Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2018/11/30

ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(2)


Dusklands 初版カバー
J・M・クッツェーが Late Essays の最終章になぜ「The Diary of Hendrik Witbooi/ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」を入れたか?
 それを考えるために、ヴィットボーイが生きた大ナマクワという土地の歴史について再度学び直している。舞台は南西アフリカ、現在のナミビアである。

 クッツェーの初作『ダスクランズ』を訳した者として考えざるをえないのは、現在78歳のこの作家のこだわりがどこにあるかだ。というより、むしろ考えなければならないのは、「英語で発表した」最新エッセイ集、というか作家論ともいえる書評集の最後に、19世紀から20世紀にかけて南部アフリカの土地で起きた出来事をめぐる文章を置いた理由だ。
 
念のため、Late Essays の目次を書いておこう。

1. Daniel Defoe, Roxana
2. Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter
3. Ford Madox Ford, The Good Soldier
4. Philip Roth's Tale of the Plague
5. Johann Wolfgang von Goethe, The Sorrows of Young Werther
6. Translating Hölderlin
7. Heinrich von Kleist: Two Stories
8. Robert Walser, The Assistant
9. Gustave Flaubert, Madame Bovary
クッツェーの最新エッセイ集
10. Irène Némirovsky,  Jewish Writer
11. Juan Ramón Jiménez, Platero and I
12. Antonio Di Benedetto, Zuma
13. Leo Tolstoy, The Death of Ivan Ilyich
14. On Zbigniew Herbert
15. The Young Samuel Beckett
16. Samuel Beckett, Watt
17. Samuel Beckett, Molloy
18. Eight Ways of Looking at Samuel Beckett
19. Late Patrick White
20. Patrick White, The Solid Mandala
21. The Poetry of Les Murray
22. Reading Gerald Murnane
23. The Diary of Hendrik Witbooi

 23以外はすべて、イギリス(デフォー、フォード)、アメリカ(ホーソーン、ロス)、ドイツ(ゲーテ、ヘルダーリン、クライスト)、スイス(ヴァルザー)、フランス(フロベール)、フランス語で書いたウクライナのユダヤ系詩人(ネミロフスキー)、スペイン(ヒメネス)、アルゼンチン(ベネディット)、ロシア(トルストイ)、ポーランド(ヘルベルト)、アイルランド出身の英語・フランス語で書いた作家(ベケット)、オーストラリアの作家(ホワイト、マーネイン)や詩人(レス・マレー)を論じる文学論である。仏語訳の序文を依頼されて書いた文章とはいえ、どう考えても最後のヴィットボーイだけが異様に際立って見えるのだ。

ペンギン版 Dusklands
『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」は、前にも書いたが、作家クッツェーの出発点だった。18世紀にケープ植民地から大ナマクワランドへ象狩りにでかける「冒険」の旅を記したこのノヴェラは、ヨーロッパ人開拓者のすさまじいまでの自己中心的、暴力的行動とその心理を、これでもかという力技で書いた作品だった。その語りを「歴史文書」として扱う学者の文章をつけ、「歴史の哲学」を問う構成になっている。刊行発表は1974年、南アフリカがアパルトヘイトから解放される20年前、ナミビア独立より16年前のことだ。

 そしていま、ふたたび南部アフリカの土地を舞台にした歴史について書いた「ヴィットボーイの日記」をLate Essays の最後に置く。これは、どういうことだろう。

 ここで着目すべきキーワードは「土地」だ。

ナミビア国花:ウェルウィッチア
クッツェーという作家の、土地へのこだわりを考えていくと、避けて通れないのがケープ植民地を中心にした南部アフリカの歴史である。昨日はナミビアとして独立に至ったその土地の歴史について、Sさんの講義を聞いてきたが、これがめっちゃ面白かった。
 南西アフリカと呼ばれた土地には、まずオランダ人やイギリス人が入りこみ、19世紀末に新興ドイツが植民地にし、さらにイギリス/南アフリカの実質植民地となり、おびただしい血が流されたのち、1990年にナミビアとして独立した。解放闘争時はウランを買わないでくれ、と嘆願していたSWAPO(南西アフリカ人民機構)も独立後に政権党となるや、どんどん外資を招き入れてウランを露天掘りし、外貨を稼いでいる。労働者はウランが身体におよぼす危険性を知らされずに働いているという。

 クッツェーの母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(ポーランド名:バルツァル・ドゥビル)が、ドイツ人宣教師となって南部アフリカへやってきて布教活動を行ったのはこの土地だった。クッツェーが光をあてようとしている土地、一筋縄でいかないナミビアの近現代の歴史については次回に!

 こうしてみると、4月末にブエノスアイレスで開かれた「南の文学:ラウンドテーブル」で語っていたことが一気に浮上してくるのだ。ヨーロッパと植民地、北と南の歴史的な関係の後遺症について。具体的には、報道や文学作品の内容をめぐって、北のメトロポリスを中心にした聴衆や読者が望むものを南が忖度して番組や作品に反映させてしまう、という力学の問題だ。それについては、クッツェーの発言を含めてあらためて論じたいと思う。(つづく

2018/11/22

ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(1)


J・M・クッツェーの最新エッセイ集Late Essays(2017) の最後に The Diary of Hendrik Witbooi 「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」という1章がある。

ヘンドリック・ヴィットボーイ(1830-1905)
ダニエル・デフォーの『ロクサーヌ』、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、フィリップ・ロス、ゲーテ、ヘルダーリン、クライスト、ベケット、パトリック・ホワイトなど錚々たる作家たちの名前に続いて、最後に置かれている。
 ヴィットボーイの名前が「文学者」と並ぶと、ちょっと奇異な感じがするのは、日記を残したとはいえ彼は文学者ではなく、19世紀半ばから20世紀初めにかけて生きた南西アフリカの一民族集団「オールラムOorlams」の王だからだろう。
 クッツェーがここで取りあげる日記は、ケープ・ダッチで書かれているという。ケープ植民地で使われ、部分的に簡素化されたオランダ語だ。ヴィットボーイが王となる集団は、ボーア(オランダ語で農民の意)つまりオランダ系入植者と、コイサン諸民族とのあいだに生まれた「混血」の人たちで構成されていた。『ダスクランズ』第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」やゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』に出てくるグリクワも、ナマ、コイコイ、サンといった先住民とオランダ系白人との混血が中心となる集団で、白人入植者の奴隷だったり、集団として自立しようとしてもヨーロッパ人の統治を受けざるをえなかったことを思い出してほしい。

「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2015年8月にケープタウン大学で行なわれた講座でクッツェーが朗読したテクストで(このブログで触れた)、初期バージョンは、Votre paix sera la mort de ma nation: Lettres d'Hendrik Witbooi (Saint-Gervais: Passager clandestin, 2011)「あなた(方)の平和はわたしの民族の死となるだろう: ヘンドリック・ヴィットボーイの手紙」への序文だったという。フランス語に訳されたヴィットボーイの日記に、J・M・クッツェーが序文を書き、それを4年後にケープタウン大学の講座で朗読音源として披露し、加筆したものを 2017年の Late Essays の最後の章に収めたということである。
 朗読が公開されてから3年後のいま、ケープタウン大学のサイトに記録は残ってはいるが、クッツェー自身の朗読は削除され、残念ながら聞くことができない。(ここからダウンロードすれば聞けます!

さて、ヴィットボーイをめぐるこの文章がクッツェーの最新エッセイ集の最後の最後に入った理由を考えてみたい。

 ヴィットボーイが生きた土地は、クッツェーのデビュー作「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台とそっくり重なる。『ダスクランズ』の第二部であるこの物語は、訳書解説にも書いたが、クッツェーが30代前半の米国滞在中に書きはじめ、1971年に南アフリカに帰国を余儀なくされたころには、ほぼ完成していた。第一部「ヴェトナム計画」は南アに帰国してから書き加えられた作品である。つまり、作家 J・M・クッツェーの出発点はこの「ヤコブス・クッツェーの物語」にこそあるといえる。

 その物語と強烈に響きあう「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2018年現在、クッツェーが向き合おうとしている、土地と歴史の関係に強い光をあてるテクストといえるだろう。

「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台は、ケープ植民地から北西部へ向かってのびる地域だ。時代は18世紀半ば、オランダ系入植者が象狩りのために奥地を探検する話だった。この土地にドイツが侵攻しだしたのは19世紀末のことで、クッツェーの「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」によると1882年にドイツ人貿易商アドルフ・リューデリッツがまず交易のための拠点を築き*、2年後の1884年にドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)を植民地にする、とビスマルクの名前で宣言した。

 第一次世界大戦の敗戦国になったドイツが手放すことになったこの植民地は、イギリスの委任統治領になり、さらにアパルトヘイト政権下で南アフリカが統治権を握ることになる。

 その南西アフリカで1904年から1907(1908?)年のあいだに実行された「ヘレロとナマの大虐殺」が20世紀最初の「ジェノサイド」と認められたのは最近のことだ。ここでドイツが行なったことは、その後のホロコーストへの序盤だったという説が有力になってきている。なぜなら、たびたび起きた先住民の抵抗をドイツ軍が武力で制圧し、最後にヴィットボーイ率いる抵抗軍を完敗させたのがドイツの将軍ローター・フォン・トロータで、彼は絶滅作戦によって北部のヘレロ(バンツー系の黒い肌の人たち)をカラハリ砂漠へ追いやり、南部のナマ(レッド・ピープルと呼ばれる褐色の肌の人たち)を悪名高いシャーク島の収容所に捕虜として隔離し、順次、計算づくで殺していったからだ。まさに、実験的に。
 そのような実践を支えた思想は何か? クッツェーは、ダーウィンから始まる進化思想だと指摘している。なにもドイツ特有というわけではないと。ここは注目したいところだ。

 2004年にドイツ政府はこのヘレロ虐殺についてナミビア国民に謝罪した。
 
 そのとき「ドイツ政府のスポークスパーソンは、ナミビア国民に向けて慎重なことばづかいでスピーチを行なったが、ドイツ人の犯罪に対して、許しを乞う"Bitte um Vergebung"(plea for forgiveness)としながら、"Enschuldigung"(apology)という語は避けた」とクッツェーは書いている。スポークスパーソンが「当時、犯された残虐行為は現在ならジェノサイド(Völkermord)と呼ばれるだろう……そして今日ならフォン・トロータ将軍は起訴され、有罪判決を下されるだろう」と述べた、とクッツェーは Late Essays (p282)の最後に記録したのだ。(つづく
 
2018.11.23 付記──ドイツ植民地政策の専門家であるSさんによれば、リューデリッツがドイツに保護を求めたのは1883年、とのこと。ほかにもいくつか事実関係の細部を訂正しました。Merci, S-san!

2018/11/16

日経プロムナード第20回 馬、名前はない

ぐんと冷え込んできた東京です。11月も後半に入りました。

猛暑の夏をすぎて、短い秋もあっというまにすぎて、いよいよ冬に近づいていく気配が強まります。

 そんな霜月、今回のプロムナードは「馬」です。

  馬、名前はない

 すらりと脚の細い競馬馬ではなく、春になると田んぼや畑で土を起こし、泥を練り、秋になると稲束を運び、俵を山のように積んだ馬車を牽いた農耕馬の話です。
 北海道で農作業に使われた馬は、一般に、なぜか「道産子」と呼ばれていました。
 
 牛、猫、山羊、馬とつづいた動物の話もこれで終わり。まあ、シーンのあいまにちらりちらりと他の動物も出てきますが。主役になるのは今回が最後です。

2018/11/14

ハイデガーとダニ:英語教育12月号

 6月9日にB&Bで行われた「クッツェー祭り」、J・M・クッツェー『モラルの話』発売記念イベントで行われた都甲幸治さんとの対談が、今日発売の「英語教育 12月号」に載りました。

 都甲さんが連載している「境界から響く声たち」の第9回です。タイトルがすごくいけてます。(笑)

  ハイデガーとダニ

 J・M・クッツェー『モラルの話』を読んだ方は、ああ、あれか、とおわかりだと思いますが、そうです、「ガラス張りの食肉処理場」に出てくるあの話です。

 ここに掲載されたのは、当日いろいろしゃべった話のごく一部ですが、よくまとめていただきました。でも、話としては全体の要といえば要だったかもしれません。編集者のKさんに感謝です。ぜひ!
 

2018/11/09

日経プロムナード第19回 電車のなかの七面相

いきなり子どもの話です。そして、いきなりおばあさんの話です(笑)。

J・M・クッツェーの『モラルの話』を訳して、エリザベス・コステロの口調、語調にくふうを凝らしているうちに、コステロばあさん、という表現がひとりで歩きはじめた。

 それと同時に、自分だって、65歳のコステロより年齢は上なんだよなあ、とあらためて思うと、堂々と「おばあさん」と自分を呼んでいいんだと思うようになった。ふん!
 
    電車のなかの七面相

 まったく、変なおばあさんの話です。ニコッと、ニヤッと、笑ってください。子どもといっしょに! いや、いっしょでなくても。ひとりでも!



2018/11/07

世界文学に抗して──『マイケル・K』の読み直し

今日、11月7日3時から、アデレード大学にあるJ・M・クッツェー・センターでとても面白そうなレクチャーが開かれる。

 Against World Literature: Photography and History in Life & Times of Michael K(世界文学に抗して──『マイケル・K』における写真術と歴史)

 講師は、ハーマン・ウィッテンバーグ。ウェスタン・ケープ大学の准教授で、クッツェーが少年時代に撮影した写真やフィルムの編集をまかされた人だ。クッツェー自身の初期作品2昨(In the Heart of the Country, Waiting for the Barbarians)のシナリオを出版した人でもある。 

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 J・M・クッツェーの『マイケル・K』(Life & Times of Michael K)がグローバルな文芸市場に華々しく参入したのは、この作品が1983年にブッカー賞を受賞したときである。南アフリカという国の狭い文脈をはるかに超えて、世界文学という、より広い文化的フィールドでこの本は読まれはじめた。『マイケル・K』を、南アフリカという原点を超えて、ヨーロッパ中心の世界文学という、さらに広いスペースの一部として読むよう後押しをしたのは、もちろん、小説の間テクスト的なオリジンであるクライストの中編小説や、カフカを連想させる一連の偽装である。そういった読み方が主流になったことは、クッツェーが初期のインタビューで「Kという文字はなにもカフカの占有物ではない。それにプラハが宇宙の中心でもない」と指摘していることからみても、クッツェー自身を困惑させたようだ。

この論文は、エミリー・アプターの研究からタイトルを借りながら、『マイケル・K』を再中心化し、さらに、安易に翻訳して世界文学に同化することのできない複雑でローカルな物語として、その作品が根ざしている特定の地域と歴史への認識を失わずに、再読しようとするものである。論文は、写真とノーザン・ケープ州の農場労働者ヤン・ピーリガの物語の影響を考慮することによって、この複雑な事情をたどることになるだろう。
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註:上の文の最後にあるヤン・ピーリガJan Pieriga とは、1980年代にノーザン・ケープ州カミースクローンで起きた殺人事件の殺人犯の名前だという。『マイケル・K』の最初のほうに出てくる「カミースクローンの殺人犯」を記憶している人はどれだけいるだろうか? 母親アンナが働いていた家のある街区が暴徒によって襲われ、暴風雨で荒れた室内をかたづけていたマイケルが発見した古新聞にのっていた写真、そこに写っていた男の射るような眼差し、殺人犯がもっていたとされる武器(棍棒などなど)。その写真を冷蔵庫に貼り付けてマイケルは作業を続けた。

ウィッテンバーグ(中央)Adelaide,2014
 これは実際にノーザン・ケープ州の農場で起きたある事件を下敷きにするものだった。クッツェーはその事件の新聞記事を切り取って参考資料として残していたことは、ランサム・センターに移ったクッツェー文書を精査してデイヴィッド・アトウェルが指摘している。
 カフカやデフォーの作品へ連想を誘う要素をちりばめたこの『マイケル・K』という作品を、もう一度、南アフリカの80年代という個別の歴史と絡めて読み直す試みがなされるというのは、とても、とても興味深い。

 なんでも「世界文学」という大風呂敷のなかに放り込んで、細部が捨象されて読まれていくとしたら、作品そのものが生み出された文脈の必然性が消えていくことになりはしないか? それは作者の望むところだろうか? それは読者のもとめるものと合致するのだろうか?──というのは、わたし自身もクッツェー作品を翻訳しながら、ずっと感じていたことだったからだ。
 とりわけ初期から中期にかけて書かれた南アフリカを舞台にした作品が翻訳されるとき、南アの歴史的事情の細部がブルトーザーでならすように訳されてしまうことに大きな不安を感じてきた。世界文学へ吸収されてしまった視点からは見えない細部こそ、じつは、辺境にある人々にとって、底辺にあって世界の目から見えない(インヴィジブルな)人々にとって、最重要な要素なのではないかと思うからだ。作家は「世界に向けて」その細部をこそ書きたいと思ったのではないかと。

付記:2020/8/24──「北と南のパラダイム」というエッセイを雑誌「すばる」(2019.6)に掲載したが、そこに引用したJ・M・クッツェーの議論にはこの「世界」をめぐる北と南の力学について鋭く論じるクッツェーがいて、この作家の現在地を鮮やかに伝えている。

***
2018.11.9──クッツェーが『少年時代』から朗読するようすです。








2018/11/05

ジュリエットの歌う Les Corons

今日、知ったシャントゥーズ。ジュリエット。
フランスのシャンソンから遠く離れて──というほどのこともないけれど、とにかくこの人の歌はすばらしい。Les corons というのは炭鉱の住宅のこと。




Les corons
Nos fenêtres donnaient sur des fenêtres semblables
Et la pluie mouillait mon cartable
Et mon père en rentrant avait les yeux si bleus
Que je croyais voir le ciel bleu

J'apprenais mes leçons, la joue contre son bras
Je crois qu'il était fier de moi
Il était généreux comme ceux du pays
Et je lui dois ce que je suis

Au nord, c'étaient les corons
La terre c'était le charbon
Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

Et c'était mon enfance, et elle était heureuse
Dans la fumée des lessiveuses
Et j'avais des terrils à défaut de montagnes
D'en haut je voyais la campagne

Mon père était "gueule noire" comme l'étaient ses parents
Ma mère avait les cheveux blancs
Ils étaient de la fosse, comme on est d'un pays
Grâce à eux je sais qui je suis

Au nord, c'étaient les corons
La terre c'était le charbon
Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

Y avait à la mairie le jour de la kermesse
Une photo de Jean Jaurès
Et chaque verre de vin était un diamant rose
Posé sur fond de silicose

Ils parlaient de 36 et des coups de grisou
Des accidents du fond du trou
Ils aimaient leur métier comme on aime un pays
C'est avec eux que j'ai compris

Au nord, c'étaient les corons
La terre c'était le charbon
Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

Le ciel c'était l'horizon
Les hommes des mineurs de fond

ソングライター: Jean-Pierre Lang / Pierre Andre Bachelet
Les corons 歌詞 © Universal Music Publishing Group

*terill =ボタ山

(北海道の赤平、歌志内、夕張、炭鉱のあった町を身近に育ったわたしは、この歌を涙なしには聞けない。ボタ山にも登ったよ、歌志内の歌鉱のボタ山。歌志内のちょっと手前の駅で文殊というところに母の実家があったんだ。)

2018/11/02

日経プロムナード第18回 ペペスープとジョロフライス

今回の日経プロムナードは、食欲の秋にふさわしく(?!)西アフリカの食べ物のお話です。
      ペペスープとジョロフライス

吉祥寺「アフリカ大陸」のペペスープ
ペペスープもジョロフライスも、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』に出てきた料理で、とりわけジョロフライスは登場人物のウグウが何度も失敗しながら、だんだん腕をあげていく料理でした。
 吉祥寺の「アフリカ大陸」というレストランでペペスープを初めて食べました。辛くて美味しかった!

(写真はネットから拝借しました!)

2018/11/01

シカゴ大学でのクッツェーのレクチャー

10月9日にシカゴ大学で行われたJ・M・クッツェーのレクチャー「Growing Up with The Children's Encyclopedia」が昨日からYOUTUBEで「期間限定」で公開されています。
 とても面白い内容のレクチャーなのでぜひ!