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2024/02/19

「アイドルを探せ」と青いラメのセーター

 5年前に「水牛のように」にこんな文章を寄せていた。すっかり忘れていたけれど、母が逝ってもうすぐ10年になるので、ここに再度アップしておきたい。

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難破船にヴァルタン(星人?)



いや、じつはヴァルタン星人の話ではないのだ。

 北海道の田舎町に住んでいた10代のころ、テレビで「シャボン玉ホリデー」が翻案和製ポップスをやっているのをよく観ていた。そのうちオリジナルの曲を聴きたくなって、遠い東京から飛んでくる電波に5球の真空管ラジオのダイヤルを必死で合わせた。木製で、スピーカーの前面が布張りのあれだ(と言ってもほとんどの人にはイメージできないと思うけれど)。ニッポン放送、文化放送、TBSラジオ、etc…1964年ころのことだ。

 そのころ流行った曲が、YOUTUBEを探すと出てくる、出てくる。いつだったかそんな曲をブログにアップしたことがあった。サンレモ音楽祭なんてのが話題だったころのウィルマー・ゴイク「花咲く丘に涙して」とか「花のささやき」とか、60年代末に流行った歌謡曲の「ひどい」歌詞をこてんぱんに批判しながら。
 数日前の深夜に、疲れた耳になつかしの一曲を、とペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」の動画をクリックしたら、すぐ下にシルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」が出てきた。おお! 白黒の、粒子のあらい動画だったけれど、これが思いのほかよかったのだ。中学生のころは、あまり聞こえなかったフランス語の歌詞が、耳にちらほら聞こえてきた。1964年のヒット曲か。

 Ce soir, je serai la plus belle pour aller danser⤵︎⤴︎ Danser⤴︎

 ス・ソワール、ジュ・スレ・ラップリュ・ベル・プーラレ・ダンセェエエ。ダンセェエ。
(今夜はあたし、サイコーの美人になって踊りにいくんだ、踊りに)
 
 中2女子の耳には「ラップリュ・ベル」が「ラッキュ・ベル」と聞こえて「?」だったのだけれど。動画のシルヴィちゃんは、あごまでの髪をふわっとカールさせている。でも、ひらひらの衣装は揺れても、髪が揺れない。これには笑った。あのころはスプレーでカチッと固めたのだ。だから一見ふわっとしたカールも、決して揺れない。
 じつはシルヴィ・ヴァルタンのイメージが苦手だった。マリリン・モンローふうに軽く口もとをゆるめて、あごをあげ、上目づかいの目線はどこか眠たげ、そんなショットが多い。男に受ける金髪美女のイメージ、知性は隠す。ああ、もやもやする。鬱陶しい。なにしろ反抗期まっさかりだからね。いまなら、I matter.  I matter eaqually.  Full stop. といえるんだけど。

 シルヴィ・ヴァルタンはブルガリアからの移民だと、Wiki を見て知った。1944年生まれ、8歳でフランスに家族で亡命、17歳でデビュー、20歳でロッカーのジョニー・アリディと結婚、翌年息子誕生、15年後に離婚、ect…。父は外交官でアーチストだったというから、移民とはいえ恵まれた環境で育ち、とことんエンタテナーとして生きてきた人なのね。日本に20回もきてたなんてぜんぜん知らなかった。後年きりっとカメラを直視する目はいいな──現在74歳か。ヴァルタン星人はこの人の名前からとられたって、ホントカナ? 『地球星人』は読んだばかりだけど。

 でも、じつは今回「アイドルを探せ」の初期バージョンを聴いて、ありありと思い出したのはまったく別のことだったのだ。ヴァルタンの声といっしょに浮かんできたのは、屋外のスケートリンクを青いラメ入りセーターで滑っている少女の姿だった。

 北の深雪地帯のスケートリンクは、雪を踏み固めて水をまいて作る、陸上競技場のトラックのような楕円で、まんなかに雪がうず高く積もっている。前夜に降った雪は除雪して、凹凸部分にはホースで水をまいて再度凍らせる。これで、つるつるの町営リンクのできあがり。場内には流行りの音楽が鳴っていた。あのころ、いつ行ってもかかっていたのがこの「アイドルを探せ」だった。だから記憶のなかでこの曲と強く結びついているのは、1964年の冬の、あの町のスケートリンクなのだ。
 青いラメ入りのセーターを着て、毛糸のマフラーに毛糸の帽子、伸縮する布のスキーズボン(スケートズボンとはいわない)、もちろん手袋は太い毛糸で編んだミトンで、まだレザーの手袋はなかった。黒いスケート靴を買ってもらったときは歓喜した。刃の長いスピードスケートで、前屈みの姿勢でエッジをきかせてコーナーワークをやる爽快感は、雪に閉じ込められて過ごす長い厳寒の冬を制圧するサイコーの復讐法だった。

 記憶をたどれば、スケート靴はたぶん母が買ってくれたのだ。ラメ入りのセーターはわたしのリクエストで母が編んでくれたものだ。激しい反抗期の中2女子は、もてあましたエネルギーをポップミュージックとスケート、スキーに投入した。記憶をたどれば、それを可能にしていたのは、女の子がスピードスケートなんかやって、女の子がスキーなんかやって、と周囲の人たちに陰口をたたかれても、気にしなくていい、やりたいことをやりなさい、といって長すぎるスキー板まで買ってくれた母のことばだった。思い出した。
 あのスケートリンクで鳴っていた「アイドルを探せ」が──シルヴィ・ヴァルタンはこの曲に尽きる──難破寸前の記憶の船から当時の母のことばをすくいあげ、救命ボートに乗せてくれたみたいなのだ。これは深夜の音楽救助隊か。Merci beaucoup, la musique!

 母が逝って5年が過ぎた。


(「水牛のように」2019年5月号)

2016/05/20

「ピンネシリから岬の街へ」がユング・ジャーナルに載りました

 ジョン・クッツェーの『青年時代』に出てくるエピソードと、ケープタウンを訪ねたとき思った故郷の山ピンネシリのこととが、なぜか突然つながって、一篇の詩になりました。それがウェブマガジン「水牛のように」に掲載されて、やがて詩集『記憶のゆきを踏んで』(インスクリプト、2014刊)に収められました。

「ピンネシリから岬の街へ」

この詩が詩人の田中庸介さんのお目にとまり、「ユング・ジャーナル」に掲載されました。2016年冬号です。日本語のオリジナル・バージョンと英訳バージョンが左右見開きページにならんでいます。訳者は田中さんと、日本文学の研究者であり翻訳家であるジェフリー・アングルスさん。お二人に深く感謝します。
 ネット上のユング・ジャーナルはこちら! 全4ページの最初のページをここで見ることができます。

2018.6.13付記──いま見るとここで英訳の詩が読めるようになっていました。

2015/01/29

インタビューが載りました

アルクの『翻訳事典 2016年度版』というムックにインタビューが載りました。インタビュアーはベテランの大橋由香子さん。とりとめもなくしゃべった内容を、すばらしくポイントを押さえてまとめてくださいました。
 訳本なども紹介するコーナーがあり、クッツェーの三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』、アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』、そして詩集『記憶のゆきを踏んで』の写真が左ページ下にずらりとならんでいます。もちろん、それぞれの本の紹介も!

 また、わたしが翻訳を始めたきっかけになった藤本和子さんとの出会いのエピソードが、「わたしの翻訳学校」というコラムになっています。右ページ下です。思えば、あれは1984年、そのとき藤本さんに教わった3つのことが、箇条書きになって出ています。この教えはいまも変わらないなあ、とあらためて読み直してしまった。
 そうそう、アデレードでジョン・クッツェーさんのお宅にうかがったときの写真も、小さいけれど、載ったのでした。ジョンとのツーショット。
 大橋さん、お世話になりました。ありがとうございました。

2015/01/08

「アフリカン・アメリカン」と「アメリカン・アフリカン」

 2015年を迎えて初めてのブログ書き込みです。2014年をふりかえってみると:

  5月:詩集『記憶のゆきを踏んで』(水牛、インスクリプト刊)
  6月:クッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト刊)
  9月:クッツェー&オースターの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)

 詩集と訳書2冊を出すという、ここ数年のうちで最も多産な年となりました。
 さらに11月にはオーストラリアのアデレードで開催されたJ・M・クッツェーをめぐる「トラヴァース:世界のなかのJ・M・クッツェー/Traverses: J.M.Coetzee in the World」というシンポ+フェスタに招待されるというラッキーな出来事もあり、いつもなら机に向かって坦々とキーを打つ暮らしが、一転して、あちこち動きまわるというペースになりました。そのため自分でも気づかないうちにエネルギーが切れてきて、暮れからはしばらくPCから距離を置く必要が生じました。ブログも休みがちとなりましたが、今日から復帰です。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 この間、いくつか新しい進展もあり、それが間もなく形になります。それらが出版されて書店にならぶころ、このブログでもお知らせしていきますが、まずはこのところ遠ざかっていた音楽の話題で始めましょう。

 暮れから聴いているニーナ・シモン。60年代のアルバムを少しまとめて聴きなおしました。

Nina Simone sings the Blues (1967年録音)
'Nuff Said!/Nina Simone (1968年録音)
Black Gold/Nina Simone(1969年録音)

 どれもライブ録音で、当時のアメリカ合州国でニーナ・シモンというミュージシャンがどれほど絶大な人気を誇っていたか、それが手に取るように分かります。
 60年代公民権運動、ヴェトナム反戦運動にからんだ集会やコンサートにもひっぱりだこだったという、この黒いディーヴァは、白人や男たちに決して媚びない姿勢が圧倒的に支持されたようです。

 とりわけBLACK GOLDというアルバムの最後の曲「To Be Young, Gifted and Black/若く、才能にあふれた黒人で」は心にしみます。ロレイン・ハンズベリーが書いていた戯曲と同タイトルの曲です。
 ハンズベリーは1930年生れの戯曲家で、黒人女性としてまれにみる才能を発揮しながら、若くして(なんと、34歳という年齢で)ガンで逝った人。1933年生れのニーナ・シモンにとってはまさに同時代、同年代のアーチストであり、実際親しい友人だったといいます。あの60年代をともに生きた人だったのですね。
 
 そんなニーナ・シモンも、晩年はパリに移り住み、そこで2003年に没しています。パリの「アフリカン・アメリカン」だったニーナ・シモン。今年翻訳に取り組むチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』は、逆に、アメリカに渡ったアフリカ人女性イフェメルが中心となる物語ですが、ここに「アメリカン・アフリカン」という表現が出てきます。

「アフリカン・アメリカン」と
「アメリカン・アフリカン」

 地球上を何百年のあいだに移動した人びとの歴史が、そして、それぞれの歴史的な立ち位置、その意味合いを考えてしまう作品です。

2014/11/29

数日前に「現代詩年鑑 2015」が届いていたのだ

朝から曇りのお天気で、すっきりしない。体調もすっきりしない。ついに、アデレード・ハイが切れてきた。

 だいじょうぶかなあ、と家族からさんざん心配されながら、11月初旬、ひとりでオーストラリアのアデレードまで行って、帰ってきて、へたると予想されていたのに、逆にハイな状態で突っ走ってきて2週間。
 ついに昨日あたりから、切れてきたのだ、アデレード・ハイが。笑うしかないな、これは。今日は外出は不可だ。行けずに残念な催しがあるのだけれど。


 アデレードのホテルで「現代詩手帖」編集部のFさんから嬉しい連絡を受けたことは前にも書いた。その「現代詩年鑑2015」が数日前に届いていたのだ。「──JMCへ」という献辞のついた「ピンネシリから岬の街へ」が入っている。嬉しいことはさらに重なり、「今年度の収穫」に須永紀子さんが『記憶のゆきを踏んで』をあげてくださった。

 須永さんの新しい詩集『森の明るみ』はすてきな詩集だ。粒ぞろいのことばたちが、手で触れそうなほどの確かさでならんでいる。アデレードから無事に帰還して、じっくりと読んだ。カバーの絵もまたいい。

2014/11/20

ピンネシリから岬の街へ──JMCへ

 アデレードに着いたとたんに目に入った樹木、それはジャカランダだった。もう花の盛りはすぎてはいたが、若葉の季節にまだ美しい色合いを見せていた。左の建物はアデレード大学構内にあるエルダー・ホール。内部は教会で、イベント初日の夜にJ・M・クッツェーの朗読会が開かれたところだ。

 アデレードに向かって出発する前の一週間は、なぜかシーンと静かだったメールボックスが、10時間あまりのフライトのあとホテルに着いてPCをセットアップした途端に、新着メールがいくつも届いていて驚いた。そのなかに詩集『記憶のゆきを踏んで』の一編「ピンネシリから岬の街へ」を今年の「現代詩手帖年鑑」に入れたいというメールがあった。
 詩のタイトルの裾に「──JMCへ」と入っている通り、これは1960年代にケープタウンからロンドンへ渡った青年ジョン・マクスウェル・クッツェーに捧げる詩なのだ。詩集を2日後にクッツェー自身に手渡す予定だったのだから、まさに good timing! 

 もちろん作家は日本語が読めるわけではないけれど、でも彼は若いころ中国語を学んでいるため、漢字はある程度読めるのだ。
 翌日は、初夏のアデレードの青紫のジャカランダの花びらをながめながら街を歩いた。オーストラリアはアジアに近い。アデレード大学構内にあるのは、教会ばかりではない。こんな孔子像も立っていたのだ。

2014/08/02

明日の夜は、下北沢に雪が降る?

天気予報です──明日は真夏の夜に、下北沢で雪が降るかもしれません。


いえいえ、雪はすで積もっていて、それを踏みしめる夕べです。

靴の先でつんつん突きながら、北に生まれた者がふたり、

ことばの雪を舞いあげます。

妖怪も出ます。

ひょっとして、それって、雪女? 

  くぼたのぞみ × 中村和恵


明日です! みなさん、ぜひ!

B&Bで、午後7時から。

2014/08/01

「現代詩手帖 8月号」に『記憶のゆきを踏んで』が


「現代詩手帖 8月号」の詩書月評で、水島英己さんが『記憶のゆきを踏んで』を取りあげてくれました。こんな引用も。

 ここから出て行く
 閉じ込められずに
 プロヴィンシャルとは
 地方とは
 そんな思いを募らせる場所
 それでいて
 土くれとともに
 あの風景のなかに
 死んだら姿を消したい
 紛れたいと 思いをはせた遠い記憶
 ノスタルジアふくらませながら
 回顧する場所
                粉雪が舞い狂うピンネシリの

                       「ピンネシリから岬の街へ──JMCへ」
 
 水島さんの文章のなかに「翻訳者であるということは言語の複数性を自らの肉体で生きるということにちがいない」ということばがあった。Muchas gracias!

2014/07/31

『記憶のゆきを踏んで』が共同通信の記事に

詩人の平田俊子さんが担当する月評「詩はいま 7月号」で、詩集『記憶のゆきを踏んで』(インスクリプト刊)を取りあげてくれました。とても嬉しいです。
 前半は八木忠栄氏の『雪、おんおん』(思潮社)について。新潟出身の八木氏の詩には新潟の雪が降り、北海道出身のわたしの詩には北海道の雪が降っている、と書いてくださった。たしかに、新潟の雪と北海道の雪とはちがうけれど、真夏に雪の詩集が二冊、というのも涼しげな趣向です。Muchas gracias!



2014/07/13

お花が届いた:詩集の感想の代わりにと

ぴんぽ〜ん、とチャイムが鳴って、いつもの宅急便のお兄さんが、縦長のダンボール箱を抱えてドアの向こうにあらわれた。
「ええっ、大きいなあ、なんだろ?」ドアを開けて受け取った家人の声がする。
「お花みたいですよ」そのお兄さんの声もする。

 学生時代からしばらく「未踏」という同人誌を出していたことがある。花はそのとき誌面でいっしょだったYさんからのプレゼントだった。2冊目の詩集『山羊にひかれて』を出したとき、当時、M新聞の武蔵野支局長をしていたYさんが、吉祥寺で出版記念会を開いてくれたのは、1984年だった。
 あれから30年。仲間だった人たちのなかにはすでに故人となった人もいる。同人誌の題字を筆で書いてくれた師の安東次男も鬼籍に入った。今回は、みんなで集まるのもちょっと無理そうだから、と花を贈ってくれたのだ。その心遣いがとても嬉しい!

 4冊目の詩集『記憶のゆきを踏んで』を出したのは、ひとえに、J・M・クッツェーの作品『サマータイム、青年時代、少年時代』を翻訳する過程で、みずからの出身地の記憶と向き合わざるをえないと思ったからだ。花と同時に送られてきたメッセージには、「北海道から南アフリカまで一跨ぎのミューズ」ということばも添えられていた。わたしの詩に霊感をあたえてくれるものとはなんだろう? 今回にかぎっていえば、おそらく、翻訳という行為そのものだろうな。

 8月3日夜、「失敗して転んでも笑ってはいただくつもり」という中村和恵さんをゲストに迎えて、下北沢のB&Bで朗読会を開きます。ぜひ、足をお運びください。

 

2014/07/02

8月3日(日)真夏の夜のイベントをB&Bで

イベントをやります。場所は下北沢のB&Bです。

「こぼれ落ちることばたち
 ~翻訳をして、詩を書いて」
『記憶のゆきを踏んで』
『天気予報』刊行記念

中村和恵さんといっしょです。8月3日夜7時から。今年はふたりとも、ひさびさに詩集を出しました。
出し物は詩の朗読とトーク。中村さんはなにやら面白いパフォーマンスも考えてくれています。ふたりとも北海道出身者なので基本的に直球が得意ですが、中村さんは絶妙な変化球を出す隠しわざの持主でもあります。さて、どんな展開になるのやら! ビール片手に真夏の夜を、ごいっしょに! 

お申し込みはこちらへ!