Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/11/29

「アフンルパル通信」12号

初夏のケープタウンから初冬の東京にもどると、「アフンルパル通信」12号がとどいていました。札幌という地で出版されている、志の高いリトルマガジンです。
 年2回の発行となり、ちょっと厚めで、中身も濃い。お薦めです。

 今号の執筆者は以下の通り。

 ホンマタカシ 管啓次郎 くぼたのぞみ 長屋のり子 前野久美子 関口涼子 小川基 かわなかのぶひろ 宇波彰 田中庸介 佐藤雄一 山田航 中島岳志

 上質紙に写真が何枚もあり、全30ページ、この内容で500円はとてもお買い得です。お求めは、書肆吉成へ。

2011/11/27

ドバイ空港──ケープタウン日記、番外編(1)

11月25日午後5時すぎ(日本時間)に成田に着いた。帰りのフライトは、ケープタウンからドバイまでは比較的座席の広い機種で快適に過ごしたが、ドバイから成田まではまたまた狭い座席。ドバイの乗り換え時間の1.5時間は、薄暗いシャトルバスに乗っているか(この時間がじつに長く感じられた)、手荷物を引いて延々と迷路のような空港内を移動するだけで終わった。

 ドバイ空港はとにかく広い。300くらいゲート数があって(もっとかな?)、目的のゲートまで標識にしたがってひたすら歩き、ひたすらエスカレーターを昇ったり降りたりしなければならないのだ。「充実したお買い物ができますよ」なんて旅行会社の人はいっていたけれど、とてもそんな時間も余裕もないし、ブランド品がならぶ、きらきらしい免税店にはほとんど興味がわかないから、それはいいんだけれど──それにしても、この空港、聞きしに勝る「きらきら」であったなあ! アラブ首長国連邦のドバイ空港には、ぴかぴかモールのクリスマスツリーまで飾ってあった。ああ、パーガン・クリスマス、である。

 ようやく乗り継ぎ便のゲートにたどりついたら即刻、ボーディング。時刻は南アフリカ時間でもうすぐ真夜中、ドバイ時間で午前1時半。眠いけれど眠れない、という時間をやりすごし、機内食を一回パスして、耳栓をして仮眠。この長時間飛行がなければ、もう一度いきたいケープタウンなのだが・・・。

 さて、備忘録がわりに書いてきたケープタウン日記、限られた時間内に「記録」を目的として書いたため、書き残した細部がたくさん、たくさんある。忘れないうちにそれを少しずつ、思い出しながら、これから書いていきたいと思う。

 写真は、時間的余裕のあった行きのフライトで撮影したドバイ空港。

2011/11/24

タウンシップとカッスル──ケープタウン日記(8)

今日(付記:南アフリカ時間で11月23日/水曜日)のケープタウンは、もっともケープタウンらしいお天気だとガイドさんがいうように、空がまっくらになって雨が吹きつけ、ごうごうと風が吹いている、と思う間もなく、太陽が顔を出してがんがん照りつける。これが何度も、何度もくりかえされる天気だった。

ランガの案内所
昨日(11月22日/火曜日)はランガ、カエリチャ、ググレツといったタウンシップをまわった。アパルトヘイト時代につくられた黒人専用居住区だが、隔離、分離して住まわせるという政策自体は破棄されたものの、いったん出来上がったコミュニティは失業率の高さや、なかなか予定通り進まない政府の住宅政策のため、そのまま残る、というより逆に広がっているようだ。

広い、広い、カエリチャ
それぞれタウンシップごとに特徴があって、古いランガは壁画が美しいインフォメーションやしゃれたクラフトセンターがあったり、ググレツは歴史展示に力を入れていたりとじつに興味深かった。街からもっとも遠いカエリチャはすごく広い。黄色い砂地が果てしなくつづく。自分はいまケープフラッツのどまんなかにいるのだという感じがひしひし。
 『マイケル・K』の第二章で、逃亡するマイケルを追いかけて、砂に足をとられながら医師が走る場面があったけれど、あれがケープフラッツだ。

 テーブルマウンテンにもロープウェイでのぼった。ほぼ垂直の断崖絶壁が目の前に迫ってきて、ぶつかる! と思わず目をつぶりたくなるようなすごさだ。頂上の風の強さは半端ではなかった。気温も麓の駅より6度ほど低い。またしてもダッシーが一匹、もくもくと草を食べていた。
 このダッシーという動物、じつは「象」の仲間だというのだから驚く。見かけはアナグマとか、げっ歯類のような感じなのに。コイの人々の神話ではカマキリは神さまでこのダッシーが奥さん、なのだそうだ。ふしぎな、ふしぎな世界観。標識で仕入れたまめ知識である。


カッスルの入口
今日はケープタウン滞在最後の日。五角形の要塞、カッスルへ行ってきた。東インド会社の砦としてつくられて、現在も西ケープ州の陸軍本部がおかれている場所だ。正面入り口に立ったとき、『youth』で青年ジョンが「何曜日の何時にカッスルの前に出頭せよ、持ち物は洗面具のみ」と書かれた召集令状がくるのではないかと不安に駆られる場面を思い出した。<了>

2011/11/22

喜望峰へ──ケープタウン日記(7)

今日は(付記:南アフリカ時間で、11月21日/月曜日)喜望峰へ向かった。道々、たくさんの動物たちの姿をみかけた。

 まず、どこにでもいるというred-winged starling。そして走る車の前に出てくるバブーン、道の横を歩いていく家族連れのダチョウ(黒いのが雄)。

 さらに半島の先端部に向かって進むにつれて、こんな動物も。
 縞模様の太い角のあるレイヨウ類ボンテボックは一頭だけ、凛々しく立っていた。
 ダッシーと呼ばれるハイラックス(イワダヌキ)は、これまた一匹だけ、岬のてっぺんへ徒歩でのぼる階段のすぐそばで、むしゃむしゃと腹ごしらえに余念がなく、近くを大勢の人が通っていくのに、そんなことはまったく気にする気配もなかった。

*****
付記(12月7日、ダッシーは分類からいくと、なんと、象の仲間であると後に判明。動物は見かけによらない!)

2011/11/21

プラムステッドとコンスタンシア──ケープタウン日記(6)

今朝のケープタウンの空は半分はれで、半分くもり。テーブルマウンテンは分厚い雲のおおわれて見えない。でも、風の街ケープタウンではあっというまに天気が変わる。雨と晴れと曇りが、風に追い立てられるように、交互に、めまぐるしく入れ替わる。ちょっとした雨に傘をさす人はいない。

 昨日(11月20日/日曜日)は、少年ジョンがヴスターからケープタウンに引っ越して住んだ通りや、汽車に乗ってカレッジに通ったプラムステッド駅などを訪ねた。
 大学に入って、親友ポールと夜通し歩いて、ポールの実家のある海辺の街へ行った話が『Youth』の最初あたりに出てくるが、そのセント・ジェームズへも足をのばした。フォールス湾を見下ろすようにして、バルコニーつきのきれいな家が建ちならんでいた。

『Summertime』に出てくるトカイ通りも車で走ってみた。たしかに幅の広い大きな通りで、高速道路からおりた警察のヴァンがポルスモア刑務所まで通ったところ、いまも通るところだ。

 これでクッツェー作品に出てくる場所で見たいところはほぼまわったので、ちょうど帰り道だったこともあって、コンスタンシアのワイナリーを見学! 5種類ほどテイスティングをしてみた。

 セントヘレナに流されたナポレオンが買い占めて、毎日のように飲んだといわれる極上のワインをつくっているところである。このワイン、以前このブログでも紹介したボードレールの『悪の華』におさめられた詩編「されど満たされぬまま/ SED NON SATIATA」に「コンスタンスの葡萄酒より、阿片より、ニュイの葡萄酒より/愛がパヴァーヌを舞う、おまえの口の妙薬が好きだ」と詠われたもので、19世紀からすでにヨーロッパでは名高いワインだったことがわかる。

 写真は上から、プラムステッド駅、ポルスモア刑務所の標識、フロート・コンスタンシアのブドウ畑。

2011/11/20

カルーへ/ケープタウン日記(5)

今日のケープタウンは曇り。昨夜ふった雨で路上がぬれている。分厚い雲がかかってテーブルマウンテンは見えない。

 昨日(付記:南アフリカ時間で11月19日/土曜日)は強い初夏の日差しのなか、内陸の町ヴスターを目指した。少年ジョンが8歳から12歳まで暮らした町だ。彼が住んだという住所掲示も、ユーカリの並木もあった。掲示はすべてアフリカーンス語。

 それからさらに内陸へ。カルーの入り口を国道一号線でまっしぐらに進み、Touwsrivier へ。タウスリヴィエル、と読むのだろうか。そこからUターン。

 あたりは灌木、低木のブッシュが点在する赤土のフェルト。車を降りて写真を撮っていると羊が近くまでよってきた。

 金網のフェンスのまるい穴にカメラのレンズを差し込んで撮ったので映らなかったけれど、どこまでも、どこまでもフェンスは続いていた。マイケル・Kが、キャンプからかり出されてする農場労働で、針金のあつかいがうまい、とほめられたことを思い出した。

2011/11/19

UCTへ──ケープタウン日記(4)

11月18日午後6時10分、テーブルのうえの温度計は26.2度を示している。この時刻になっても初夏の陽差しはまだまだ強く、じかにあたると痛いくらい。金曜日の午後とあって街は週末気分だ。

 今日はケープタウン大学へ行ってきた。街の中心部からすこし離れた山の中腹に位置するこの古い大学は、さまざまな歴史的な建造物が多く、初夏の緑のなかに樹木の香りがただよう。

 突然おとずれたにもかかわらず、図書館の受付の人も、管理係の人もとても親切に応対してくれた。クッツェーさんの三部作をこれから訳すために、彼が学生として、あるいは教授として長い間すごした場所をちょっとだけ見てあるきたい、と訪問の目的を伝えると、わざわざ案内係として学部の教官を呼んでくれたのだ。

 細身のアレックスさんというその方は学生時代クッツェーさんの授業をとったことがあるという人で、『Youth』の第一章に出てくる図書館のエピソードについて話すと、わざわざいまはもう使われていない図書館の迷路のような古い部屋や地下部分を案内してくれた。
 そして英文学部の建物へ移動し、クッツェーさんが授業をしたという教室を見せてもらった。こじんまりとした階段教室だった。英文学部が入っているのはアイビーのからまる落ち着いた建物で、いちばんうえの写真は横から見たところ。まんなかの写真は建物の入り口に立てられた案内。

『デイヴィッドの物語』の最後のほうに出てくるローズ・メモリアルのカフェでランチ。「白人中産階級のモフィーな自然食レストラン」として知られる場所である。たしかに、食事をしているのはたいてい白人で(黒人女性もひとりいたかな? でも連れは白人だった)働いているのは黒人orカラードという典型的な構図だ。

 ちょうど学年末試験が終わったところで、キャンパス内は学生の姿がぱらり、ぱらり。斜面にひょろりとのびた松の木々のあいだからテーブルマウンテンが透かし見えた。

2011/11/17

クッツェー作品の舞台へ ── ケープタウン日記(3)

スクーンデル通り
昨日はケープタウンに到着して三度目の朝を迎え、さすがに長旅の疲れが出てきたので、ケープタウン大学へ行く予定をちょっと変更してフレデフーク界隈をまわった。

 ここは、スクーンデル通り、ミル通り、ブレダ通り、クローフ通り、デ・ヴァール公園といった地名がならぶ地区、『鉄の時代』の舞台となった場所だ。70歳の元ラテン語教師、エリザベス・カレンが住んでいたのはこのあたりだ。
 家政婦フローレンスの息子ベキと、その友人のジョンが自転車を相乗りして急な坂道を降りていく通りがスクーンデル通り。警察のヴァンが故意にドアを開けたため、自転車が転倒してジョンが怪我をして額からどくどくと血を流し、カレンがその傷を必死で押さえる場面があった。
 あるいは、警官たちが突入してきてジョンを撃ち殺したのち、カレンがふらふらと路上へ歩き出し、やがてフリーデ通り(平和通り)をファーカイルに抱えられて家へ帰る場面。

 通りの名前を示す標識を見るたびにいろんなシーンを思い出す。頭のなかでシャッフルされていた土地をあらわす記号が、こぎれいな屋敷、灰色のアスファルトの通り、高架下の薄暗い場所、オークの木立といった具体的なモノとなって、いま目の前にある、という奇妙な体験だった。

デ・ヴァール公園
さらに『マイケル・K』に何度も出てきた「デ・ヴァール公園」へとまわった。庭師マイケルが熊手で落ち葉を集める場所だ。時間がなかったので公園のなかには入らなかったけれど、春の緑のなかを乳母車を押して散歩する若い母親たちの姿が見えた。
 きらきらと強い光のなかに咲き残るジャカランダや、古い屋敷の庭先に咲きこぼれるブーゲンビリアの赤紫色が、本当にきれい。
 
 それから「フォルクスホスピタール/国民病院」のあった場所へ。これは『少年時代』に出てきた病院で、少年ジョンが当時住んでいたヴスターから汽車に乗り、ケープタウンまで出て、さらに母親や弟とケープタウン駅からバスに乗って病気のアニーおばさんを訪ねる。1950年代の話で、「国民病院」はすでになく、ここは民間のメディクリニックになっていた。

2011/11/16

Clarke's Bookshop ── ケープタウン日記(2)

昨日のケープタウンは晴れ、日差しが強く、めずらしく風のない一日だった。

 街へ出た。ぶらぶら歩いてロングストリートの Clarke's Bookshop を訪ねた。南アフリカ国内で出版された本を買ってきた書店だ。1990年代初めはファクスで注文していた。A4に印刷した手紙を一通出すと250円ほどかかった。すると、しばらくしてからしっかり梱包された包みが届く。本が傷まないように、とても丁寧に梱包してくれるのだ。

 店主のヘンリエッタ・ダックスさんが不在なのはわかっていた。ケープタウンを訪ねます、とわたしがメールすると、残念ながらその期間は海外へ出かける予定があると返事がきた。よりによって、なんという不運なめぐりあわせ。

 でも、スタッフのイザベルさんとメグさんが歓迎してくれて、店内を自由に見てまわり、写真も撮らせていただいた。ヘンリエッタさん宛に、メッセージと持参した拙訳のちくま文庫『マイケル・K』を託した。


今朝のケープタウンは昨日とは打って変わって風が強い。聞いてはいたが、これがまた半端ではない。宿は高いビルの9階にあるので、窓を開けるとびゅうびゅうとすごい音がする。テーブルマウンテンの頂上には白い雲が面白いほどの速さで流れていく。(下の写真は、真っ平らなテーブルマウンテンのうえを流れるように走る雲、「テーブルクロス」と呼ばれるそうだ。)

2011/11/15

朝のケープタウン──ケープタウン日記(1)

長いあいだ行ってみたいと思っていたケープタウンに来ています。

 ここしばらく、ケープタウン旅日記のようなものを書いていきます。朝の8時、通りはすでに車の音が激しくなってきました。街の中心に建った建物のなかにいます。
 長時間の飛行に耐えて(いやはや、本当に長かった!)ようやく到着したケープタウン空港、すでに機内から眼下に見えるカルーの風景に心が躍りましたが、到着から一夜明けて今朝、空の青さと、宿の窓から見えるテーブルマウンテンの奇怪な姿にあらためて息をのみます。

 これからクッツェーの生まれ育った街、そして、62歳まで暮らした街を少し見てまわります。この街はまたウィカムが書いた最初の短編小説集「You Can't Get Lost in Cape Town」の(付記:さらに現在、翻訳中の『デイヴィッドの物語』の半分ちかくの)舞台になった街でもあります。とにかく光が、空がきれいな春のケープタウンです。

2011/11/01

メランコリア一匹

きっかり秋になりました。
 2カ月ぶりに「水牛のように」に詩を書きました。
 ホントに水牛のようにゆっくりペースで、書いたり、書かなかったりの「無理してでも無理をしない」書き手に寛容な編集長、八巻美恵さん、いつもどうもありがとう!