Novel という文字があるけれど、これはオリジナルのセッカー&ウォーバーグ社版ハードカバーにもヴィンテージ版のペーパーバックにもない。つまり出版社がその作品の「何を前面に出して売るか」ということで、本の作り方が違ってくるのだ。そういった細かな違いに著者自身がどこまで関与しているか、これは定かではない。テキストクリティックにあたっては、テキストそのものの信頼性、つまり書籍の制作のプロセスにも十分に考慮する必要がある。書籍として出版される前にエージェント経由で送られてくるタイプスクリプトを、翻訳テキストとしてそのまま使うのはさらに危険だ。固有名詞の変更など、テキスト上の微妙な変化がかならずといっていいほどあるからだ。

 メールでのやりとりが終わった6月初旬、クッツェー氏が来日するらしい、というニュースが飛び込んできた。一瞬、あわてた。18年前に彼の作品を初めて読んでから、そのうちいつか、一度は会えるといいなあ、と夢想してきた作家が来日する! それも数カ月後に! というのだから。まだ最終的に決まったわけではない、という。だれに尋ねても「来るらしい」とか「来る予定」という情報以外、詳細はわからない。しばらくしてから、ならば、と直接ご本人に確かめた。ちょうど『鉄の時代』の日本での翻訳出版が決まった直後だったせいもあり、幸いにもアポイントメントがとれた。

 会見には、むかし拙訳『マイケル・K』を送ったときに作家から届いた最初の手紙を持参した。日付は1991年4月。1989年暮れに『鉄の時代』をタイプスクリプトで読んだのち、ある出版社からの要請でシノプシスを作り、翻訳の計画を進めていると伝えた手紙への、作家からのお礼の手紙だった。
 遠いむかしに書いた自分の手紙を見て「ずいぶん早くから『鉄の時代』を翻訳する努力をしてくれていたのですね」とクッツェー氏はいった。たしかに。15年以上も前のことなのだ。だが、当時いくつかの出版社は、リアリズム小説だという理由で最終的にはこの作品を歓迎しなかった。なんでもかんでもマジックリアリズムで片づけられ、ポストモダンなることばがやたら流行ったころのことである。この作家がいわゆる「リアリズム」の手法で書いた作品は『恥辱/Disgrace』が最初ではなかった。翻訳して紹介されなかっただけなのだ。逆にいうとそれは『鉄の時代』という作品が日本で翻訳される機が熟するのに、16年の歳月が必要だったということなのかもしれない。(つづく)☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/15

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(1)

今日から5回に分けて、J・M・クッツェー氏との会見記を掲載します。(MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。)
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 テーブルのうえの白い紅茶ポットにむかって腕がすうっと伸びてきて、人差し指が、ポットの横の砂時計をピンとはじいた。中央が大きくくびれた透明なガラス容器のなかで、ショッキングピンクの砂が音もなく落ちている。「何分か待たなければなりませんね」そういって、その人はふっと表情をゆるめた。
 初対面のはりつめた緊張感に、雰囲気を少しでもなごませるためだったのだろうか。それとも、かつてはまちがいなく、とびきり凝り性の工作少年だった人が、この種の機器を目にするとき、思わず見せる仕草だったのだろうか。明るい光にみちたカフェで、そんなふうに会話は始まり、時間は夢のようにすぎていった。
 
 2006年9月29日、約束どおり午前11時きっかりに、ホテルのロビーに痩身のシルエットが浮かんだ。早稲田大学で開催される「サミュエル・ベケット生誕百周年シンポジウム」の特別ゲストとして招かれ、前夜、成田に到着したばかりのJ・M・クッツェー氏は、ざっくりしたチャコールグレーの上着にボタンダウンの白いシャツ、ノーネクタイという出で立ちであらわれた。隅の椅子に腰かけていたわたしが立ちあがると、彼は急ぎ足で近づいてきた。初めて聞く声は少しかすれ気味で、翌日の2時間あまりの講演のときも、その声はやっぱり少しかすれていた。
 床から天井までガラス張りになった中庭にむかって、ゆったりとした椅子に腰を降ろし、彼はオレンジジュースを注文した。紅茶を注文したのはわたしだ。ベジタリアンの彼はアルコール類を飲まないばかりか、紅茶や珈琲といった嗜好品も摂らない、というのはあとから聞いた話で、そのときは「ヴィーガン(動物性の食品はいっさい食べないベジタリアン)ですか?」という問いに「いいえ、ただのベジタリアンです。乳製品で栄養を摂りますから」と彼は答えた。

 メールのやりとりが始まったのは、拙訳『マイケル・K』(ちくま文庫)の全面改訳版のゲラ読みが最終段階に入ったときだった。セッカー&ウォーバーグ社版ハードカバーにある第2部の8行ほどが、新しいヴィンテージ版ペンギン版のペーパーバックには見当たらなかったのだ。これは作家が削除したのか、それともたんなる脱落なのか。確かめる手紙をエージェント経由で出すと、即座に作家から直接メールが返ってきた。答えは作者も気づいていなかった「脱落」。「信頼すべきテキストはセッカー&ウォーバーグ社版のハードカバー(初版)のみです」というのが返事の文面だった。ちなみに脱落がみられるのは、次の箇所(ちくま文庫版、p239の9〜13行目)にあたるオリジナル英文である。

 「国家はマイケルズのような土を掘り返す者たちの背中に乗っているんだ。国家は彼らがあくせく働いて生産したものを貪り食い、そのお返しに彼らの背中に糞を垂れる。だが、国家がマイケルズに番号スタンプを押して丸飲みにしても、時間の無駄だ。マイケルズは国家の腹のなかを未消化のまま通過してしまった。学校や孤児院から出たときとおなじように、キャンプからも無傷で抜け出してしまったのだから。」

 この作品について書かれた評によく引用される箇所である。英語で出まわっているテキスト類の場合、日本の慣例のように、版を重ねるごとに作者や訳者が訂正を入れたりすることはあまりない。クッツェー氏の場合も、ペーパーバックになるときに、いちいちゲラ刷りに目を通すことはないのだという。メールには「この件について注意を喚起してくれてありがとう」というコメントが書き添えられていた。(つづく)☆

2007/10/14

民族的詩人、マジシ・クネーネ逝く


「北海道新聞 2007.1.9 夕刊」コラムに、こんな記事を書きました。(掲載版に少し補足してあります。)
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 2006年8月12日、マジシ・クネーネが他界した。1970年の初来日と、80年代初めの2度の来日で、知る人ぞ知るズールー民族の大詩人だ。20余年の亡命生活を終えて、南アフリカに帰国したのが93年。享年76歳だった。
 初来日の目的は解放組織の活動資金調達だったという。70年当時、南ア国内は厳しいアパルトヘイト(人種隔離)政策のもとで、解放運動は壊滅的状況に追いやられていた。94年の解放で政府与党となるANC(アフリカ民族会議)も当時は非合法組織で、クネーネはロンドンを拠点とする財務担当として初来日したのだ。思うように資金調達がかなわず、離日するとき「日本の繁栄はわれわれの血によって贖われている」と言い残して、当時の若い支援者たちに「クネーネ・ショック」をあたえた話は有名である。

 詩人の第一義的な仕事は、民族の社会的価値観や哲学的概念を教え、伝えることにあるとするクネーネは、ズールー語で書いた作品をみずから英訳した。その一冊を訳してみないかと声をかけられたことがきっかけで、私は南ア文学のさまざまな作品と出会い、この国の政治情勢の変転や、文学者をとりまく環境の激変を見ることになった。だから訃報に接したときは、この20年間の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎった。

 民族の創世を物語る長大な叙事詩『アフリカ創世の神話』(人文書院、1992、共訳)との格闘をはじめたのは86年のこと。だが、南アの事情に疎かった私も、原著の献辞にマンゴスツ・ブテレジの名をみつけたときは、さすがに放っておけない疑問を感じた。79年にANCを離れてから、ズールー民族組織インカタの長として、ことあるごとにANCと血で血を洗う凄惨な権力闘争(西側メディアは「部族抗争」と報じた)を繰り広げていた人物、それがブテレジだったのだ。(下欄の付記参照)

 叙事詩の翻訳は遅々として進まず、なじみのない哲学、宗教、文化の概念は、部外者などにそう簡単にわかってたまるか、とばかりに分厚い壁として立ちはだかった。なかでも、いささか辟易とした、その誇り高き民族主義は、西欧植民地主義に対抗する強力な精神基盤ではあったものの、皮肉にも、人種間の和解と諸民族の融合をうたう新生南アの国家概念とは、際立った対比を見せることになった。
 まことにアフリカ、いや世界は、一筋縄ではいかない。

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付記:
 後に、当時のアパルトヘイト政権が「部族抗争」を(国外向けに)演出するため、インカタに資金を渡していたことが発覚して、南ア国内で大きな問題になっていたことを思い出します。

2007/10/08

鉄の時代/Age of Iron

 現在、南アフリカ出身の作家、J.M.クッツェーが1990年に発表した小説『鉄の時代/Age of Iron』を訳しています。クッツェー作品の翻訳は、本邦初訳の『マイケル・K』(1989年、筑摩書房)からはじまり、『少年時代』(1999年、みすず書房)についで三冊目──『マイケル・K』については全面改訳版が昨年8月、ちくま文庫に入りました。
 昨年9月にクッツェー氏が初来日したとき、実際にお目にかかっていろいろお話をすることができたためか、作品に登場する人物の声がよりいっそう、くっきりと聞こえてくるようになりました。翻訳をする者にとって、これはとても大きな助けになります。