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2023/06/11

「海外文学の森へ 56」『過去を売る男』:ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』

東京新聞(6月6日夕刊)のコラム「海外文学の森 56」でジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』(白水社)を紹介しました。

 このリレーコラム、最初は「書評より、もっと柔らかく、身近なことも含めてエッセイふうに」という依頼だったように記憶しています。「柔らかく」がうまくいってるかどうかは別として、今回は、むかしのこともちょっと書いたり。

タイトルは、担当の記者の方が付けてくれたものです。

***アンゴラの風に乗って***

「トッケー、トッケー」と鳴くヤモリが壁を這う家に泊まったことがある。小さな娘たちとタイへ旅した遠い昔だ。『過去を売る男』を読んで、アンゴラのヤモリは笑うのか! と溜め息をつく。アンゴラのヤモリの声も聞いてみたかった。そんな叶わぬ旅への憧憬をかき立てる作品だ。

 主人公フェリックス・ヴェントゥーラはアルビノの黒人、資料を集めて過去を創作し、それを売ることを生業にしている。ポルトガル移民で古書店主の祖父、その息子が養父、という彼の系譜自体が謎めいている。おまけに家に住み着いたヤモリの語りに遠い記憶が入り込む。このヤモリ、かつては人間だったらしい。


 舞台となるアンゴラはアフリカ南西部の大きな国だ。西は大西洋に面し、北はコンゴ民主共和国、南はナミビアに隣接し、かつてはポルトガルの植民地で奴隷の輸出国だった。独立は一九七五年だが二〇〇二年まで内戦が続いた。


 六〇年生まれのアグアルーザは、ポルトガル語にいくつかバンツー系言語が混じる環境で育ったのだろう。作品内には渇いた風が運ぶいくつもの微かな声音が響き、鮮やかな色調が揺れる。


 南部アフリカにはトカゲ、ヤモリといった動物が登場する神話、民話が多い。ズールー民族の詩人マジシ・クネーネが記録した民族創世神話ではカメレオンが神の使者だし、モザンビークの作家ミア・コウトにはハラカブマ(センザンコウ)が男の内部に棲みつく物語がある。


 本書は三十二の短章が深い奥ゆきをもって連なる。過去を買いにきた男、美貌の写真家、浮浪者といった登場人物を天井から眺めるヤモリ。エピグラフのボルヘスが道づれとなり先へ先へと飽きずに読ませる。夢のなかで真実と嘘が一瞬のうちに入れ代わり、過去と現在の境が揺らぐ。


 フェリックスがヤモリと語り合うときは、書き留めたくなることばが多い。雲は「夢の出口に見えない?」とか「幸福とは、たいていの場合、無責任だ」とか。


 土地に染みついた裏切りの記憶がカラフルな房糸となって、一気にほつれて謎が解ける。その向こうに「アンゴラの海」が見えるだろうか?


                      くぼたのぞみ(翻訳家、詩人)


PDFでアップできないので、そっくりペーストします。

2022/11/16

J・M・クッツェー絶頂期の短篇集『スペインの家:三つの物語』発売です

 J・M・クッツェーの絶頂期に書かれた三つの短篇が日本語になりました。『スペインの家:三つの物語』(白水社 Uブックス)です。予定より少し早く11月24日発売で、版元サイトに書影も出ました! この本の原書を入手した経緯はここでお知らせしました。

白水Uブックス, 2022
 収録された「スペインの家」「ニートフェルローレン」「彼とその従者」は、クッツェーの移動期にあたる2000年から2003年に書かれた短篇です。

「スペインの家」が発表されたのは2000年、『恥辱』で2度目のブッカー賞を受賞したばかり。これから移り住む家を、中高年になった男性が結婚する相手に喩えて、あれこれ考える話です。移民先の土地の人たちとの関係はどうなるか、なんてことも描かれています。

 次の「ニートフェルローレン」は62歳まで住んだ南アフリカという土地(農場)は、こんなふうに使われることだって不可能じゃなかったはずだ、と残念に思う気持ちがじわじわとにじみ出てくる作品。そして最後の「彼とその従者」はノーベル文学賞受賞記念講演で、本邦初訳です。

 どれも、飾らない端正な文体で、サラサラと読ませますが、最後の「彼とその従者」はなかなかの曲者です。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をベースにしたポストモダンぶりを楽しんでいると、だんだん「?」となってくる。既知の作品世界の要素をちりばめながら、作家個人の体験へと読者を引きつけていく寓意的な物語なんです。クッツェーはこの短篇を、2003年12月にストックホルムで朗読しました。

 J・M・クッツェーがノーベル文学賞を受賞したのは、南アフリカのケープタウンからオーストラリアのアデレードへ住まいを移した翌年のことです。

 クッツェーという作家がどんな作品を書いてきたか、ケープタウンからアデレードへ移ってどう変化したのか、彼の作品は単なるオートフィクションじゃないのだということも含めて、「訳者あとがき」で謎解きをしました。この作家の曲者ぶりを、ぜひ確かめてください。
 謎解き解説のタイトルにした「大いなる思想と寓意の海へ」は編集者のSさんの発案で、「訳者あとがきに代えて」使わせていただきました。

Penguin 版、2004
 さてさて、Uブックスのカバー(左上の写真)はジョン・クッツェーの渋いプロフィールですが、もうお気づきでしょうか? ここには作家名:J. M. Coetzee に含まれるアルファベットがすべて使われているんです。それも変形を重ねてデフォルメした文字群で描かれています。

 ノーベル文学賞を受賞した翌年にペンギンから出た、おしゃれな、ざらっとしたベージュの布張りの本に使われていたプロフィール(右の写真)です。これは2006年9月に初来日したジョン・クッツェーから何人かの人が、お土産にプレゼントされた本でもありました。

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追記:2022.11.18──Uブックスの帯をとった1冊とつけたままのものを並べて写真に撮ってみた。それをアップして、気がつきました。Penguin版のオリジナル・デザインと微妙に違うのです。襟のところが、、、ふむむむ。

 



2022/04/23

南アで In the Heart of the Country が出版された年は?『生まれつき翻訳』

 ようやく時間ができたので、レベッカ・L・ウォルコウィッツ著『生まれつき翻訳』(監訳・佐藤元状、吉田恭子/訳・田尻芳樹、秦邦生、松籟社, 2021)を読みはじめる。監訳者の方々は「クッツェーファンクラブ」の面々なので、読むのを楽しみにしていたのだ。

 まずは序章「世界文学の今をめぐって」をざっくり読んでいくと、クッツェーという作家名がかなり出てくる。そこはゆっくり読む。するとチカチカと点滅する文字群に出くわした。p24の3つ目の段落はこう始まる

「ニューヨークやロンドンなど出版業界の中心から外れた場所にいる英語作家も、翻訳を余儀なくされることがある。ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴが最初の一連の長編をキクユ語で出版することにしたのはよく知られているが、自らの翻訳で英語でも出版してきた。チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』にはイボの言葉がそこここに使われているが、一九六二年、ロンドンのハイネマンの叢書で出版されたときには用語集が必要だったし、クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが、英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている」(下線引用者)


 アフリカ系/発の作家たちと言語との関係をざっと見渡す部分だが、下線を引いた箇所で「?」となった。クッツェーの第二作目に当たるこの本はまず、イギリスとアメリカで出たはずだ。念のため原文も当たってみたが、原文通りの訳になっているから、これは著者レベッカ・L・ウォルコウィッツの勘違いなんだろう。まず下線部前半。


1)クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが

  In the Heart of the Country(わたしはいくつかの理由で原タイトル通りに『その国の奥で』とする) の「初版は」たしかに1977年に出ているが、南アフリカのRavan社からではなくイギリスのSecker社からだ。同年にアメリカのHarper社からもタイトルが一語異なる形で出ている(理由は後述する)。南アフリカで英語とアフリカーンス語の混じった「バイリンガル版」として出たのは翌年の1978年2月*だ。出版にいたる事情は非常に複雑。この出版年の微妙なずれについては、2014年の拙者訳『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト)の年譜にも、昨年の『J・M・クッツェーと真実』(白水社)の年譜にも載せた。だからここはちょっと残念。


 クッツェーがこの作品を書き上げたときは2つのバージョンがあった、とカンネメイヤーの『伝記』(伝記 p288~)やデレク・アトリッジの著書(Attridge p22)は伝えている。デイヴィッド・アトウェルの作品論(p65~)にも詳しい。(参考図書はブログ下に)

Ravan 1978

 2つのバージョンのうち1つはすべて英語のバージョン。もう1つは会話部分がアフリカーンス語のバージョンだ。ロンドンのエージェント宛てのクッツェーの手紙によると、会話部分にフォークナーが南部訛りの英語を用いたように、自分も英語でローカルな感じを出したいとやってみたがうまくいかなかった、とある。会話は英訳前のアフリカーンス語バージョンがしっくりくるとクッツェーは述べる。


 テクストが海外版と南ア版で異なるこの作品の出版が、南アフリカで一年遅れた理由は、1970年半ばに南アフリカの検閲制度が大きく変化し、作家や編集者が検閲委員会の動きを注視せざるをえなくなったことと関連があるようだ。さらに、旧植民地をも市場にしたいイギリスの出版社と南アフリカの極小出版社との、販売権をめぐる複雑な事情が絡んでいる。


 これはまだ初作『ダスクランズ』が南アフリカでしか出版されていなかったころで、クッツェーは二作目はイギリスやアメリカで出版したいと強く希望していた。そこでレイバンの編集者とイギリスのエージェントと同時に交渉していたらしい。その結果、まず英語のみのバージョンがイギリスとアメリカで出版され、会話部分がアフリカーンス語のバイリンガル版が翌年、南アフリカで出版ということになった。


Harper Collins 1977
 米国版は内容は英国版と同じだが、タイトルがFrom the Heart of the Country になった。これは、Harper の編集者から、In the Heart of the Heart of the Country という書籍がすでにあって図書館に所蔵するときコンピュータ上混乱するので、Here in the Heart of the Country にしてはどうかと提案されたクッツェーが、それでは長すぎるし、自分がつけたタイトルはテキスト全体を貫くあるリズムを示しているのだ、としてFrom the Heart of the Country を提案し、決まった。(下線筆者)

 クッツェーが2つのテクストを準備した理由は、農場を舞台にした会話場面の多いこの作品の本質と関わってくる。南アフリカの農場で用いられる言語は、『少年時代』を読むとわかるが、圧倒的にアフリカーンス語だ。会話はアフリカーンス語であるほうが、クッツェーを含む南アの読者にとって自然なのだ。次に下線の後半部分。


2)英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている。
Secker&Warburg 1977
 先行する「初版が」が事実と異なるので、理解しにくいのだけれど、ウォルコウィッツは「南アフリカの初版」をアフリカーンス語含みのバイリンガル版と考えたのだろう。

 何語から何語への翻訳かは、アトウェルの草稿研究が明らかにしている。会話部分は最初アフリカーンス語で書かれていたが、作家が改稿の見直しをするとき、草稿の反対ページにアフリカーンス語会話の英訳を書きこむようになったのだ。「自分の作品は英語という言語にルーツをもっていない」と明言するにいたった作家の心情が、非常によく出ているのがこの農場を舞台にした『その国の奥で』だった。


 というわけで、どうやらこの作品の出版年をめぐるウォルコウィッツの誤記に、「クッツェーファンクラブ」の面々は残念ながら気がつかなかったらしい。些細な誤記ではあるが、1970年代南アフリカの出版事情は、J・M・クッツェーという作家の誕生にとって重要なポイントなのだが。

 なんでこんな文章を書いているのか、と自問してみる。どうやらそこには、日本のクッツェー研究者に南アフリカのことをもう少し突っ込んで探って欲しいと思っている自分がいることに気づく。アフリカなんか、と思わずに。クッツェーが生まれて育って、20代の10年間をのぞいて62歳まで暮らした土地なんだから。


 ウォルコウィッツのこの本は、トピカルなテーマを追いかける文芸ジャーナリスト顔負けの奇抜な見立てと文章力で読ませてしまうところが、すごい。でもその足場として透かし見える軸は、「世界文学」としての英語圏文学をマッピングして描こうとする「北の英語文学理論」の欲望にあるのではないか。バッサバッサと斬新なテーマで切っていく勢いには、辺境で生み出される個々の作品の、いってみれば英語以外の「その他の言語」で書かれる作品の出版事情なんかにいちいちこだわらなくてもいい、という姿勢が見え隠れする。いや、ぜんぜん隠れてないか(笑)。村上春樹とJ・M・クッツェーを「翻訳」というキーワードでおなじ土俵に並べてしまうのだから。この2人にとって作家として生きる言語環境と、「翻訳」の切実性や必然性の依って立つところは、まるで異なるだろうに。


 また born translated をわたしは「翻訳されて生まれてきた」と訳すことにしているが、それは「生まれつき翻訳」は「分類」「仕分け」には便利だが、作品が立ちあがる動きを切り捨てるニュアンスがあるためだ。おそらくそれは作品翻訳者の姿勢と、数多くの作品を「研究」する者の姿勢の違いからくると思われる。もう一つ、あえていうなら「生まれつき」に続く語にマイナスイメージ(差別語)を呼ぶ気配が消えないからだ。そのような表現を長く、耳から浴びつづけた世代だからかもしれないけれど。


 翻訳はさぞや大変だっただろうなあと推察する。膨大な作品数と原註、そのファクトチェックの結果と思しき訳註で、クッツェーの書評集と小説の冊数をめぐる警告が入っていたりして、苦労の跡がしのばれます……ご苦労様でした。👏👏👏👏


 ちなみに、2022.4.18現在のWikipedia(英語版)In the Heart of the Countryは、出版年、バージョンともに、きちんと事実を伝えています。💖


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追記:2022.4.24──

1)参考図書をあげておきます。(『J・M・クッツェーと真実』にも入れました。)

・Derek Attridge: J. M. Coetzee and the Ethics of Reading, University of Chicago Press, Chicago, London 2004.

・Peter D. McDonald: The Literature Police, Oxford University Press, 2009.
・J. C. Kannemeyer: J. M. Coetzee, A Life in Writing, Scribe, 2012.
・David Attwell: J. M. Coetzee and the Life of Writing, Viking, 2015.

・Marc Farrant, Kai Easton and Hermann Wittenberg: J. M. Coetzee and the Archive: Fiction, Theory, and Autobiography, Bloomsbury, 2021.

・Robert Pippin: Metaphysical Exile on J. M. Coetzee’s Jesus Fictions, Oxford University Press, 2021.


2)『その国の奥で』のことは『J・M・クッツェーと真実』第三章「発禁をまぬがれた小説」で、部分訳も引用しながら、詳述しました。

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さらに追記:2022.11.12──

*「6月」と書きましたが、正しくは「2月」でしたので、訂正しました。

2021/04/19

フェミニズムの視点からJ・M・クッツェー『少年時代』を読み直す(2)

『少年時代』はこう続く。

 母親が独り裏庭で自転車の乗り方を習得しようとする。脚を両側にまっすぐ伸ばして養鶏場までの斜面を下る。自転車が倒れて止まる。クロスバーがないので母親が転ぶことはない。ハンドルにしがみつきながら、ぶざまな格好でよろめくだけだ。
 彼は内心、母親に反感を覚える。その夜は父親のひやかしに加勢する。これがひどい裏切りなのはよくわかっている。いまや母親は孤立無縁だ。

 それでも母親は自転車に乗れるようになり、おぼつかない、ふらつく乗り方ながら、懸命に重たいクランクを回転させる。

 母親がヴスターまで遠出するのは、午前中、彼が学校へ行っているときだ。一度だけ母親が自転車に乗っている姿をちらりと見かける。白いブラウスに黒っぽいスカート。ポプラ通りを家に向かってやってくる。髪を風になびかせて。母親は若く見える、少女のようだ、若くて生き生きとして謎めいている。


 この描写は、もちろん、当時の少年の心理を57歳の作家が鋭く分析しながら書いたものだ。

 少年は、周囲の環境のなかで孤立すると、どうして自分はみんなと違うんだろ、どうして自分の家族が「ふつう」じゃないんだろ、と悩む。でも、自分の母親がみんなとは違うことがちょっぴり自慢でもある。他の家族と違って母親が家で主導権を握っていることにも、変だと思いながら、ありがたいと思う。でも。


 父親は黒く重たい自転車が壁に立てかけてあるのを見るたびに冗談にする。父親の冗談によれば、ヴスターの住人たちは自転車に乗った女があえぎながら通り過ぎるあいだ、仕事の手を止めて身を起こし、口をあんぐりと開けているそうだ。よいしょ! よいしょ!  と彼らは母親を囃し立て、冷やかす。冗談は少しも面白くないが、彼と父親はそのあと決まって大声で笑う。母親のほうは、機知に富んだことばを返すことがない。そんな資質に恵まれていないのだ。「笑いたければ笑えばいい」という。

 そしてある日、なんの説明もないまま、母親は自転車に乗るのをやめる。それから間もなく自転車は姿を消す。だれもなにもいわないが、彼には身のほどを思い知らされた母親が諦めたことがわかる、そして自分にその責任の一端があることもわかる。いつかきっとこの埋め合わせをしよう、と彼は心に誓う。


 でも、幼ない子供にとって、母親は生きるための大地のような存在だ。とりわけ最初の子供は生まれ落ちたときから自分を中心に世界が回っている経験をすることが多いため、母親には、とにかく子供である自分を中心に生きていてほしい。少年の体験として、クッツェーは正直にそれを書く。

 自転車に乗っている母親の姿が彼の脳裏から離れない。母親がペダルをぐんぐんこいでポプラ通りを走りながら、彼から逃げて、自分の欲望に向かって行こうとしている。母親に行ってほしくない。自分の欲望をもってほしくない。母親にはいつも家にいてほしい、家に帰ったとき彼を待っていてほしい。彼が父親と組んで母親に対抗することは滅多にない。断然、母親と組んで父親に対抗したいほうなのだ。でもこの件では、男たちの側につく。

 そして「いつかきっとこの埋め合わせをしよう」と心に誓った少年は、ものすごい勢いで自立して成功への道を探る。ノーベル賞受賞時の晩餐会のスピーチにもあるように、「とにもかくにも、自分の母のためでなければ、われわれはノーベル賞を受賞するようなことを、はたしてするものだろうか?」といってテーブルについた大勢の客達から笑いをとった。

 実は、必ずしも母親でなくてもいいのだけれど、自分を大事に思ってくれる人、自分を大切にケアしてくれる人への繋がりが子供の成長にはとても大切なのだ。幼い生命にとっての養分なのだから、それが手当なく遮断されたり、長期的に途切れたりすると、幼い命は疲弊する。疲弊すると、花でも野菜でも、伸びやかには育たない。子供は自分だけの「誰か特別な人」がほしいものだ。長いあいだそれは「母親の仕事」とされてきた。1940年代の南アフリカでも。
 クッツェーの母親は周囲に同調して、みんなと同じように子供を育てることはしない。その子の性格や力に合わせた教育が大事だとして徹底的に保護する。『サマータイム』の最後の断章でも、シュタイナー、モンティッソーリという教育者の名前を作家自身が引き合いに出している。

 『少年時代』の第1章の最後で、クッツェーは「男たちの側に」ついたことが母親への裏切りだったと自省する。フェミニズムという語が、今のような意味で使われるのは1960年代になってからだ。セクシャル・ハラスメントという語も知られるようになった90年代後半に、50年ほど前の田舎町ヴスターでの出来事を作家は書いている。それも自分自身が息子を早々と失ったのちに。。。

 そのことを考え合わせると、この第一章を書いている作家の位置が、二重、三重に違って見えてきた。読者によって、フェミニズム的視点から分析されるのを待っているような作品ではないか。

****
2021.4.27──昨日、facebookとtwitter でシェアしたときのコメントを備忘のために追加:
「1940年生まれの作家が自分の少年時代、青年時代から30代の「朱夏のとき」まで、徹底的に自分を突き放すようにして他者化して、過去の記憶の内部をさらしながら物語にまとめる作業はフェミニズムという時代の風を受けてさらに輝いて見える」

2021/04/18

フェミニズムの視点からJ・M・クッツェー『少年時代』を読み直す(1)

J・M・クッツェーの『少年時代』を読みなおした。

 16歳の少年ジョンはカルティエ=ブレッソンに憧れて、将来は写真家になろうと考えていた。カレッジ時代のことだ。そのころ撮ったフィルムや機材などが出てきて、Photographs from Boyhood として2020年に出版された。そこにはアーティストとしてのクッツェーの出発点となる方法論が明確に出ている。(日本語訳も2021年の秋に出る。)

 翻訳作業にあわせて自伝的フィクション『少年時代』を再読した。そして面白いことに気づいた。これは個性の強い、しっかり者の母を持ち、その母から深く愛されて育った少年の自伝的物語として読めることだ。つまり、フェミニズム的な視点から読みなおすことができるのだ。

 アパルトヘイト制度が確立されていく1940年代後半の南アフリカで少年時代を送ったジョン・クッツェーは、母親をどんな風に見ていたか。白人女性である彼の母親は社会的にどのような位置にあったのか。母親と少年の関係を軸にしてこの作品を読み直すとどんなことがわかるか。

 学校の成績は抜群だが周囲から浮いてしまう男の子を母親がどう守って育てたか。その母親はどんな人物だったか。これは母と男の子の関係を考えるための宝庫のような作品だった。

 のっけから母親が家に閉じ込められることを嫌って、自転車を買ってくる場面がある。第一章だ。

 母親は、馬は買わない。その代わり予告なく自転車を買う。女性用の中古で、黒く塗ってある。やけに大きく重たいので、彼が庭で試してみても、ペダルをまわすことができない。

 母親は自転車の乗り方を知らない。たぶん馬の乗り方も知らないかもしれない。自転車を買ったのは、自転車なら簡単に乗れると思ったのだろう。そこで母親は乗り方を教えてくれる人がいないと気づく。

 父親は、それみたことかと笑いを隠さない。女は自転車になんか乗らないもんだという。それでも母親は負けない。わたしはこの家の囚人になんかならないわよ、わたしは自由になるの、といって。

 家に閉じ込められずに自由に生きたい、と移動の手段に、母は自転車を手に入れた。

 最初、彼は母親が自分の自転車をもつなんてすばらしいと思った。三人そろって自転車に乗り、ポプラ通りを走っているところを思い描いたこともある。母親と自分と弟と。ところがいま、父親の冗談に母親が頑固にだんまりを決め込むしかないのを見ていると、気持ちがぐらついてくる。女は自転車になんか乗らないもんだ、という父親のほうが正しかったらどうしよう? もしも母親に乗り方を教えてくれる人があらわれなかったら、もしもリユニオン・パークのほかの主婦はだれも自転車をもっていなかったら、とするとあるいは女は本当に自転車になんか乗らないものかもしれない。

 ケープタウンから移り住んだ田舎町は、「女は自転車なんか乗らないもの」とする社会だった。クッツェーの母親ヴェラが、今から見れば非常に自立心の強い頑張りやで、気骨のある女性だったことが伝わってくる。

 

2020/07/09

J.M.クッツェーの展覧会 Scenes from the Southをヴァーチャルツアー

今年2月9日に80歳の誕生日を祝ってマカンダのAMAZWIミュージアムで開かれた展覧会:Scenes from the South をヴァーチャルで見ることができます。

 入り口はここ!

行ってきました! 面白かった、という表現をはるかに超える興味深い写真がたくさん展示されているのですね。
1970年代後半でしょうか、ディアズ・ビーチで息子ニコラスとクリケットをする父ジョン・クッツェーの写真があって。しばらく見入ってしまった。

2020/05/01

河出文庫版 J・M・クッツェー『鉄の時代』

植木鉢にハーブの種など蒔いていると、予定より早く入手可能になっていました。河出文庫版のJ・M・クッツェー『鉄の時代』です。

 最初、カバーを見たときはびっくりしましたが、1990年に出たハードカバーとならべてみると不思議な共通点が浮かび上がることに気がつきました。ともに女性のプロフィールなんです。

右:Secker&Warburg 版 (1990)
原著の表カバーは打ちっぱなしのコンクリのような、木製のような、壁の上に何枚かのガーゼを重ねて、茶色の染みのようなものをにじませ、遠くから見るとギリシア彫刻の、おそらくデメテルの顔が、ぼんやりと浮上するようになっています。裏表紙もまた女性の写真で、顔の上にガーゼが置かれています。
 今回の文庫では、そんな「病んだ人間」を思わせる「ガーゼ」こそ使われていませんが、また別の要素が加味されて……まあ、カバーの話はこのくらいにして。

1990年版ハードカバー裏
これでクッツェー作品の文庫化は、2003年に集英社文庫『夷狄を待ちながら』、2006年にちくま文庫『マイケル・K』(その後 2015年に岩波文庫)、2007年にハヤカワepi文庫『恥辱』に続いて、4作目になります。

 舞台はアパルトヘイト末期のケープタウン、元ラテン語教師だったミセス・カレンが娘にあてて遺書代わりに書く手紙、という形式の小説です。2008年に池澤夏樹個人編集の世界文学全集の第1期に初訳として入りました。翻訳作業が作家の2度目の来日と重なって、膝詰めで疑問点を解決できたのは本当にラッキーでした。そんな裏話は、このブログ内にも<『鉄の時代』こぼれ話>のタグをクリックするとたくさん出てきます。

 作家クッツェーがまだケープタウンに住んでいたころの骨太の作品です。動乱の時代に目の前の現実にどこまでも真摯に向き合おうとする、そんな緊張感がみなぎった作品はこの「コロナの時代」を生き抜くための救命ボートにもなるでしょうか。なるといいなと思います。今回、文庫化にあたって新たに「訳者あとがき──よみがえるエリザベス」を書き下ろしました。J・M・クッツェーの現在地と、彼の作家としての世界的評価についても書きましたので、ぜひ!☆
 

2020/02/14

AMAZWIの写真を追加

新設された文学館AMAZWI

NELM時代に収められたクッツェーの第二作「IN THE HEART OF THE COUNTRY」のゲラ(RAVAN PRESS)
**追記:上の写真はtwitter から拝借しました。あしからず!

2020/02/11

大成功のAMAZWIのイベントをめぐる写真をいくつか

南アフリカの東ケープ州グレアムズタウンに開設されたAMAZWI(旧NELM)で、JMクッツェーの80歳の誕生日を祝う会が開かれた。


 カンネメイヤーの伝記によれば、NELM時代の1970年代後半に、Dusklands の原稿*をこの文書館におさめたいと、ケープタウンにJMクッツェーを訪ねたのが、その当時ここの仕事をしていたドロシー・ドライヴァーだったとか。


東京でも/@国立文流、すてきなデザートプレートを用意して、ささやかなお祝いの会が開かれた。(ロウソクを灯して写真を撮っていたら、アイスクリームが溶けだして、クッツェーさんの顔の左側が消えそうになって……あせった!💦💦💦)

***
追記:2020.1.12──AMAZWIのfacebookのサイトから拝借した写真。Picture: Lara Salomon

以下はAMAZWIの(展示?)写真からのようです。






クッツェーが朗読するようす、ドロシー・ドライヴァーがレクチャーをする写真、ティナ・ショッペのイベントの写真もありました。とても充実した文学館になったようです。

ここからふたたびイベントの写真です。
ローズ大学副学長シズエ・マビゼラと握手するジョン・クッツェー
デレク・アトリッジ(右)の司会でJMクッツェーの影響について語り合う
(左から)ミヒール・ヘインズ、シピウォ・マハラ、エレケ・ブーマー、ンティケン・モシェレ

ジョン・クッツェーとヘンリエッタ・ダックス

ジョン・クッツェー満面の笑み!
***
追記:2020.2.13──でも、今日になって感激的(わたしにとって)な写真がアップされていました。Clerke's Bookshop のオーナー、ヘンリエッタ・ダックスとジョン・クッツェーがことばをかわしている写真です。ケープタウンを訪れたときこの古書店に何度も足を運びましたが、ヘンリエッタさんは残念ながら不在で会うことができなかったのです。
1990年代、まだネット書店もないころ、このクラーク書店からファックスで何冊も本を取り寄せました。南ア版の書籍はいまでもここから取り寄せたりします。カンネメイヤーの伝記も(オーストラリアやイギリス版が出る前に)まっさきにここから買いました。

このブログポスト、最初は2月11日にアップしましたが、追記しているあいだに2月9日から始まったイベントは火曜日(11日)に終わり、大成功をおさめたとメイン参加者からの情報がありましたので、それにまつわる写真やコメントを追加しました。これを書いている現在は2月13日お昼(日本時間)です。

***
2023.12.2──*NELMの職員だったドロシー・ドライヴァーさんが1970年代後半にケープタウンにクッツェーを訪ねたとき、原稿を譲り受けたいと申し出た作品は『ダスクランズ』でした。『その国の奥で』ではなく。カンネメイヤーの伝記(Scribe)p.374に出てきます。勘違いをお詫びして、訂正いたします。

***
写真のうち、AMAZWIのfacebookから拝借したものは©Lara Salomonです。





2020/01/02

エンプティネス──なにもない/ほっとする

 この写真はいったいなにを撮ったのか分からない……と装幀家に言われた写真がある。J・M・クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの<自伝>』のカバーになった写真だ。装幀家とは間村俊一さんのことで、その発言を訳者に伝えてくれたのは編集者のMさんだった。

 忘れないうちに書いておこうと思う。

 写真は2011年11月にケープタウンへ出かけたときの1枚。内陸の町ヴスターをめざした日に、国道1号線を車で走っていたとき撮ったものだ。
 道の両側は見わたすかぎりのフェルト(平地というアフリカーンス語)、遠く低い山なみが続いていた。石ころだらけの渇いた赤土に、背の低いブッシュがまばらに生えている。それを見て、ああ、これがマイケル・K が旅した土地かと思った。J・M・クッツェーの『マイケル・K』の主人公は、ケープタウンからプリンスアルバートまで徒歩で行く。途中で母親が死に、軍に捕まって強制労働に駆り出されてからは、検問所のある幹線道路を避けて、ひたすら荒野を歩く。

textpublishing 版『マイケル・K』
なぜ翻訳者がこの写真をクッツェーの三部作カバーに使おうと思ったか、装幀家が首をかしげるのも無理はない。ご覧のとおり、がらんとして、中心になる「被写体」のようなものがないのだ。だから、なにを撮ろうとしたのか分からない、というのはその通り……でも、じつは、その「なにもないこと」が使った理由だったのだ。「がらんとした空漠=エンプティネス」に見えること、そこがポイントだった。ヨーロッパ植民者が「無主の地」と呼んだ理由もそこから透かし見えるかもしれない。
  
だが、先住の人たちにとっては、クッツェーが『White Writing』で書いていたように、見方はまったく異なっただろう。多種多様な植物の利用法、この土地に生息するさまざまな生き物。これはつい最近読んだトニ・モリスンの『他者の起源』でも指摘されていたことだ──「ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした」と。

 奥まりに「そのこと」が透かし見える、そんなカバーにしたかったのだといまは明言できる。二代、三代さかのぼれば、鬱蒼たる「原始林」で「無主の地」とされて「開拓」が進んだ北海道との類比を訳者が見ていたことは否定できない。

 この本を担当してくれた装幀家も編集者も、列島のなかではおだやかな地形といえる近畿地方の生まれで、訳者にとっては異郷に近い「京都」で青春を送った人たち、そのこともいまになってみると興味深い。がらんとして「なにもないこと=エンプティネス」にほっとする北国の田舎育ちの感覚と、それとはまったく異なる細やかな配慮の文化内で育った人たち。

若いころのジョン・クッツェーは、カルーと呼ばれる内陸にある父方の農場フューエルフォンテインを頻繁に訪ねている。早朝に屋敷を抜け出し、フェンスをいくつもくぐり抜けて、お昼ご飯の時間までフェルトを歩きまわっていたと、クッツェーのおじさんにあたる人の証言も残っている。この三部作のなかには、その農場のあるカルーへの作家の愛があふれているのだ。

 そしてできあがった三部作のカバーは、その「なにもない」写真のまんなかに白抜きの横長の箱を入れ込み、そこにタイトルと著訳者をはめ込んだすばらしい装幀になっていた。その「なにもないこと」のみごとな利用作法に脱帽した。

 こうして今年もまた、クッツェーで明ける。

2019/11/02

J・M・クッツェー『続・世界文学論集』

J・M・クッツェー『続・世界文学論集』(田尻芳樹訳・みすず書房刊)がとどいた。

     🎉🎉🎉🎉🎉 ‼️

「モラルの物語を紡いできた作家は最高の読み手でもある」という帯のことばがいい。
 
 とにかくクッツェー歴30年の身としては、クッツェーの本が日本語で出ることが嬉しい。おまけにこれはより抜きのエッセイ・アンソロジーだから、クッツェーという作家が小説の書き手であるだけではなく「読み」の名手であることも堪能できる。

 これまでのクッツェーが書いた文学論、書評は『ダブリング・ザ・ポイント』を入れると、Stranger Shores、Inner Workings、Late Essays と4冊あって、今回出たのは後半の2冊から選ばれたものだ。

 なかでも文人とはまったくいいがたいヘンドリック・ヴィットボーイが書いた「ヴィットボーイの日記」が入っているのが嬉しい。去年のいまごろこのブログでも3回に分けて論じたけれど、『ダスクランズ』で作家デビューしたクッツェーが晩年のエッセイ集にこの文章を入れた理由は、作家クッツェーの仕事を考える上で不可欠だ。

 先日もメキシコ自治大学で述べたように、植民地主義の歴史的な暴力とそれによる後遺症が、いまも世界のあちこちで血を流している現実と、作家クッツェーは書くことで向き合おうとしてきたことがわかる。ヨーロッパ人はそのguilty とどう向き合うか、精神分析医、アラベラ・カーツとの往復書簡集でも扱ったが、と語っていた。

 そして、つい最近第3巻『イエスの死』が出て完結した三部作について、作品についてあれこれ述べるのはひかえて本自体に語らせようと思うとしながらも、第1巻をタイトルなしで出して読者が最後のページを読み終わったあとにJesus という語が目に入るようにしたかったこと、若いころからマタイの福音書をもとに映画化されたパゾリーニの「奇跡の丘」をくりかえし観てきたこと、キリスト教徒としてではなくワイルドなイエスという若者に興味があると述べた。暴力と暴力の連鎖を断ち切るために必要なのは、self-sacrifice と関連があるとも。

 とにもかくにも、非常に幅広く、深く「思考してきた人」ならではの文章が、正・続ならぶと壮観です。

追記:ここまで書いて、ラグビーのワールドカップで南アフリカが3度目の優勝をしたことを知った。🎉🎉🎉 ひさしぶりに「コシシケレリ・アフリカ」を聞いた。😂

2019/08/23

渇いた土地:ナマクワランド

ひさしぶりの更新になりました。

 うんざりするほど長かった梅雨に、いきなり猛暑が襲ってきて、疲労困憊の東京住人としては、そろそろ秋の訪れと、乾いた風を感じたいところですが、いっこうにその気配はなく、しとしと降る雨のなかで、終わりゆく夏を惜しんで蝉たちが鳴いています。
 気温は少し下がりましたが、今日も湿度は高く、そんなとき世界のあちこちに散らばった友人、知人たちがアップする写真にどれほど慰められるか。すずしい山の写真をみてほっと息をつきます。湿気の多い空気のあいまをぬいながら渇いた土地のことを思います。そんな「異界の」写真を2枚アップ!

Dried up Springbok area, 2019
8月末、南部アフリカのナマクワランドは冬から解放されて春が訪れる季節。その写真を2枚。撮影者は8年前のケープタウン旅行でお世話になった Fukushima Koshin さん。

 いつもなら一面に花が咲き乱れるころなのに、1枚めの写真にはまったく花がなく、石ころまじりの地面は乾ききっているとのこと。
 2枚めの写真にようやくナマクワの花、ナマクワランド・デイジーが……。これもほんの数週間の出来事のようです。
 以前、ここでナマクワランドのことに触れたのは、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳していたころ、ずいぶん昔です。2011年11月のケープタウン旅行でも、ナマクワランドまでは行くことはできませんでした。ケープタウンからはちょっと遠い。

Skilpad Nature Reserve,  Kamiesberg, 2019
その後、クッツェーのデビュー作『ダスクランズ』を訳しているとき、この作品の第二部がナマクワランドを舞台としていたことを思い出して、ああ、行っておくべきだったと思っても、あとの祭り! 
 2枚めの写真のまんなか奥に立っているのが、掘抜き井戸の翼です。オランダの風車を思わせる作りで、アフリカーナと自らを呼ぶようになったオランダ系の農民たちが、乾いた土地に井戸を掘り、水を調達したんですね。
 Kamiesberg カミスベルグは、忘れられない地名です。『ダスクランズ』に出てきたこの地名は、ヤコブス・クッツェーが象狩りの旅に出てまもなく、逃亡したディコップを従者クラーヴェルといっしょに追い詰める場所だった。

 南アフリカは、もう一度行ってみたい土地です。

2019/03/29

アデレードで:テーマは「Telling Truths:真実を語る」

マレーネ・ニーカークにインタビューするジョン・クッツェー
オーストリアの「霧のなかの文学祭」について3回書きましたが、じつはその前に、3月2日から7日まで、アデレードで面白い催しがあったのです。

「アデレード・ライターズ・ウィーク2019」です。

 今年のテーマは「Telling Truths:真実を語る」。真実Truthsが複数形であるところが要注意です。語るときはそれぞれの真実がある、ということでしょうか。でも語ることによって、「他を排除しない空間」をつくっていくことは可能なんだと。文学祭はそのためにこそあるといっているような気がします。

左からマンデラ、ムシマン、ニーカーク
ウィークというくらいですから1週間にわたってあちこちで、さまざまな催しがあったのですが、そのなかで気になったのが3月6日の午前、アフリカーンス語で書いてきた作家マレーネ・ニーカークにジョン・クッツェーがインタビューをしたことです。

プログラムにはさまざまな作家や詩人が名を連ねていますが、アフリカ大陸関連ではほかにもナイジェリアのベン・オクリや、南アのンダバ・マンデラ(ネルソン・マンデラの孫)、シソンケ・ムシマンの名前があがっていました。

*** 
マレーネ・ファン・ニーカークMarlene van Niekerkは彼女の世代で最も重要なアフリカーンス語作家だ。最初のヒット作であるTriomf とAgaat (The Way of the Women) が有名。南アフリカのプア・ホワイトのなかで生きることをめぐる彼女のSteinbecken な語りは、ポスト・アパルトヘイトの暮らしに、毅然とした、論争をよぶ視線をなげかけている。すごい強烈さと腹の底から突き上げるようなエネルギーに満ちたマレーネの作品は、多くの賞にかがやき、国際マン・ブッカー賞の最終候補(2015)にもなった。

Chair: John Coetzee 


Marlene van Niekerk has been described as the foremost Afrikaans writer of her generation. She is best known for her two major works Triomf and The Wayof the Women. Her Steinbeckien accounts of life amongst the poor whites of South Africa cast an unflinchingand controversial eye on post-Apartheid life. Imbued with a robust intensity and visceral energy, Marlene’s
work has received multiple awards and been shortlisted for
the Man Booker International Prize. 

2018/12/29

アディーチェ:ネルソン・マンデラ没後5周年の基調講演

12月6日、UNISA(南アフリカ大学)で開かれたネルソン・マンデラ没後5周年記念イベントで、基調講演をするチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの動画がありました。グラサ・マシェル(故ネルソン・マンデラ大統領夫人)さんと爆笑する写真も……。


グラサ・マシェルと
彼女が初めて南アを訪れたのは、解放後10年といってますから2004年ですね。そのときは「レインボー・ネーション」というスローガンを見て、アパルトヘイトという過去の暴力がそんなにすんなり平和に移行するのかとても疑問だったと正直に述べています。むべなるかな。
 その後もう一度訪れて、それから10数年たって今回、その間にナイジェリアと南アフリカの外交関係などあって……。
 アディーチェがおなじアフリカ大陸にある国とそこに住む人たちについて、それぞれに違いながら共通する歴史について語っています。これからどんな作品を発表していくのか、本当に楽しみ!

ジャブロ・ンデベレ、グラサ・マシェルと
この10年のアディーチェの活躍ぶりは目を見張ります。『半分のぼった黄色い太陽』がオレンジ賞を受賞したのが2006年(あれ、2007年だったかな?)。2009年に短編集『なにかが首のまわりで』を出して、2013年に『アメリカーナ』で大ヒット。2016年には We Should All Be Feminists(『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』)でさらにブレイクでした。

  12月初旬にアディーチェが南アフリカへ行く、というニュースは知っていたのですが、あれこれ気にかかることがあって、ぼんやりしてしまい、ようやく今日リンクを貼ります。
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2019.1.7 ──この記事についてはネルソン・マンデラ・ファウンデーションに詳細な報告があります。ついでに動画も埋め込んじゃおう!



2018/12/04

風の曲がり角──ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(最終回)

ナミビアの首都はWindhoekと地図に書かれ、「ウィントフック」とウィキペディアには出てくる。読み方はアフリカーンス語なら「ヴィントフック」、ドイツ語も音はおなじだが表記はWindhukだ。ナミビアは独立時に公用語を英語と決めたために、頭文字のWが濁らない「ウィントフック」として定着しているのだろう。まあ、読む人のオリジンによってさまざまな音になりそうな地名だ。
 
 しかし、この地名はどこから来たのか?

ウィントフックにあるドイツ教会と、
かつて立っていた騎馬像
その土地は先住民のナマ語では「!ai-//gams(ai-gams etc.)」(クリック音などありそうで発音できません😢!)、ヘレロのあいだではOtjimuise(オキムイゼ) と呼ばれて、「温泉」を意味したという。
 風が吹き抜けるという地理的条件から「風の曲がり角/Windhoek」と呼ばれたという説が有力だ。ケープダッチ(ケープ植民地のオランダ語、のちのアフリカーンス語)でWindは風、hoek はcornerの意味。だから「風の曲がり角」。
 ほかにも、ヘンドリック・ヴィットボーイより前の時代に活躍したOrlamのトップ、ヨンカー・アフリカーナ/Jonker Afrikaner が南アフリカからこの地に渡って拠点を作ったとき、故郷にあった山の名前 Winterhoek をこの土地につけて、それがいつのまにかWindhoekになったという説もある。

 いずれにしても、その後、ここを支配したドイツ系植民者がそれをドイツ語ふうの表記 Windhukと変えた。ドイツが第一次大戦で敗戦国となり、南西アフリカは南アフリカの実行支配下に入って、またアフリカーンス語表記 Windhoekに戻した。ナミビア独立時に英語が公用語になり、この土地の名は英語読みされて「ウィントフック」となった。
 もちろんナミビアに住むドイツ語話者はドイツ語ふうに発音し、アフリカーンス語話者はアフリカーンス語ふうに読んでいるのだろう。多様な背景をもった人々が、多様な言語の音でその土地を呼ぶ。それぞれに「正しい理由」をもちながら。だから、旧植民地の土地の名前に「正しい呼称」などないと考えたほうがいい。つまり力関係がそれを左右するのだ。

 こんなふうに、土地の名前には何層にもおよぶ歴史の痕跡が隠されている。

騎馬像跡に建てられた犠牲者の記念碑
Orlamと呼ばれる集団はいくつかあって、ヘンドリック・ヴィットボーイの王国もそのひとつ。南部のナマクワランドに住んでいた牧畜・狩猟民族である褐色の肌をした先住民とオランダ系植民者の混血だ。この地に入っていったキリスト教宣教師によってオランダ語とキリスト教思想を教え込まれたヴィットボーイは、ナマ語のみならず、ケープダッチの読み書きができた。だから「日記」が残っている。
 19世紀末のドイツの植民地時代にウィントフックの中央にはドイツ教会が建てられ、その真向かいにReiterdenkmal(騎馬像)も建った。植民者の苦労を記念する像だ。しかし、1990年に独立した後は、その騎馬像が取り去られ、ドイツ軍のジェノサイドによって犠牲になった先住民系の人たちの像に、じわじわと置き換えられた。ドイツ教会のすぐそばには新たに独立記念博物館が建てられた。そのプロセスを講義で聞いた。

バルタザール・ドゥ・ビールとアナ・ルイザ
(カンネメイヤーの伝記から)
さて、ここでクッツェーがなぜ Late Essays の最後に「ヴィットボーイの日記」をめぐる章を入れたか、という話に戻ると、彼の母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(1844~1923)が、1868年にドイツ宣教師団の一員として南アフリカへ送られ、この南西アフリカで布教活動をしているのだ。そのことはすでに書いた。モラビア出身の宣教師の娘と結婚し、数年後にアメリカへ渡って、イリノイ州のドイツ人コミュニティで布教。そのとき生まれたのがジョンの母親ヴェラ・ヴェーメイエルの母、つまりジョンの祖母ルイザ・ドゥ・ビール(1873~1928)だった。
 少年ジョンはポメラニア出身の曽祖父バルタザールはてっきりドイツ人だったと思っていたが(そう教えられた)、調べてみるとどうやらポーランド人で若いころ名前をドイツ風に変えてドイツ人宣教団に入ったことがわかった(これは今世紀に入ってから判明した事実)。

 というわけで、J・M・クッツェーにとってケープ植民地と南西アフリカの歴史は、デビュー作『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」の背景として、また、『少年時代』にも出てくる彼のオリジンをさかのぼる家族の歴史・物語として、切っても切れない関係にあるのだ。
 ケープ植民地と南西アフリカの歴史は、したがってクッツェーの作家活動の起点であり、人間クッツェーの自己認識の足場を形成したものである。そこが「ケープ植民地の歴史は、ヨハネスやナタールといった土地の歴史とひとくくりにできない」とクッツェーがいう理由なのだろう。(了)

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付記:2018.12.10──ナミビア研究の専門家Sさんに、Windhoek の呼称の由来について、詳細なコメントをいただき、訂正しました。やっぱりWikiだけに頼っていては危ない、ということですね。

 

2018/10/24

J・M・クッツェーの母方の曽祖父はポーランド系

このところ「英語」という言語が世界を覆う勢いについて極めて批判的な態度を表明しつづけているクッツェーだが、今朝いちばんに飛び込んできたニュースもまた、クッツェーのそんな姿勢が強く感じられる内容だ(10月23日付)。


シレジア大学で名誉博士号を授与されるJ・M・クッツェー。壇上にはデイヴィッド・アトウェルとデレク・アトリッジの姿も見える。これから3人でアウシュビッツへ向かうのだろう。クッツェーのスピーチは49:40ころから8分ほど。

 ポーランド、カトヴィツェにあるシレジア大学で名誉博士号を授与されたことを伝えるこの記事(原文はポーランド語、読んだのはGoogle英訳)によると、クッツェーの母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビールはそれまでドイツ人だと思われていたが、生まれたのはチャルヌィラスCzarnylas(「黒い森」の意)という村で両親はポーランド人、村の学校ではポーランド語で授業が行われていたことが突き止められたそうだ。

 突き止めたのはシレジア大学の研究者ズビグニエフ・ビアワス教授Zbigniew Białas。バルタザール・ドゥ・ビールの第一言語はポーランド語であると。(動画のなかでは、ズビグニエフ・ビアワスが2004年6月13日(日曜日!)にクッツェーから突然メールがきて、彼の曽祖父が「Balcer Dubylバルツァル・ドゥビル」という名でポーランドで生まれていたが、詳細を調べてほしいと依頼されたそうだ。)(追記:その結果についてのエピソードを今回、披露しているが、その事実はデイヴィッド・アトウェルの評伝にあったし、そこにはクッツェーがポーランドにあるドゥビルの親戚の墓を訪ねる写真も添えられていた。)

 カトリックのポーランド人として生まれたバルタザール(バルツァル)(1844~1923)は、10歳のころの宗教的な体験によってプロテスタントになることに決め、ドイツ人になって宣教師協会の宣教師として1868年に南アフリカへ送られ、南部アフリカで布教した。結婚した相手がモラビア出身の女性アンナ・ルイザ・ブレヒャー。その娘が、父親が宣教で渡米中にイリノイ州で生まれたルイザ(1873~1928)、つまり母方の祖母だ。このルイザが子供たち全員を英語で育てたために、ジョンの母ヴェラもまた英語で自分の子供を育てることになった。

左がズビグニエフ・ビアワス
 ポーランド生まれのバルタザール・ドゥ・ビールの姿は、『少年時代』ではちょっと狂人じみた宣教師の姿として描かれていて、少年ジョンの大叔母アニーが父親の書いた本をドイツ語からアフリカーンス語へ翻訳して印刷製本して売り歩く姿が出てくる。ドイツ語から、つまり、宣教師バルタザールは、当時、自分の第一言語のポーランド語ではなく布教活動のために獲得した言語、ドイツ語で書いたわけだ。それを南アフリカでアフリカーンス語に翻訳することに一生を費やしたのが「アニーおばさん」、ジョンにとっては大叔母さんだった。
(こうして新事実がわかることで、『少年時代』もまた、結果として、フィクション性の強い作品であることが明らかになっていく……。)
 動画はシレジア大学のサイトにもアップされている。