Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2020/03/29

解説──ガエル・ファイユ『ちいさな国で』

朝、目が覚めると外は雪。大ぶりの牡丹雪が降っていて、すでに樹木はこんもりと白い帽子をかぶっていた。3月の末、東京はよくこんなぼた雪が降るんだった。満開の桜たちはどうしてるだろうなあ。さて。

 文庫化された本に解説を書きました。epi文庫『ちいさな国で』、早川書房から4月2日(木)の発売です。単行本として出た年に、日経新聞に書評を書き、「はじめての海外文学」でもおすすめの1冊にあげた作品でした。

   ── ガエル・ファイユのふたつの世界 ──

     自伝はすべてストーリーテリングであり、
       書くということはすべて自伝である。
            ──J・M・クッツェー

 この本は、ブルンジ出身のフランス語で書く作家でありラッパーであるガエル・ファイユの小説で、訳者は加藤かおりさん。とにかく書き方がうまいし、そこに出てくる事実に圧倒されます。おもしろくてぐいぐい、訳も読みやすく、最後は心に染みて、しばし沈黙──という感じです。

 ブルンジという小国で、フランス白人の父、ルワンダ難民のアフリカ人の母のあいだに生まれたガブリエルは、内戦が激しくなったブルンジからフランスへ向かう飛行機に、妹といっしょに乗せられていきなり「旅立つ」ことを強いられる。その体験の向こうに、その奥になにがあったのか。

 通称ギャビーが少年期の多感な日々を思い出しながら、あるいは創作しながら、みずみずしいタッチでつづったオートフィクション。背景にあるのはヨーロッパがアフリカを植民地化した歴史と、ルワンダ虐殺です。

 ガエル・ファイユはラッパーとしても活躍していて、むしろこっちが本業なんじゃないかと思うのですが、その魅力はYOUTUBEでも味わうことができます。ぜひ! この本と同名の「Petit Pays」の動画です。


 

(記録のために始めたブログ、最近はちょっと間があくことが多くて反省。。。こまめに書いておくと、不確かな記憶を探るため、あとで検索かければいろいろ確認できる。そう、わたしにとっては、それが本来のブログの役目だった。)



2020/03/27

フラットシューズのチママンダ

コロナウィルスのブレイクアウトが心配されている東京で、週末をどうすごすか? 食べ物、飲み物を確保して自宅で、自室ですごす。これまで読みたかったのに読めなかった本をかたっぱしから読破する。観たいと思っていた映画や動画を観る、というのもひとつの方法だと思います。料理というのもいいなあ。すぐに結果が出て、滋養豊か。

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのこれまでの動画のなかでも、特におすすめの一本をあげておきます。「エコノミスト」のSacha Nautaがインタビュアーになって、マンチェスターで行われたイベント、白熱したやりとりが展開されます。とくにterfについて突っ込まれたアディーチェの、明快な応答が聞けます。(昨秋このブログでアップしたものですが、再掲!)

 注意して見ると、いつもピンヒールに奇抜なドレスに凝ったヘアスタイルで決めるアディーチェが、このときはシンプルな白い服に紺色のフラットシューズ。髪もゴージャスながら自然のアフロです。

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マンチェスターで10月5日に行われたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのトークの実況中継。OPEN FUTURE FESTIVAL.


以下に大雑把な内容を。(あくまで粗い聞き取りですので引用はお控えください。)

 まずアイデンティティについて質問された彼女:アイデンティティというのは外部からの要求によって変わる、たとえば、最近もUSAの空港でプレミアの列にならんでいたら、あなたはあっちだと指差されたのはエコノミーのほうだった。これは肌の色で判断したからで、ナイジェリアではありえない。ナイジェリアでは、エスニシティか、ジェンダーによって分けられる。だからアイデンティティというのは外部からの問いによって、いくつにも変わりうるのだ、と述べている。だから自分としてはそれをたったひとつに狭めることはできない。

ストーリーテリングについて、作家として、と問われると:もっといろんな声がでてくることが必要だと強く思う。文学作品を読むということは、可能性として、自分の体ではない体から発せられる声を聞くことだと思う。書くというのは、自分の体ではない体から発せられる声を書くことでもある。どんな声であれ、わたしを呼んでいるならその声を物語に響かせていきたいと。

 これまでアフリカ、アジア、ラテンアメリカの物語は長いあいだ、そこの出身の人たちによって語られてこなかった。だから、ロンドンの書店に行っても、本がコロニアルなテイストでならんでいることが多い。もちろんそれは大事よ、だってイングランドはナイジェリアを植民地化してきたんだし、歴史としては……中略……でも、数日前の香港を見てもわかるように、世界中の土地は過去にずっと取り憑かれつづけている。

 それから、『アメリカーナ』について、かなり突っ込んだ質問がきて、アディーチェも非常にクリアに答えている。もう少しニュアンスをつけて、と編集者からいわれたが、それは、もう少し正直さ=あからさまにいうことを控えて、ということだった。

 なんでも比較的率直に語る英語社会で、「もう少しニュアンスを」といわれたとしたら、このニュアンスだらけで空気を読めとかいわれる日本語社会では、どうなるんだ😅?なんて思いながら最後まで見ましたが、最後のほうでオーディアンスから質問が出て、それに真っ向から答えるチママンダ、そして白熱の議論が展開されるようにもっていく司会のジャーナリストもなかなか。

 あとは動画をじかに見てください。

 もしも日本にチママンダを呼ぶなら、同時通訳があいだにはさまるとしても、これくらいの丁々発止のやりとりができるステージになるといいなあ、と思います。
 

2020/03/23

MALIA ふたたび、Covid-19とのつきあい

春だというのに部屋からあまり外に出ない暮らしがつづく。

©2014 Malia
ゲラ読み、書評書きも一段落して、ここ数日は少しゆったりした。そうだ、2月初めにとどいていたのに、まだ封も切らずにおいてあったCDが2枚。このところイアン・ボストリッジばかり聴いていたので、それとはまったく異なるジャンルで、異なるタイプの音楽を、と思ってかける。

 MALIA の CONVERGENCE

 このCDアルバムは最後のTurner's Ship がすごくいい。どこかアフリカンなリズムやメロディー。そうそう、Malia のお母さんはマラウィの出身で、10歳ころまでMalia も家族とマラウィに暮らしていたんだった。

 今月に入ってまだここに2回しか書いてなかった。そう気がついて唖然。2月、3月はぎっしりと仕事が詰まっていたことにあらためて気づく。おまけにコロナ、コロナ、である。Covid-19とのつきあいは、これからだ。先は長い。だって、治療法が見つかるまでは、とにかく緊張はつづくんだから。生活もつづくんだから。

 長いコロナウィルスとの共生まで 、今朝、NさんがまとめていたTV番組の内容を私なりに理解すると

(1)手指消毒──こまめに、丁寧に手指を洗う
(2)マスク──飛沫感染を避けるため、できるだけする
(3)ドアノブなど多数の人が触れるモノは消毒

次の3条件が重なる「場」を避けること

(1)密閉空間で換気が悪い
(2)手の届く範囲に多くの人がいる
(3)近距離での会話や発声がある。

 最初の(2)マスクについては、誰もが検査を受けられるわけではない日本では、自分が感染してるかもと思う人は、咳など症状がなくても、マスクしたほうがいいわけで、これは自分の予防のためではなく、他者を感染させないために必要だと思う。 マスク不足をとにかく解消すべき。まずは医療、介護関係者に重点的に支給すべき。買い占めは絶対にだめ。

 3条件が重なる「場」を避ける、といっても会社勤めをしている人にはほとんど無理な条件だから、ある程度おさまるまで、絶対量、絶対回数を減らすしかない。在宅勤務を積極的に取り入れるとか、交代制にするとか、ざっくりいっても、従来の考え方を変換する必要がありそう。
 もちろん、自粛自粛の結果として収入が激減して生活が成り立たなくなる人たちへの支援は絶対に必要。これは政治の仕事だ。

 なんか足りないところあるかな? とにかく長期にわたるから、これ。たぶん長期戦。Covid-19に対する治療法が出てくるまで。


2020/03/12

ロマン派について考えて、好き放題書いてみることにした(2)

2月に入ってから集中してきたJMクッツェー『鉄の時代』(河出文庫)のゲラ読み作業が一段落(発売は5月7日です)。さて、まわりは? と見わたすと。こもって仕事をする生活にコロナウィルスはほとんど影響しないことがわかった。人混みは、ふだんから極力避けているし。この2ヶ月のあいだ、ペースはほとんど変わらない。

 残念なのは友人との会食の回数がちょっと減ったこと。レストランやカフェなどは軒並み、がらん、街の店先も人影まばら。でも通勤する人たちにはあまり変化はないみたい、あの車内空間はまちがいなく最大の感染温床じゃないかな、と思う……。大変だよなあ。在宅勤務とやらの推奨もかなりあるらしいけど。子供は学ぶ機会を奪われて←これはひどいよ!対応策がなさすぎ!

 わたしのような「ひきこもり仕事」は自分で「区切る」ことがとても大事なので、ひとくぎり! 窓の外は春うらら。

 そこで余白に、「ロマン派アナトミー」の作業をすこしずつ進めよう。というわけで先週とどいたシューベルトの小曲がたっぷり入っているイアン・ボストリッジのアルバムを毎日聴いている。
「鱒」からはじまって「魔王」で終わる25曲。ピアノはジュリウス・ドレイク。1998年録音だから、1964年生まれのボストリッジは33歳か、若い!青い! 31歳で死んでしまったシューベルトには最適! とにかく、年老いて成熟する前に死んでしまった人なのだ、シューベルトは。こんなに「青春」と深く絡めて「ロマン派」を語るにふさわしい作曲家もいないんじゃないか、と勝手に思うことにした。

 じつは、このアナトミーはわたし自身の少女期の経験を分析してみようという作業でもある。1950年代後半から1960年代半ばというのは、ロマン派文学の翻訳が全盛を迎えた時代だったんじゃないだろうか?

 先日も少し年下の男性と話をしたんだけど、「ぼくたちが若かったころって新潮文庫をつぎつぎと読んだよね。「海外文学」と銘打たれた末尾カタログに載っているタイトルと著者名を、たとえ読まなくても、暗記するほどじっとながめてたよね」と彼はいう。
 それで身近に残っている60年代新潮文庫の後ろをながめてみた。最初に出てくるのがたいてい「フランス文学」、ずらりと「名作」がならぶ。それからイギリス文学、ドイツ文学、アメリカ文学、ロシア文学、その他の文学とくるのだ。この「その他」がねえ、摩訶不思議なジャンルだった。中学生のころ毎月楽しみにしていた「赤毛のアン」シリーズは、この「その他」、だってカナダだもん。

 ゲーテ『ウェルテルの悩み』、ヘッセ『車輪の下』、モーム『月と六ペンス』を全集で読んでから、この新潮文庫のリストをかたっぱしから読破、まずドーデ『風車小屋便り』から、という感じだった。

 肥大化した「フランス」「イギリス」「ドイツ」、いまなら考えられないほど末席におかれた「アメリカ文学」。イタリア、スペインなんか影も形もなかった。このようにして、60年代の読書人(!?)の頭のなかに世界地図が形成されていった。もちろんアフリカに文学があるなんて、ゆめゆめ考えもしない。なにしろ「暗黒大陸」だったんだから!!「本格派」はいつだって「西ヨーロッパ」の主要国から、だったのだ。とくにフランスとイギリス、ドイツ。

 戦後、手のひらを返したような「アメリカ化」が無批判に迎え入れられて、ハリウッド映画が怒涛のように流れ込んできた時代。テレビでもアメリカのホームドラマと西部劇が全盛で、「翻案」された和製ポップス(たいていアメリカから、ちょっとだけイタリアから、ほんのすこしだけシャンソン)が白黒テレビで流れた時代。
 そこへフランスからヌーベルバーグの新しい波がやってきた。映画青年たちはこぞって映画館に入り浸った。イギリスからはビートルズやローリングストーンズのロックミュージックが入ってきた。そんな時代。あのころの若者はどんな心情を育てながら生きていたのか?(つづく