Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2008/12/30

ガザ空爆に抗議する人たち──南アフリカの新聞記事、オーストラリアの新聞記事

左の写真は、南アフリカの新聞「メール&ガーディアン」の12月30日、トップ記事の写真です。

「12月30日、東京のイスラエル大使館前に約200人の人が集まり、イスラエルのガザ攻撃に抗議する集会を行った」とAFPの記事が掲載されています。



こちらは「シドニー・モーニング・ヘラルド紙」の写真。
「パレスチナの暴力の即時停止を求めて、シドニー市内を行進する2000人を超える参加者たち」

アミラ・ハス──ガザはいま

いつ来るか分からない爆撃で、次は誰が? ガザ住民は不眠と恐怖におびえる

ハアレツ紙/アミラ・ハス
2009.12.30

アブ・サラーの家族はガザのナッセル地区に住んでいる。そこはシャティ難民キャンプの近くで、キャンプ内に住むハマスの首相、イスマイル・ハニイェフの家を狙う爆撃音がはっきりと聞こえる。ハニイェフのオフィスを攻撃する音も、国連の建物を爆撃する音も聞こえる。

「息子のサラーは家を出ていきたがっているが、私はそうさせなかった」と父親のアブ・サラーは言った。「家の外でなにが起きるかわからないし、家の中だってなにが起きるかわからない」

彼は自分の言っていることを理解していた。月曜日の朝のことを言っているのだ。「これまでに経験したいちばんひどい夜、土曜日よりもひどかった。夜中の12時から7時まで眠れなかった、ひっきりなしの爆撃、爆発、救急車」そして明けた朝。

夜の1時、細長いガザ地区の端、ラファのイブナ難民キャンプがミサイル爆撃を受け、イズ・アル-ディン・アル-カッサム隊の指揮官、リアド・アル-アッタルの家に命中した。アッタルはすでに建物から家族とともに出たあとだった。

それから間もなくもう一発、このミサイルは、人間がひしめく建物に命中した。アッタルの家から300メートル離れた建物だ。家といっても、コンクリートとアスベストの小さなもので、アッバシ家の持ち家である。父親のズィアドは建築請負人で、爆撃で殺された3人の子どもたちは、いまも瓦礫のなかに埋まったままだ。3歳のサドキ、12歳のアフメド、14歳のムハンマド。両親とほかの3人の子どもたちは怪我をしている。

月曜の午後5時、ベイト・ラヒアで一軒の家が爆撃された。先のレポートは7家族が殺されたと伝える。

「親はみんな家のなかが安全だなんて思っていないし、通りも安全だとは思っていない」とウム・バセルは言う。

だれもが、破壊された瓦礫のなかから、幼い子どもが救助されるテレビの映像に見入る。

「発電機を点けたほんの一瞬、目を離すと、子どもたちが、バルシャ家の女の子たちを観るためテレビに駆け寄るの」と彼女は言った。彼女が言っているのは、5人の娘たちをなくし、4人の兄弟と両親が重傷を負ったジャバリヤの一家のことだ。

「ヤファはそのうちの一人が『母さんはどこ?』と小さな声で言ったのに気づいたのよ」と言うウム・バセルは、その夜、家族のなかで眠れた者はだれもいなかったと言い足した。「爆撃のせいで何度も飛び起きた」とも。

家の窓はすべて開けっ放しだ。爆撃によって窓ガラスが割れて、なかにいる人間が怪我をしないように──家の窓ガラスが残っている場合の話だが。

ガザ地区で窓ガラスを入手するのは不可能だ。住民はガラスの代わりにビニールシートを貼っている。そのシートも、窓ガラス同様、イスラエルが過去2年間この地区に運び込ませない製品のひとつで、かろうじて地下トンネルを経て運び込まれている。

現在、そのトンネルも封鎖され、ビニールシートが不足するのは時間の問題だ。なかでもとりわけ、ガザ住民がいま曝されているのは、自分の家のなかにいながら厳寒に対処しなければならないことだ。ほとんど常時停電していて、重油もガスも不足している。

月曜日とその前日、エジプト国境の近くに住むラファの住民は、家を出ていくように言われた。

土曜日の夜、エジプト政府はパレスチナ国家警察のメンバーに、これから砲撃が開始されるため、国境から300メートル離れろ、というイスラエルからのメッセージを伝えた。何百人という人たちが、持ち物をまとめ、ラファ市の中心部にある親戚の家に身を寄せた。彼らの人生における何百回目かの引っ越しのために。

【転送・転載 歓迎】

2008/12/29

ガザ空爆の内実──アミラ・ハスの記事より

ハアレツ紙
2008/12/29

ガザへの攻撃はハマスへの攻撃ではない、それはすべてのパレスチナ人への攻撃だ──アミラ・ハス

日曜日(12月28日)3時19分、電話の向こうで、撃ち込まれるミサイルの音が一発、聞こえた。それから、子どもの恐怖の叫び声と重なって、もう一発。ガザ市のテル・アル-ハワの近くだ。高層アパートの建物がひしめく地域、どの建物にも何十人という子どもがいて、ブロックごとに何百人もの子どもが住んでいる。

子どもたちの父親 B が、隣の家から煙があがっている、と言ったところで電話は切れた。一時間後に、アパートが二軒爆撃された、と彼は伝えてきた。一軒は無人だった。だれが住んでいるか彼は知らない。もう一軒は死者が出た。その家はロケット砲を撃つ細胞のメンバーの持ち家だが、重要な人物がいるわけではない。

日曜の正午、イスラエル空軍はガザの国家警察の敷地を爆撃した。そこにはガザ市の主要な刑務所がある。3人の囚人が殺された。2人は明らかにファタハのメンバーで、3人目はイスラエルとの共謀罪で有罪判決を受けた囚人。ハマスはガザ地区の他のほとんどの刑務所から、ここの刑務所なら安全であると考えて、囚人を移送していた。

日曜の午前12時、Sは電話で起こされた。「どうしても眠れない」と電話の主はいった。「受話器を取るとアラビア語で録音された声が聞こえ、『武器あるいは弾薬を持っている者の家は無差別に爆撃する』といったからだ」

近所の一家で3人が殺された。全員が20代の若者だ。ひとりとして武器や弾薬を持っていた者はいない。通りかかった車をイスラエル空軍が爆撃したとき、道を歩いていたにすぎない。また別の家族は16歳の娘を失い、その妹も重傷を負った。イスラエル空軍はパレスチナ行政府の警察署がかつて入っていた建物を爆撃した。そのすぐ隣が姉妹たちの通う学校だったのだ。

S は、ある友人を訪ねたとき、土曜日の爆撃の結果を目撃した。友人の仕事場はガザ市警察本部のすぐ近くにあった。その爆撃で殺された1人、ハッサン・アブ・シュナブは、かつてのハマスの主要人物、イスマイル・アブ・シュナブの長男だ。

父親のアブ・シュナブは、5年前にイスラエルが暗殺した人物で、ハマスのなかで(イスラエルとパレスチナの)二国家共存の解決案を最初に支持した政治家だった。息子のハッサンは地域の大学で職員として働きながら、警察署の楽隊で演奏するのを楽しみにしていた。彼は爆撃のあった土曜日、警察の卒業式で演奏していたところだった。

「70人の警官が殺されました。みながみなハマスのメンバーというわけではないんです」とハマスに反対の立場をとる S は語った。「ハマスを支持する人たちは職を探している若者で、サラリーが目当てだった。彼らだって生き延びたいわけですから。彼らは、それゆえに死にました。70人が皆殺しです。この襲撃はハマスに対するものじゃない。われわれ全員に対するもの、民族全員に対するものです。こんなやり方で、自分の民族や母国が破壊されることを承服するパレスチナ人はひとりもいない」

【転送・転載 歓迎】

2008/12/27

「現代詩手帖2009年1月号」──ハンス・ファファレーイの詩

<沈黙のなかに滲み出るもの>

現代詩手帖 2009年1月号」に、オランダ領ギニア(スリナム)生まれの詩人、ハンス・ファファレーイ/Hans Faverey(1933〜90)について書きました。ぱらぱらと、のぞいてみてください。

 ファファレーイの詩を初めて読んだのは、J・M・クッツェーが訳したアンソロジー『漕ぎ手たちのいる風景─オランダからの詩/Landscape with Rowers──Poetry from The Netherlands,2004』のなかでした。

 まとまった詩篇が読める英訳詩集としては『忘却にあらがい/Against the Forgetting』がフランシス・ジョーンズ/Francis R. Jonesの訳で出ています。このアンソロジーは全9冊の詩集から過不足なく選ばれていて、ファファレーイという詩人の魅力をあますところなく伝えています。タイプ文字を思わせるタイトルと、ぼかした白黒イメージが印象的なカバー下方には、次のようなことばも。

「ハンス・ファファレーイは、彼の世代ではもっとも純粋な詩的知性の持ち主だった。彼が著した宝石のように美しい詩篇は、本を閉じたあとも永く、エコーのように心のなかに響きわたる。──J・M・クッツェー」

 ファファレーイの詩を訳していると、頭のなかがシーンと透明になる瞬間があって、澄んだ空気で心身が満たされていく愉楽を感じます。
 今回の紹介と訳出は J・M・クッツェー氏の協力と激励あって初めて実現したもの。2006年9月のクッツェー氏初来日のときの会見から、翌年12月の再来日時のやりとりを経て、フランシス・R・ジョーンズ氏が英訳からの訳出を快諾してくださるまでの経緯には、なにか運命的なものを感じます。お二人に深く感謝します!

2008/12/17

アフンルパル通信

北海道という北の少し大きな島のなかの、いちばん大きな都市サトポロの郊外に「トヨヒラ」という土地がある。
 そこに住む若い出版人が「アフンルパル通信」という、とても不思議なかたちの小冊子を刊行している。すでに6号まで出ている。
「アフンルパル」というのはアイヌ語で、意味は・・・さあ、調べてみてほしい。ちょっと怖い話だよ。

 北海道は旧植民地だった。まちがいなく「植民地」だった。私はアイヌ語で「トップ」と呼ばれていた土地で生まれ、そこで育った。入植者の末裔、とまではいかないけれど、祖父母の代が入植者だった人間である。このことときちんと向き合うために、ずいぶん長い時間と準備が必要だった。長い、長い、机上の旅が必要だった。アフリカまで行ったのだから。

 さて、その日本国内の旧植民地、つまり私の「故郷」でもある北海道との抜き差しならない confrontation がもうすぐ始まろうとしている。そんな気がする。この「アフルンパル通信」はその契機になるだろう。
 第6号に掲載されている、管啓次郎さんの詩「AGENDARS 13」がまたいい。

2008/12/07

Age of Iron 米国版の表紙

長いあいだ、 Age of Iron の米国版は Viking 社から出たものと思い込んでいました。ところが違った!
 最初に発表されたのはいつものように英国版。1990年9月に Secker & Warburg 社から出ています。ところが、米国版は Random House 社からでした。
 私はこの米国版ハードカバーをもっていません。コレクションの趣味はないし、部屋は狭いし、どうしても必要な本だけ手許におくよう心がけています。それでもどんどん増えてゆく書籍。まあ、積み上げていた本が雪崩て浴室のドアがあかなくなった、という経験は幸いにしてまだありませんが…。
 さて、Age of Iron は最初にタイプスクリプトで読んでしまったので、本を買った時期は、たぶん出版されてから少しあとだったような気がします。手許にある Secker&Warburg 社ハードカバーには(右側の写真)、表紙を開いたところに「4,940」という数字がエンピツで書き込まれています。たぶん東京の洋書店が書き込んだ値段。当時、1米ドルが約150円でした。

 先日、米国版のカバー写真をみつけました(最初の白黒の表紙)。まんなかのギリシア彫刻風のデメテル像を思わせるイメージに、制服姿の黒人高校生たちが走っている場面がかぶせてあり、右下に「A Novel」とあります。1990年ころの南アフリカの激動する政治状況を前面に押し出したイメージと、しかし、この本は「小説」である、とわざわざ断り書きをしているところに、米国の読者層の、南アフリカに対する距離感をはかることができます。
 英国にとって南アフリカは長年の植民地だったわけですから、ぐんと近い。それゆえか、説明的な表記はいっさいありません。米国版はあえてドキュメントを思わせる説明的なイメージ(写真の一部)を使いながら「小説」という文字をうたっている。この作り方のちがいは、いつもながら、クッツェーの小説の売り方が英と米ではっきり異なることを表していて、一考に値します。