Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/02/24

「南の文学」のビデオがアップされています──2015年4月の第1回


アルゼンチンのサンマルティン大学で2015年4月7日から17日にかけて行われた第一回「南の文学」のようすがアップされていました。MALBAで行われたアナ・カズミ・スタールとのセッションの動画が比較的聞き取りやすいので、そちらを貼り付けます。

(スペイン語の通訳の声のほうが前面に出ていて、クッツェーのことばが聞き取りにくいので、これはぜひスペイン語の方に!)



 後半の参加者はJ・M・クッツェーのほかに、オーストラリアから彼が連れて行った2人の作家、ニコラス・ジョーズとゲイル・ジョーンズ。さらにアルゼンチンの2人の作家です。




CÁTEDRA J. M. COETZEE LITERATURAS DEL SUR: GAIL JONES Y NICHOLAS JOSE EN LA UNSAM

2016/02/18

キルメン・ウリベの『ムシェ──小さな英雄の物語』

遅ればせながら、キルメン・ウリべの『ムシェ──小さな英雄の物語』(金子奈美訳 白水社刊)を読んでいる。
 これはある種のファクツ・フィクション。すでにあちこちに書評が載って、高い評価をえている作品なので、内容の紹介はそちらにゆずって、ページを開いてまず感じるのは、日本語としての安定したリズムだ。
 前作の『ビルバオ──ニューヨーク──ビルバオ』ですでに、文体の確かさついては指摘されていたけれど、今回は前作に増してことばづかいに磨きがかかったようだ。アトランダムに開いたページを少し書き出してみようか。
 たとえばこんな箇所:

 ロベールは空襲に遭う。気がついたときには、周りのものすべてが崩壊している。足下には地面、頭上には空。目の前の家で、瓦礫のなか、石材や木の板や鉄くずの下から誰かの声がする。帽子、割れた食器、ひびの入った古時計をよけ、……

 あるいはこんな箇所:

 住民のあいだには強い連帯感があった。ムシェ家の下の階には、ある画家が住んでいた。画家はロベールに、万が一警察がやってきたら、窓から中庭に降り、そこから自分のアトリエを通って裏口から逃げなさいと言ってくれた。裏通りの角には小さな食料品店があった。緊急の場合はそこから電話をかけることができた。

 どのページを開いても、淡々と情景や場面を描いていく端正な文章に出会う。抑制の効いたことばの連なりが描き出す悲劇的な物語は、しかし、悲しさや辛さにまつわることばで読者の感情をあおることがない。そこがいい。
 むしろ静かな、衒いのないことばの奥に広がる作者のまなざしが、読者に、透明なガラスの向こうに目をこらすような覚醒感をうながすのだ。ここには、作者の文体が──といってもバスク語はまったく理解できないが──訳者の文体とまれに見る幸福な関係にあるのではないかと、読んでいて、想像をたくましくするものがある。

 翻訳の至福!

2016/02/15

J・M・クッツェー『世界文学論集』──朝日新聞に拡大枠の書評が

クッツェーの『世界文学論集』(田尻芳樹訳 みすず書房刊)について、昨日の朝日新聞に書評が載りました。評者は中村和恵さんです!

 クッツェーを「現英語圏、いや世界で最も重要な作家のひとりである」とし、彼が「特権的中心(巨匠)と周縁(その他)に分断されない、ひと連なりの平原に立つ」と指摘、これはクッツェー文学を読むうえで、もっとも重要なポイントと言いたいけれど、なかなか分かっていてもことばにならない部分でした。そこを中村さんはバシッと明言してくれました。お見事!
 こんなふうに、クッツェーが文学を見わたすすぐれて現代的な視点を明示しながら、「この世界文学の平原に古典は投げ返され、再検証されるのだ」と論じ、さらにこの本で「論じられる主題の多くは、じつはクッツェー自身の小説の主題でもある」と彼のエッセイと作品の関係を中村さんは喝破していきます。

「南アフリカ文学」というレッテルを貼られることを、クッツェーはむかしから嫌いました。いまオーストラリアに住むからといって「オーストラリア文学」というレッテルを貼られることも、おそらく彼は忌避することでしょう。ただし、南アフリカという土地から彼の作品を完全に切り離して読んでほしいといっているわけではないことは言うまでもありません。そういう「単一の解釈とナイーヴな論調をつねに警戒しながら、どこまでも覚醒した自己と世界の認識へと、クッツェーは自分を追い立てていく」という、この書評の最後の文もまた、既存の価値観だけで外側から解釈しようとすると見事にはぐらかされる、彼の入り組んだ立ち位置と響き合っているように思えます。クッツェー文学のもつ緊迫感と拮抗した鋭い視点の結びです。

 J・M・クッツェーという作家の全体像が、この論文集が読まれることによってようやく、この地でもクリアに見えるような気配が.......。翻訳された本の内容を深く読み込み、正確に位置づける書評は、多くの読者にとってなによりの指標です。これでクッツェーという作家がいま、あらためて視座にすえようとしている「世界文学」と「南」の文学との位置関係を、ニホンゴ世界で考えていく下地ができたことになるでしょうか。ニホンゴ文学における「世界文学」への視点もまた、クリアになることを期待したいところですが、どうでしょう。

2016/02/13

青山南編訳『作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう』

北海道新聞に書評を書きました。1月31日朝刊掲載です。ここに写真でアップしますが、ネット版はここでも読めるみたいです。

青山南編訳『パリ・レヴュー・インタビュー──作家はどうやって小説を書くのか、じっくり/たっぷり聞いてみよう』(岩波書店刊)です。



2016/02/09

今日はジョン・クッツェーの誕生日

お誕生日おめでとう、ジョン!
Happy birthday, John! 
Bon anniversaire!  ¡Feliz cumpleaños!  
Buon compleanno! Alles Gute zum Geburtstag! 
Veels Geluk!
2014年11月、アデレードで、撮影:Nozomi Kubota
メトロポリスの出身でないかぎり、そして一般的に、北のメトロポリスのことを語らないかぎり「田舎者」であり「マイナー」であると運命づけられるという考えこそ、われわれが抵抗しなければならないものです──J・M・クッツェー(April 2014:ブエノスアイレスで)

2016/02/07

これからの「世界文学」のために

昨年秋にみすず書房から出た J・M・クッツェー著『世界文学論集』(田尻芳樹訳)をめぐって「パブリッシャーズ・レビュー」に書いた文章をここにアップしておきます。未読の方はぜひ!



文字が縮小されて読みにくい方はこちらへ!

2016/02/06

フアン・ガブリエル・バスケスの『物が落ちる音』

思い切り読書にあてられる自由時間に、フアン・ガブリエル・バスケスの『物が落ちる音』(柳原孝敦訳 松籟社)を一気に読んだ。おもしろかった。

 おもしろかった──という表現ではいささか言い足りない面白さだった。
 読了して思うのは、バスケスがどうしても書きたかったのは、麻薬をめぐる暴力にまみれた80~90年代のコロンビアではなかったかということだ。彼の青春時代と重なる時間、すでに過去となったいま、あれはいったいどういうことだったのかと。

たまたまビリヤード場で知り合った男といっしょに路上で銃撃されて腹部を撃たれ、その怪我の後遺症とPTSDのために性的インポテンツになってしまった主人公が、撃ち殺されたその男の過去を探り、1本の録音テープを手かがりに、いったい過去に何があったのか、どういうことなのか、と自分が撃たれた理由を探る旅に出る。そのプロセスが小説になっているのだけれど、そこからコロンビアとアメリカ合州国の60年代以降の関係が、じわりじわりと浮上するのだ。記憶と歴史をめぐる小説を書く上で、これは心憎いまでの巧みな仕掛けである。バスケス、なかなかの曲者だ。

 大学で法学を教える若い主人公ヤンマラは、ビリヤード場で偶然会った元パイロットのリカルド・ラベルデから、録音テープを聴く場所はないかと訊ねられる。19年間の服役を終えたばかりのリカルドは、だが、路上でいきなり銃殺され、その場にいあわせたヤンマラもまた腹部を撃たれて重傷を負う。銃弾は腹を突き抜け、神経と腱を焼き切りながら、脊椎から20センチのところで止まった──ということがわかるのは第2章で、第1章は断片的な記憶を主人公がふと思い出しながら進むため、物語の幕はあがったのに、その幕が何度もはらりと落ちてくるような感覚が拭えない。しかし幕を持ち上げて舞台の奥をみる努力はすぐに報われ、あとは夢中になって読みふけることになるのだ。

 ヤンマラが撃たれたのはパートナーのアウラとのあいだに娘が生まれる直前で、名前もレティシアにしようと決めたところだった。怪我のリハビリからは復帰したものの、銃弾が焼き切った神経のせいか、PTSDのせいか、主人公は性的インポテンツになってしまう。なぜ自分が撃たれたのか、自分が連座した暴力事件がなぜ起きたのか、断片的な記憶をつなぎあわせて脈絡をたどり、それを解き明かすまでは、もう日常生活でさえ先へは進めない。
 リカルドが最後に聴いたテープ、それは彼のグリンガの妻エレーンがフロリダからコロンビアへ向かう途中で墜落した飛行機のブラックボックスだった。そのテープをめぐって、マヤ・フリッツという女性からかかってきた電話で、物語は謎解きの様相を見せながら、核心へとじわじわと近づいていく。

 エレーンの娘だというマヤはヤンマラと1歳しか違わない。1980~90年代のボゴタで育った人だ。一方、アウラは両親がカリブ海諸国やメキシコなどを転々として育ったため、その時代のボコタを知らない。だから主人公がまきこまれた暴力事件の背景や彼の不安、恐怖の背後にある歴史的事件を深いところで共有しえない。この「知らない」という設定がとても重要なのだ。

 物語は時代を遡って1969年へ。合州国の平和部隊の一員としてコロンビアへやってきたエレーンが、ホストファミリーの息子リカルドと恋に落ち、最後には結婚することになっていったことが明かされる。平和部隊で「活躍する」グリンガを喜ばせようと奮闘するリカルドは、かつて英雄に憧れてパイロットになった男。セスナ機でマリファナを運び、大金を稼ぎ出すようになっていく。ヴェトナム戦争の脱走兵と思しき登場人物、フランク・ザッパの曲の歌詞、『星の王子さま』のシーンなどがじつに巧みに編み込まれ、ペーパーバック版『百年の孤独』の表紙では「E」が逆になったまま14刷というエピソードなどがちらりと挿入されたりする。そのたびに、おっ! と声をあげたくなった。

 しかし。

 最後に主人公がボコタに帰りつき、10階の自宅まで上がるエレベーターのボタンを押すときは、はらはらした。その前に車をガレージに入れたヤンマラが混ぜたばかりのコンクリを指で触れてみるシーンがあるのだが、それが限りなく不穏なサインに思われてしかたがなかった。エレベーターがいまにも「落ちそう」な予感に満ち満ちて……。帰った家はもぬけの殻。妻や娘は麻薬がらみの暴力のこととは無縁だ。そのことが、逆に、彼女たちにとっては幸いではないか、彼女たちのその「無垢」を自分は守ってやらなければ、と主人公が吐露するところがなんとも切ない。その一点からみるなら、これは純愛小説だといえなくもない。そして波乱含みの今後を匂わせながら、物語はどこかハッピーエンドの予感をもただよわせて終わる。

クッツェーとバスケス、2014年8月
 ある日突然、モノが次々と落ちて、崩れて、墜落して、ずたずたになっていく。壊れた日常を、主人公が記憶の断片を頼りに、脈絡を取り戻そうとするプロセス、それは歴史のリアリティの再構築にほかならない。それはまぎれもないこの作品の核心にある。
 しかしまた、ここに描き出された「時代」は決して過去ではないのだ。麻薬がらみの暴力沙汰を「テロ」や「戦争」に置き換えてみると、それは世界中の、時代を超えた物語となっていく。だからこれはすぐれて現代的な、開かれたテクストともいえる。
 銃殺されたリカルドや、墜落死したエレーンは、いってみれば、わたしの同世代人だ。1969年とそれに続く時代、ヴェトナム戦争と反戦運動の時代を、コロンビアの次世代作家がアメリカス全体の歴史として再構築してみせる作品は、ラテンアメリカから出てくる作品群にともすると被せられる「マジックリアリズム」という分厚い霧を取り払ってくれる作品でもあった。

 さあ、次は『コスタグアナ秘史』だ! 柳原さん、バスケスを訳してくれてありがとう! 

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付記:2016.2.7──昨夜、ふとんに入ってから頭のなかを『物が落ちる音』の断片がはらはらと落ちて、ふと気づいたことがある。この作品からは、かつてよく見聞きしたラテンアメリカ文学の「マッチョ性」がきれいに消えているのだ。これはいくら強調しても強調しすぎることはないように思う。女性の描き方が秀逸。1969年前後の男と女の関係の描き方も嫌味がない。『わが悲しき娼婦……』といった妄想の靄からみずからを解放した(?)1973年生まれの男性作家の本格的日本上陸を心から歓迎したい。

2016/02/02

温又柔の『台湾生まれ 日本語育ち』

「わたしはいま、なぜ、ここにこうしているのか?」を考えるための刺激的な本がまた一冊あらわれた。台北の古地図の上の、透明な東京の街を背負ったヤドカリの表紙とともに。
 著者の温又柔は1980年生まれだから、わたしにとっては子供たちの世代に属する。3歳のときに台湾から日本に移り住んだ。それまで乳のように吸収し、彼女を取り囲む人たちとコミュニケーションに使われていたのは、台湾語混じりの中国語だった。それが温又柔が世界と初めて出会ったときの言語だ。といっても「そういうことだったのか」と彼女が認識するまでの過程は、それほど単純ではない。

 日本へ移り住み、幼稚園に通いはじめたとき、彼女の言語環境に決定的な変化が起きる。日々、ニホンゴが圧倒的な質量をもって彼女の世界へ侵入しはじめるのだ。どうしてわたしは「みんな」と違うのか──幼い人が家族以外の「世界」で多かれ少なかれ、まず出くわす大きな疑問だ。それが言語や文化の差異をともなうと、ちょっとした戸惑いが何倍もの重さでのしかかってくる。その違和の感覚が丁寧に、丁寧に書かれていく。

 ニホンゴはまた、大日本帝国による占領期に成長した彼女の祖父母の世代が、学校で強制された言語でもあった。その子供の世代にあたる彼女の両親は、中国本土からやってきた蒋介石の国民党政権によって中国語が「国語」として強制される時代に成長した。もとからあった台湾語/閩南語を生活の基層に残しながらも、外から言語を制度として強制される、それを二世代にわたって体験した人たち、それが温又柔の祖父母と父母なのだ。
 著者自身は、みずからの選択とはこれまた無縁に、日本語を使う「社会」のなかに埋め込まれた。そこで出会ったさまざまな「違和感」がたどり直されるプロセス。そしてあとから獲得したニホンゴで書く作家、温又柔が誕生するプロセス。

 著者はその絡み合った体験を解きほぐし、さまざまな光をあてながら、時間をかけて思考し、言語化し、それを見通しのきく書き方で、問いとして読者に差し出す。「国」とは何か、「母国語」とは何か、「母語」とは何か。台湾という土地がたどってきた歴史をしなやかな日本語で、あくまで自分の体験に即して記述しようとする。だが、この作家の文章が明示する朗らかな作法の奥には、ここに至るまでに経験したであろうなみなみならぬ煩悶がかいま見える。その努力の果実を、柔らかく強靭な精神に裏打ちされた日本語で(ときに中国語や台湾語にピンインもまじえて)、惜しげもなく読者の前にならべてくれるのだから、これは日本語とその言語使用者へのかけがえのない贈り物というしかない。
 まるで、長旅に疲れてたどりついた宿で出された温かいスープのように、わたしはこの本を読んだ。身心に沁み入る滋養ゆたかなことばとして。明朝の目覚めを確かに約束することばとして。

「わたしは台湾をもっとよく知りたい。それは、他でもない日本を知ることでもあるのだから」──p171。「わたしのパスポートは日本語」──p180。「中国語や台湾語を次から次へと日本語に置き換えるようになった7歳の頃、きまじめな「翻訳家」がわたしのなかで生まれ……」──p232。この作家特有のさわやかな、しかし、はっとする表現がちりばめられている本書の圧巻は、やはり、日本が植民地統治した台湾で呂赫若が日本語で書いた作品をめぐる章だろう。ここを読むと、言語と言語をまたぐ翻訳について、「ニホンゴ」と他の言語とのあいだだけでものを考えてきた人間の足元がぐらりと揺れるはずだ。こ気味よく。

 この本が書かれたこと、そしていま読まれることは、だから、大きな希望だとわたしなどは思う。「言の葉」という表現にあらわれる、いかにも状況に引っ張られ、流されてしまいがちな軸のないニホンゴ感覚に、この本は一本のしやなかな軸を打ち込んでくれるからだ。そして「日本語は日本人だけのものなのだと錯覚してもおかしくない状況が、長いこと続いていた」と過去形で明記し、かつ体現する者の存在が、いまどれほど貴重かがはっきりと認識できるからだ。「日本語使用者」にとってそれは計り知れない贈り物である。書くとは、まさに、あたえて、あたえて、あたえることなのだ。

 3.11以降、わたしはニホンという土地に生まれたというより、ニホンゴという言語内に産み落とされて生きてきたと考えるようになった。そして、ニホンゴのなかで生きつづけるのだと意志するようになった。おそらくこれは、わたしだけではないだろう。この本には、そんな「ニホンゴ使用者」の心に強く響くものがある。

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追記:Muchas gracias、又柔さん。