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2023/05/30

「熱くならない火のような愛を描いた」J・M・クッツェーの恋愛小説:翻訳作業備忘録(4)


「シンプルな表現で、文芸コードを極限まで駆使して、熱くならない火のような愛を描いた画期的な作品」とスペイン語圏の新聞(el mundo)で絶賛された"El Polaco /The Pole"の日本語訳『ポーランドの人』、ついに発売です。

「緑の室内」がカバーになった本を「緑の屋外」で撮ってしまった!
と、あとから気づいた。

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版元サイトの紹介が、とても充実しています!

 https://www.hakusuisha.co.jp/book/b625006.html


 5月24日にはドイツ語版"Der Pole"も発売、それを南ドイツ新聞が大きなニュースで伝えていました。


J. M. Coetzee
hat sich jahrzehntelang streng an den kleinen Widersprüchen des Alltags abgearbeitet, die eigentlich unerträglich sind. Sein neuer Roman „Der Pole“ ist jetzt milder, fast versöhnlich. #SZPlus


 クッツェーは6月末から3週間、プラド美術館に滞在して短篇を書くプログラムに参加するというニュースが流れたばかり。美術と文藝を切り結ぶ興味深い企画「Writing the Prado」のトップバッターとしてクッツェーに白羽の矢が立ったようです。スポンサーはロエベ財団。どんな作品(短篇?)ができることやら、これもすごく楽しみです!

John Maxwell Coetzee, Nobel Prize for Literature (2003), has been selected as the first author to participate in the "Writing the Prado" program, a joint initiative with the Loewe Foundation that invites internationally renowned writers to engage literarily with the Museum's collections.

2023/05/21

カバーがアップされた──J・M・クッツェー最新作『ポーランドの人』:翻訳作業備忘録(3)


英語版より一足お先に日本語でお届けするJ・M・クッツェーの最新作『ポーランドの人』(白水社)のカバー写真が、版元サイトにアップされた。使われているのは、ナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard)の「緑の室内」。

 じつはこの本の裏表紙には、ある楽譜が透けて見えるのだ。ショパン自身の手書きの楽譜である。なんの曲かって? ショパンがジョルジュ・サンドと逃避行したマヨルカ島で作曲したことがヒント。『ポーランドの人』は、その時代の精神が基本になっている、とクッツェー自身も語っているのだ。

 ダンテの『新生』や『神曲』が下敷きになっていることはすでに書いた。(『神曲』の原題が La Divina Commedia、「コメディ」だというのは重要なポイント。)

 この作家特有のシンプルで端正な文体で、サラリと書かれた短めの作品とはいえ、中身はまことに濃密だ。古典的な恋愛に強烈な光があたる。骨まで透けるような光だ。近づいて見れば悲劇的、でも遠くから見ればニヤリとなる辛口コメディに仕上がっている。もちろん読む人のジェンダー、年齢、恋愛観、経験などによって、その感じ方、考え方は大きく異なるだろう。

 ジョン・クッツェーは1940年ケープタウン生まれ、この時代にアフリカ南端の地でヨーロッパ系入植者の家計に生まれて育つことでどんな恋愛観を育むことになったか、それは『青年時代』に細かく描かれている。1960年代初頭にロンドンへ渡った若者が、時代の先端を行く態度を身につけようと必死になる地方出身者の姿だ。芸術至上主義、恋愛至上主義っぽいモダニストをめざす青年ジョン。

 この『ポーランドの人』には、そんな、クッツェーが生きてきた時代の恋愛観が総集編的に描かれているようだ。作家個人の姿はほとんど見えない。いくつかの会話やエピソードの下敷きになっているのが朧げにわかる程度。なにしろ80歳前後で人生を振り返るようにして書いた恋愛小説なのだから、そりゃあ骨っぽくもなるだろう。これはひょっとして「R〇〇指定」の作品かな、と思ったりもする。「〇〇」にどんな数字が入るかは、読者によって大きく異なるところだろうか。その理由は……読めば、たぶん、わかる、かな、きっと、わかる。

 とはいえ、72歳のポーランド人ショパン弾きヴィトルトの姿には、ここまで書くかというほど「リアルな」細部がちりばめられていて、「読者の想像力」を挑発してくる。なぜ挑発かというと、72歳のピアニストの心理を解剖するのが、49歳の保守的なアッパーミドルクラスの女性という設定だからだ。その内面を書いているのは80代の男性作家……。このよじれ(笑)。

 というわけで、クッツェーという作家が描いてきた「女性像」の変遷を振り返ってみずにはいられない。時代や舞台の設定はそれぞれ異なるとはいえ、第二作目『In the Heart of the Country/その国の奥で』のマグダ、五作目『フォー』のスーザン・バートン、それに続く『鉄の時代』のミセス・カレン、そして一連の作品に出てくるエリザベス・コステロ。

 しかしなんといっても『ポーランドの人』のベアトリスにその片鱗が見える人物たちは、『サマータイム』のジュリア、アドリアーナ、ソフィーだろうか。女性が語りの前面に出てくるクッツェー作品は多い。時代とともに、登場人物の設定によってなにが変わってきたか、変わらないものはなにか。しかし大きなヒントは『モラルの話』に含まれたある短篇にあったのだけれど。それについては「訳者あとがき」に書いたのでぜひ!

 この作品をガルシア=マルケスの晩年の作品と比べてみるのも面白いかも。ここまで違うかと。

 80歳を過ぎてなおマイペースのクッツェーは快調というしかない!


2020/03/12

ロマン派について考えて、好き放題書いてみることにした(2)

2月に入ってから集中してきたJMクッツェー『鉄の時代』(河出文庫)のゲラ読み作業が一段落(発売は5月7日です)。さて、まわりは? と見わたすと。こもって仕事をする生活にコロナウィルスはほとんど影響しないことがわかった。人混みは、ふだんから極力避けているし。この2ヶ月のあいだ、ペースはほとんど変わらない。

 残念なのは友人との会食の回数がちょっと減ったこと。レストランやカフェなどは軒並み、がらん、街の店先も人影まばら。でも通勤する人たちにはあまり変化はないみたい、あの車内空間はまちがいなく最大の感染温床じゃないかな、と思う……。大変だよなあ。在宅勤務とやらの推奨もかなりあるらしいけど。子供は学ぶ機会を奪われて←これはひどいよ!対応策がなさすぎ!

 わたしのような「ひきこもり仕事」は自分で「区切る」ことがとても大事なので、ひとくぎり! 窓の外は春うらら。

 そこで余白に、「ロマン派アナトミー」の作業をすこしずつ進めよう。というわけで先週とどいたシューベルトの小曲がたっぷり入っているイアン・ボストリッジのアルバムを毎日聴いている。
「鱒」からはじまって「魔王」で終わる25曲。ピアノはジュリウス・ドレイク。1998年録音だから、1964年生まれのボストリッジは33歳か、若い!青い! 31歳で死んでしまったシューベルトには最適! とにかく、年老いて成熟する前に死んでしまった人なのだ、シューベルトは。こんなに「青春」と深く絡めて「ロマン派」を語るにふさわしい作曲家もいないんじゃないか、と勝手に思うことにした。

 じつは、このアナトミーはわたし自身の少女期の経験を分析してみようという作業でもある。1950年代後半から1960年代半ばというのは、ロマン派文学の翻訳が全盛を迎えた時代だったんじゃないだろうか?

 先日も少し年下の男性と話をしたんだけど、「ぼくたちが若かったころって新潮文庫をつぎつぎと読んだよね。「海外文学」と銘打たれた末尾カタログに載っているタイトルと著者名を、たとえ読まなくても、暗記するほどじっとながめてたよね」と彼はいう。
 それで身近に残っている60年代新潮文庫の後ろをながめてみた。最初に出てくるのがたいてい「フランス文学」、ずらりと「名作」がならぶ。それからイギリス文学、ドイツ文学、アメリカ文学、ロシア文学、その他の文学とくるのだ。この「その他」がねえ、摩訶不思議なジャンルだった。中学生のころ毎月楽しみにしていた「赤毛のアン」シリーズは、この「その他」、だってカナダだもん。

 ゲーテ『ウェルテルの悩み』、ヘッセ『車輪の下』、モーム『月と六ペンス』を全集で読んでから、この新潮文庫のリストをかたっぱしから読破、まずドーデ『風車小屋便り』から、という感じだった。

 肥大化した「フランス」「イギリス」「ドイツ」、いまなら考えられないほど末席におかれた「アメリカ文学」。イタリア、スペインなんか影も形もなかった。このようにして、60年代の読書人(!?)の頭のなかに世界地図が形成されていった。もちろんアフリカに文学があるなんて、ゆめゆめ考えもしない。なにしろ「暗黒大陸」だったんだから!!「本格派」はいつだって「西ヨーロッパ」の主要国から、だったのだ。とくにフランスとイギリス、ドイツ。

 戦後、手のひらを返したような「アメリカ化」が無批判に迎え入れられて、ハリウッド映画が怒涛のように流れ込んできた時代。テレビでもアメリカのホームドラマと西部劇が全盛で、「翻案」された和製ポップス(たいていアメリカから、ちょっとだけイタリアから、ほんのすこしだけシャンソン)が白黒テレビで流れた時代。
 そこへフランスからヌーベルバーグの新しい波がやってきた。映画青年たちはこぞって映画館に入り浸った。イギリスからはビートルズやローリングストーンズのロックミュージックが入ってきた。そんな時代。あのころの若者はどんな心情を育てながら生きていたのか?(つづく)
 

2020/02/25

ロマン派について考えて、好き放題書いてみることにした(1)

piano:Leif Ove Andsnes, 2004
2月はずっと、イアン・ボストリッジIan Bostridge の歌うシューベルトの「冬の旅/Winterreise」を聴いていた。ボストリッジは1964年12月25日生まれのイギリス人で、歌手になったのはすいぶんあとになってからだという。まずYOUTUBEに出てくる映像と歌が合体したのをたっぷり聴いたあと、CDを買った。2004年録音だからボストリッジ39歳のときの録音ということかな。
 しかしこの人、名だたる新聞などに評を書くインテリでもあり、こんな本を書いている。

 Schubert's  Winter Journey: Anatomy of an Obsession
 『シューベルトの冬の旅:オブセッションの解剖』

日本語訳はタイトルが『シューベルトの「冬の旅」』と、なぜか副題の「オブセッションの解剖」がない。残念だ。というのは、この副題にこそ深い意味があるからだ。ボストリッジがヴィルヘルム・ミュラーの詩を分析する鋭くも現代的な視点というか、それこそがこの本の真価ではないか。つまり、それぞれの詩行をドイツ語から英語へと翻訳し、スパッと解剖するように分析しながら「ロマン派のオブセッション」に光をあてていく、そこがこの本の読みどころなのだと思う。めっちゃスリリングではないか!
 
 なぜこの本に出会ったかというと、J・M・クッツェーの『サマータイム』が引用されているとfb友達が書いていたのを知ったからだ。
 えっ!シューベルトって、あの「ジュリア」の章に出てくるシューベルトの弦楽五重奏曲のアダージョにあわせて、ジョンがジュリアとセックスしようとする箇所?と思って聞いてみると、その通り。その方がくだんの箇所を教えてくれて、読んだ。ナポレオン・ボナパルト亡きあとのオーストリアで、、、という笑えて泣かせる箇所を再読した。

 それで、はまってしまった。もう一度、クッツェーの『サマータイム』を「オブセッションの解剖」という視点から読み返そう。もう一度、シューベルトの『冬の旅』を聴き直そうと。

 ボストリッジは日本でも有名なテナー歌手で、何度も来日しているし、アルバムも出していた。そうなんだ〜!
 わたしは中学生の少女時代あの天鵞絨のような声をしたディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウでシューベルトにばっちりはまったことがある。1960年代はじめのことだけど。

 クッツェーが10代半ばのカレッジ時代にロマン派の詩人にあこがれて、キーツみたいな詩を書こうとしたことは『青年時代』(2002)にも出てきた。

「なんでまた、キーツにひどく惑わされて、自分でも理解できないキーツ風ソネットを書こうなどと思ったのだろう」(『青年時代』─インスクリプト刊の三部作p199)

 そこではたと考える。クッツェーにはロンドンに渡ってもやっぱりロマン派的な嗜好、思考、志向がベースにあったし、おまけに旧態然とした旧植民地の南アフリカで21歳まで(1961年まで)学んだ人だったから、人一倍「中央の都市文化」への「憧れ」は強かっただろう。だから『青年時代』は、もっぱらそのころの自分に対する鋭くも批判的な視点で書こうとするんだけど、どうも不完全燃焼ぎみ。
 そこで第3部『サマータイム』(2009)はがらりと様式を変えたわけだ。三部作ってのは、いつも第二部がちょっと面白くなくなるんだ、これは避けられない宿命なのだ。

ボストリッジの本はシューベルトの『冬の旅』を一曲一曲丁寧に分析して、英訳も載せている。『サマータイム』が出てくるのは第4曲「凍結」の章で、読んでみると、その分析がじつに冴えている。ミュラーの詩の「ストーカー性」をみごとに暴いているのだ。

 ロマン派ってとどとつまりは、自分の思いや感情にとらわれて他者がまったく見えない「ストーカー」的な心情だと分析している。分析するだけではなくて、そのオブセッションを体現するかのように『冬の旅』を歌う、その歌がこの上なくいい。なぜだろう。そこを考えてみたい。若いころの録音がとくにいい。そう、30代のあまくてソフトな声がいいのだ。ディースカウはいま聴くと退屈だが、ボストリッジは聴き飽きない。その違いを、ゆっくり考えてみたい。
(つづく)