Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/07/28

児玉龍彦氏の意見陳述──必見!

27日に衆議院厚生労働委員会「放射線の健康への影響」について意見陳述する、内部被爆の専門家、児玉龍彦氏のことばは胸を打つ。

 福島原発の今回の事故で放出された放射性物質の総量は、広島原爆の29発分以上!

 即刻、子どもを守るために政府がなにをしなければいけないか、これを聞いているとはっきりとわかる。なぜ子どもが放射線に弱いか、強い影響を受けるか、細胞分裂が活発になり、減数分裂するDNAが一本になるからだという説明は納得がいく。成長期にあるものがやられる。細胞分裂が活発であればあるほど影響を受ける。

 子どもたちの生存環境からの除染、そのための法整備、即刻それをやらない国会は怠慢のそしりを免れ得ない。

2011/07/27

記憶と創造性──ウィカムが今日からヴィッツ大へ

翻訳中の『デイヴィッドの物語』の著者、ゾーイ・ウィカム Zoë Wicomb が今日から3日間にわたってヴィッツヴァーテルスラント大学で開催されるシンポジウム「記憶と創造性について」に参加するらしい。おっ! グラスゴーから南アフリカへちょっと里帰りですね!

「記憶と創造性」というタイトルもなんだか気になる。「第3回アパルトヘイト・アーカイヴ会議」の一環として開催されるというのも興味深い。
 というのは、結局、作品というのはそれを作る人の記憶や歴史観と、意識的に向き合う程度はさまざまだとしても、不可分につながっているのは紛れもない事実だから。そこから切れてしまうと、自分が何者であるのかわからないまま荒唐無稽なダンス・マカーブルを余儀なくされる。
 だから、作者の意識に眠る、いや、意識内で覚醒している、そのつながりを可視化しようとする作品がおもしろい。

 前面に出る必要はない。しかし深いところで歴史認識を欠いた作品は、どれほど意匠が凝らされていようと、どれほど練りあげられた作品構造をもっていようと、時間の強い光で色褪せていかざるをえないだろう。「ことばは文脈がすべて」とは先日、訳していたところに出てきたウィカムの文章だけれど、一冊の書籍を翻訳して紹介するときも、それとほぼおなじことがいえるかもしれない。

 思い出すのは「翻訳紹介するときの文脈がすべて」ということば。これは翻訳を志した遠いむかし、尊敬する大先輩、藤本和子氏にいわれたことばでもあった。日本語に移し変える側の歴史を照射する視点のことではないか、といまは理解できる。

 写真はナマクワランド出身の作家、ゾーイ・ウィカム。ズールー、コーサといったブラック(バンツー系)の人たちとはちょっと異なる褐色の肌の、東洋人を思わせる切れ長な目元。南アフリカにもっとも早くから住んでいた先住民系の人といっていいだろう。
 1948年生まれの彼女が生きてきた世界は、アパルトヘイトの歴史、さらに植民者としてやってきたヨーロッパ人と先住民との混交の歴史ぬきにしては語れない。その歴史に鋭く、深い光をあて、現在と切り結ぶ作品を読んでいると、見えない存在として裏舞台に押し込められてきた人たちを、ほとんど自分の分身として生み出し、言語化していくプロセスに出会っているように思えてくる。

 作品の背景遠くヴァニシングポイントに感知されるのは、サヴァルタンと呼ばれる人たちのおぼろげな像で、ウィカムにとって「書くこと」はその存在をあたうるかぎり可視化しようとする作業なのだと得心する。

 この作業がめざす地点は、ある意味、クッツェーとその作品群が呼び求めるカウンターヴォイスが響きはじめる地点ともいえそうだ。まさに究極の「ポストコロニアル文学」であり、そう呼びたければ「フェミニズム文学」といったっていい。女が書いているからフェミニズム文学、旧植民地出身の作家が書いていたり旧植民地が舞台だからポスコロ文学、という大雑把すぎてぼやけたくくりとは決定的に異なる視点が、きっちり見えてくる。

 ま、彼女自身はそんなこと知っちゃない、かもしれないけれど、ね。

2011/07/21

2010年5月、オースティンでスピーチをするクッツェー

 昨年5月、クッツェーは25歳から3年間滞在して博士論文を書いたテキサス大学へ招かれてスピーチをした。その動画がアップされていた。

 内容はおおまかにいって、テキサス大学で過ごした思い出と(息子がここで生まれたことや、博士論文をここで書いたこと、図書館に眠っていた宝物のような資料を発見したことなど)、そして、2008年に彼が知った驚くべき記録「南アフリカの検閲制度が彼の作品をどのように検閲していたか」について。(動画の下に字幕が出る。)

 クッツェーはスクラップされたと思っていた検閲委員会の記録から、記録番号まで具体的に引用しながら、初期の三作品、「In the Heart of the Country」「Waiting for the Barbarians」「Life and Times of Michael K」を誰が読み、どんなふうに評価したか、衝撃的な内容を披露している。
 
 このいきさつはすでに二度にわたってこのブログでも書いた。それはこちら:

J・M・クッツェーの小説が発禁にならなかったわけ──南アフリカの検閲制度(1)
J・M・クッツェーの小説が発禁にならなかったわけ──南アフリカの検閲制度(2)


 当時ケープタウン大学で働いていたクッツェーにとって、ごく身近な人が検閲委員会の議長だったこと、その人物は彼の両親が住んでいた地域に田舎の家を一軒もっていて、庭で開かれたバーベキューの夕食会に彼らを招いてくれたこと、などなど耳新しい情報もある。

 彼は吐露する──「I was surprised to have this revealed to me. I was even shocked. But was my surprise naive? I think it was. And now we come to the point. 」

 当時の南アフリカのインテリ小集団内で、検閲という行為が、歴史的な背景と政治的な文脈のなかで、個々人のどんな意識のもとで行われたか、彼の作品がどう評価されたか(これがとても興味深いが、正直いって、わたしは聴衆のように笑う気になれない!)、クッツェーは細かく細かく検閲官の心理の奥を考える。ここがじつは、もっとも面白く、ひやりとするところなのだ。

 *写真はクッツェーが2003年にノーベル賞受賞したときに、ライトアップされたというテキサス大学のタワー。スピーチでは、博士課程在学中、ここから無差別に銃で撃たれそうになった事件があったことも述べている。

2011/07/17

昨日は暑い池袋に一瞬のオアシス──ミニ・ポトラック

昨日は池袋ジュンク堂で、大竹昭子さんの「カタリココとわたし」​展のイベントとして「ミニ・ことばのポトラック」に参加しました​。

 森山大道さんと大竹さんのトークのあと、まずわたしが「雪の記憶」「岬をまわり、橋をわたる」という詩を二篇読みました。それから東直子さんが心にしみ​る短歌を詠み、管啓次郎さんがAYUOさんの笛とアイリッシュハ​ープの演奏を交えながら、ソノラ砂漠の時間をガラスの器にきゅっ​と盛りつけたような物語を楽しませてくれました。それから吟遊詩人のようなAYUOさんの詩と歌。暑い午後の池袋に​、一瞬のオアシスが出現! でした。

 とても面白い組み合わせの展示で、「ことばのポトラックvol.1」に出演したみなさんが推薦する3冊、というコーナーもあって、わたしはジュノ・ディアス『オスカー・ワオの凄まじく短い人生』と佐野洋子『わたしが妹だったとき』、そしてクッツェーの『鉄の時代』をならべてもらっています。(写真右下)

2011/07/15

明日は池袋ジュンク堂へ


毎日暑い。本当に暑い。エアコンを使わずに仕事をする者として、今年はいかに? と思うけれど、昨年はついにパソコン本体が壊れた。やっぱり33度の室温で使用するものではないのかなあ、秋口にはついにパーツ交換とあいなった。
 それと平行してか、クロスしてか、人間の身体のほうも壊れそうになる。気をつけなければ。

 いっそ明日は池袋で、雪の詩でも読もうかな。
 大竹昭子さんと森山大道さんの面白そうなトークが聞けますよ。管啓次郎さん、東直子さん、ayuoさん、と素敵なメンバーも出演します。

 遊びにきてください。

 http://www.junkudo.co.jp/katarikoko.htm

2011/07/12

作風を初期作品へもどすクッツェー

いずことも知れぬ国で食料とシェルターをもとめる一人の男と一人の少年、彼らが国家権力や官僚組織から手ひどい扱いを受ける・・・クッツェーがいま執筆中の新作の内容である。この作品の第一章と、第二章を少し、先のヨーク大学でおこなわれた朗読の夕べで、700人の聴衆を前にしてクッツェーは読んだという。

 う〜ん。面白そう。作風が80年代に彼が発表した初期作品、「夷狄を待ちながら」や「マイケル・K」に戻ったような感じがする、と実際に現場で朗読を聴いた複数の人たちが述べている。

 Coetzee Collective というケープタウン大学の面々がつくっているサイトがあって、メンバーには『J.M. Coetzee: Countervoices』の著者キャロル・クラークソンや以前このブログで紹介した『The Literature Police』の著者ピーター・マクドナルドなど若手研究者に混じって、ケープタウン大学のOBで<クッツェーの作品は読者のほうが読まれるから気をつけて!>とまさに正鵠を射た発言をしたエレケ・ブーマー、おなじみのデイヴィッド・アトウェルなども名をつらねている。そこに写真といっしょに載った情報が具体的で面白い。

 ヨーク大学で行われたのはベケット国際会議だから、イントロダクションはベケット学者(後記:あ、ジョイス学者です!)であるデレク・アトリッジ(写真右)となるのもなるほど、という感じで、その紹介の方法もちょっと趣向が凝らされたらしい。

 ちなみに、クッツェーの初来日といえる公式訪問は、2006年9月のベケット国際会議に特別ゲストとして招かれたときだ。「それ以前にも何度か非公式に来たことがある」という噂を耳にしたため、『鉄の時代』の年譜を書いた者の責任として直接クッツェー氏に確かめたことがある。
 するとクッツェー氏から返ってきた返事は思わずにやりとさせられるものだった。

「シンポジウム以前に日本を訪ねたのは一度だけで、2003年(だと思う)に、ドロシー(註/彼のパートナー)とわたしは全日空機でオーストラリアから米国へ行った。午後9時に東京(註/成田)に到着、空港近くのホテルに一泊し、朝の便でUSへ向けて発った。あなたの国にわたしたちは約12時間いた」とまことに几帳面な、事実だけをきちんと述べる文面だった。つまりは、トランジット。
 これが「非公式」の中身???

2011/07/10

千代田錦か、極楽鳥か

いま訳しているゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』には、南アフリカ原産の植物がいくつも出てくる。ガーデニングの花の名前はあまり得意じゃないので、どの程度日本に浸透しているのか、判断にいつも迷う。

 以前はナマクワ・デイジーについて書いたけれど、この物語でナマクワランドに移り住んだ人たちが民族の紋章としているのが「Kanniedood aloe/カニドード・アロエ」だ。アフリカーンス語の kanniedood は英語では can't die という意味だそうだ。不死。

 写真を見ると、葉っぱにトゲトゲがいっぱいついている。半砂漠地帯のような渇いたカルーの土地にしっかり根をおろした植物のようだ。しかし、この植物、じつは日本の花屋さんでもよく見る園芸植物で、「千代田錦」という立派な和名がついている。

 さあ、どうしよう? 訳文に「グリクワの民族文様としてテーブルクロスに刺繍された千代田錦」とやると「ん???」となりそうだよねえ。やっぱりここはカニドード・アロエかな。和名を使うとしても、せめて、チヨダニシキだろうなあ。悩む。

 今日はまた別の植物名に出くわした。blue-beaked strelitzias。青い嘴をもったストレリチア。ところが調べてみると、またまたこれにも立派な和名がついている。「極楽鳥(花or科)」である。青い嘴、の名のとおり、鋭い針のような棘がある。
 これも、和名を使うなら「ゴクラクチョウカ」だろうなあ。でも、これはストレリチア、ストレチアとそのまま使うことも多いらしい。ホッ!

2011/07/08

ミニ「ことばのポトラック」!

7月16日(土曜日)午後15時から、ジュンク堂 池袋本店9F奥で、ミニ「ことばのポトラック」をやります。

14時からの、写真家、森山大道さんと大竹昭子さんのトークのあとです。

作家・詩人・アーティストによる朗読と演奏のミニ・イベント。入場無料。予約不要。当日参加可能。ふらりと遊びにきてください。


司会:大竹昭子
参加アーティスト:菅啓次郎×東直子×AYUO×くぼたのぞみ

詳しくは
http://t.co/6plb5w7

2011/07/06

ことばのポトラック vol.3──全員集合!


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冊子「ことばのポトラックvol.1」のカバー写真を右上にアップしました。

1冊1000円で、その内200円は義援金に。
取扱店は以下の通りです;

●都内
池袋  ジュンク堂本店9階<カタリココと私>展会場
千駄木 古書ほうろう
目白  ポポタム
茅場町 森岡書店
東池袋 古書往来座
青山  ギャラリーときの忘れもの
渋谷  フライング・ブックス
西荻窪 音羽館
吉祥寺 百年

札幌  書肆吉成
金沢  オヨヨ書林
名古屋 シマウマ書房
名古屋 ちくさ正文館
大阪  イトヘン・ギャラリー
倉敷  蟲文庫
福岡  キューブリック

発売元の「サラヴァ東京」でも買えます。
渋谷Bunkamura の入り口近く、松濤交差点ファミリーマーケットの地下1階です。

2011/07/03

ことばのポトラック vol.3──盛況のうちに終了!

 今日の午後は渋谷のサラヴァ東京で「ことばのポトラック vol.3」が開かれました。出演者がそれぞれ充実したパフォーマンスを披露。わたしも参加できたことは、とてもラッキーだったと思います。

 言語と言語のあいだを行ったり来たりしながら生きている、それが今回登場した人たちの共通項です。ちなみに今日、作品のなかに登場した言語をあげると、英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語、セルビア語、台湾語、中国語、日本語。すべてこの日本という土地に暮らしながら今日の出演者が使っている言語です。

 3月27日の第一回の緊張感とはまたひと味違って、少し余裕も感じられ、ことばのあいだをゆら〜りゆらり、ことばのすきまをする〜りするり、真摯でありながらも、そんな自在な感じが出ていたのではないかと思います。
 
 発表内容はやはり、3月11日の震災と原発事故を、遠く近く、めぐりめぐられ、多彩なアプローチが展開されました。力のこもった、豊かなことばをもちよってくださった方々に、心から感謝します。ご来場くださった方々に深くお礼もうしあげます。

 ステージのようすはいずれ、東京FMの番組で放送され、映像はYOUTUBE にアップされる予定です。また、書籍としてまとめる計画もあるようです。お楽しみに。以下に今日の出演者を再録しておきます。
 

「ことばのポトラック vol.3」
総合司会:大竹昭子

第一部(司会:くぼたのぞみ)

管啓次郎 
温又柔 
清岡智比古 
レナ・ジュンタ 
関口裕昭 
デビット・ゾペティ 

(休憩15分)

第二部(司会:管啓次郎)

高橋ブランカ 
ヴァルデマル・サンチアゴ 
南映子 
旦敬介 
くぼたのぞみ 
港大尋 
  (敬称略)

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付記:入場料から経費を差し引いた残額、および無料出演者が提供した著訳書の売り上げはすべて、震災現場が求めている書籍を送る活動を支援するために使われることになっています。