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2023/12/30

来年は、J・M・クッツェー『その国の奥で/In the Heart of the Country』です

 今年1年を振り返る時期になったけれど、ここには来年のことを書いておこう。

 現在、新訳を進めているのは、長らく絶版だったJ・M・クッツェーの第二作『In the Heart of the Country/その国の奥で』だ。河出書房新社から、来年半ばには刊行される予定。河出書房新社はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの邦訳全作品を出している出版社で、クッツェーの『鉄の時代』が入っている池澤夏樹個人編集の世界文学全集の版元でもある。

 この第二作目はまったくもって一筋縄ではいかない作品だ。ファンタジックでゴシックで、実験的という点では初作『ダスクランズ』をはるかに凌ぐ。とにかくものすごい妄想、また妄想なので、読みこんで日本語にするのは作品との「格闘また格闘」となる。やたら時間がかかる。半ページしか進まない日もある。翻訳を始めたのは何年か前だが、全139ページがまだ終わらない。それでも、あと〇〇ページを残すところまできた。

 この作品の出版をめぐる経緯については、以前このブログでも書いた。ウォルコヴィッツの『生まれつき翻訳』について触れたときだ。(ここで読めます。)クッツェー作品としてこの小説が英米で初めて出版されたのは1977年、南アフリカ本国でバイリンガル版として出版されたのは翌年のことで、『鉄の時代』の年譜にも書いたし、自伝的三部作の年譜にも、『J・M・クッツェーと真実』の詳細な年譜にも、必ず書いた。この作品が出版された経緯は、この作家の作家活動にとって非常に重要な細部だからだ。

 当時の南アフリカにはまだ厳しい検閲制度があり、異人種間の結婚はおろか、性交まで禁止する法律があった。世界から切り離されたような南アフリカ奥地の農場を舞台に、極端に狭い人間関係のなかで、事件は起きる。姦通、泥酔、銃撃、殺人、レイプ、ect. ect. しかしそれが実際に起きたのか、起きなかったのか、事実と妄想の境界がきわめて曖昧なのだ。銃を握るのは三十代の独身女性マグダで、彼女の独白が全編を貫いている。

 日本語訳は原著の出版から約20年後の1997年、スリーエーネットワークの「アフリカ文学叢書」の一冊として出た。それから四半世紀以上が過ぎて、その間、この作家は二度目のブッカー賞を受賞、その3年後にオーストラリアへ移住、直後にノーベル文学賞を受賞した。そんなニュースと相前後して作品が次々と紹介されて、作品や作家の全容がほぼ見えるようになった。

 今年6月に日本語訳が白水社から出版された『ポーランドの人』(それについてはここで)は、非常に無駄のない、端正な、流れるような文体で書かれていた。このレイトスタイルへ至るまでの半世紀におよぶ長い道のり。

 これまでにクッツェーは南アフリカを舞台にした長編小説を8作書いている。出版順にいうと、『ダスクランズ』『その国の奥で』『マイケル・K』『鉄の時代』『少年時代』『恥辱』『青年時代』『サマータイム』で、このうち6冊を拙者訳で読んでいただける。来年は新訳『その国の奥で』が出る予定で全7冊となるはずだ。

 南アフリカの作家クッツェーと出会った者として、あまり知られていな南アフリカの自然や風土、作品舞台となった時代の人間関係の細部をあたうるかぎり潰さずに、なおかつ、含みをもって伝える責任を、これでほぼ果たせるように思う。感慨深い。

 手元にあるこの作品の紙の書籍3冊と、Kindle版1冊のカバー写真をあげておく。左上からペンギン版のペーパーバック(1982)、右へ行ってヴィンテージ版(2004)、スイユ版のフランス語訳(2006)、そしてKindle版スペイン語訳(2013)である。

 いろいろ心が砕けそうになる事件や出来事が起きた2023年だったけれど、それでも今年は藤本和子さんの4冊目の文庫や斎藤真理子さんとの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』が出版された年でもあった。

 人生はまだまだ続く。La lutte continue!

 🌹 みなさん、どうぞ良いお年をお迎えください!🌹


2022/04/23

南アで In the Heart of the Country が出版された年は?『生まれつき翻訳』

 ようやく時間ができたので、レベッカ・L・ウォルコウィッツ著『生まれつき翻訳』(監訳・佐藤元状、吉田恭子/訳・田尻芳樹、秦邦生、松籟社, 2021)を読みはじめる。監訳者の方々は「クッツェーファンクラブ」の面々なので、読むのを楽しみにしていたのだ。

 まずは序章「世界文学の今をめぐって」をざっくり読んでいくと、クッツェーという作家名がかなり出てくる。そこはゆっくり読む。するとチカチカと点滅する文字群に出くわした。p24の3つ目の段落はこう始まる

「ニューヨークやロンドンなど出版業界の中心から外れた場所にいる英語作家も、翻訳を余儀なくされることがある。ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴが最初の一連の長編をキクユ語で出版することにしたのはよく知られているが、自らの翻訳で英語でも出版してきた。チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』にはイボの言葉がそこここに使われているが、一九六二年、ロンドンのハイネマンの叢書で出版されたときには用語集が必要だったし、クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが、英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている」(下線引用者)


 アフリカ系/発の作家たちと言語との関係をざっと見渡す部分だが、下線を引いた箇所で「?」となった。クッツェーの第二作目に当たるこの本はまず、イギリスとアメリカで出たはずだ。念のため原文も当たってみたが、原文通りの訳になっているから、これは著者レベッカ・L・ウォルコウィッツの勘違いなんだろう。まず下線部前半。


1)クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが

  In the Heart of the Country(わたしはいくつかの理由で原タイトル通りに『その国の奥で』とする) の「初版は」たしかに1977年に出ているが、南アフリカのRavan社からではなくイギリスのSecker社からだ。同年にアメリカのHarper社からもタイトルが一語異なる形で出ている(理由は後述する)。南アフリカで英語とアフリカーンス語の混じった「バイリンガル版」として出たのは翌年の1978年2月*だ。出版にいたる事情は非常に複雑。この出版年の微妙なずれについては、2014年の拙者訳『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト)の年譜にも、昨年の『J・M・クッツェーと真実』(白水社)の年譜にも載せた。だからここはちょっと残念。


 クッツェーがこの作品を書き上げたときは2つのバージョンがあった、とカンネメイヤーの『伝記』(伝記 p288~)やデレク・アトリッジの著書(Attridge p22)は伝えている。デイヴィッド・アトウェルの作品論(p65~)にも詳しい。(参考図書はブログ下に)

Ravan 1978

 2つのバージョンのうち1つはすべて英語のバージョン。もう1つは会話部分がアフリカーンス語のバージョンだ。ロンドンのエージェント宛てのクッツェーの手紙によると、会話部分にフォークナーが南部訛りの英語を用いたように、自分も英語でローカルな感じを出したいとやってみたがうまくいかなかった、とある。会話は英訳前のアフリカーンス語バージョンがしっくりくるとクッツェーは述べる。


 テクストが海外版と南ア版で異なるこの作品の出版が、南アフリカで一年遅れた理由は、1970年半ばに南アフリカの検閲制度が大きく変化し、作家や編集者が検閲委員会の動きを注視せざるをえなくなったことと関連があるようだ。さらに、旧植民地をも市場にしたいイギリスの出版社と南アフリカの極小出版社との、販売権をめぐる複雑な事情が絡んでいる。


 これはまだ初作『ダスクランズ』が南アフリカでしか出版されていなかったころで、クッツェーは二作目はイギリスやアメリカで出版したいと強く希望していた。そこでレイバンの編集者とイギリスのエージェントと同時に交渉していたらしい。その結果、まず英語のみのバージョンがイギリスとアメリカで出版され、会話部分がアフリカーンス語のバイリンガル版が翌年、南アフリカで出版ということになった。


Harper Collins 1977
 米国版は内容は英国版と同じだが、タイトルがFrom the Heart of the Country になった。これは、Harper の編集者から、In the Heart of the Heart of the Country という書籍がすでにあって図書館に所蔵するときコンピュータ上混乱するので、Here in the Heart of the Country にしてはどうかと提案されたクッツェーが、それでは長すぎるし、自分がつけたタイトルはテキスト全体を貫くあるリズムを示しているのだ、としてFrom the Heart of the Country を提案し、決まった。(下線筆者)

 クッツェーが2つのテクストを準備した理由は、農場を舞台にした会話場面の多いこの作品の本質と関わってくる。南アフリカの農場で用いられる言語は、『少年時代』を読むとわかるが、圧倒的にアフリカーンス語だ。会話はアフリカーンス語であるほうが、クッツェーを含む南アの読者にとって自然なのだ。次に下線の後半部分。


2)英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている。
Secker&Warburg 1977
 先行する「初版が」が事実と異なるので、理解しにくいのだけれど、ウォルコウィッツは「南アフリカの初版」をアフリカーンス語含みのバイリンガル版と考えたのだろう。

 何語から何語への翻訳かは、アトウェルの草稿研究が明らかにしている。会話部分は最初アフリカーンス語で書かれていたが、作家が改稿の見直しをするとき、草稿の反対ページにアフリカーンス語会話の英訳を書きこむようになったのだ。「自分の作品は英語という言語にルーツをもっていない」と明言するにいたった作家の心情が、非常によく出ているのがこの農場を舞台にした『その国の奥で』だった。


 というわけで、どうやらこの作品の出版年をめぐるウォルコウィッツの誤記に、「クッツェーファンクラブ」の面々は残念ながら気がつかなかったらしい。些細な誤記ではあるが、1970年代南アフリカの出版事情は、J・M・クッツェーという作家の誕生にとって重要なポイントなのだが。

 なんでこんな文章を書いているのか、と自問してみる。どうやらそこには、日本のクッツェー研究者に南アフリカのことをもう少し突っ込んで探って欲しいと思っている自分がいることに気づく。アフリカなんか、と思わずに。クッツェーが生まれて育って、20代の10年間をのぞいて62歳まで暮らした土地なんだから。


 ウォルコウィッツのこの本は、トピカルなテーマを追いかける文芸ジャーナリスト顔負けの奇抜な見立てと文章力で読ませてしまうところが、すごい。でもその足場として透かし見える軸は、「世界文学」としての英語圏文学をマッピングして描こうとする「北の英語文学理論」の欲望にあるのではないか。バッサバッサと斬新なテーマで切っていく勢いには、辺境で生み出される個々の作品の、いってみれば英語以外の「その他の言語」で書かれる作品の出版事情なんかにいちいちこだわらなくてもいい、という姿勢が見え隠れする。いや、ぜんぜん隠れてないか(笑)。村上春樹とJ・M・クッツェーを「翻訳」というキーワードでおなじ土俵に並べてしまうのだから。この2人にとって作家として生きる言語環境と、「翻訳」の切実性や必然性の依って立つところは、まるで異なるだろうに。


 また born translated をわたしは「翻訳されて生まれてきた」と訳すことにしているが、それは「生まれつき翻訳」は「分類」「仕分け」には便利だが、作品が立ちあがる動きを切り捨てるニュアンスがあるためだ。おそらくそれは作品翻訳者の姿勢と、数多くの作品を「研究」する者の姿勢の違いからくると思われる。もう一つ、あえていうなら「生まれつき」に続く語にマイナスイメージ(差別語)を呼ぶ気配が消えないからだ。そのような表現を長く、耳から浴びつづけた世代だからかもしれないけれど。


 翻訳はさぞや大変だっただろうなあと推察する。膨大な作品数と原註、そのファクトチェックの結果と思しき訳註で、クッツェーの書評集と小説の冊数をめぐる警告が入っていたりして、苦労の跡がしのばれます……ご苦労様でした。👏👏👏👏


 ちなみに、2022.4.18現在のWikipedia(英語版)In the Heart of the Countryは、出版年、バージョンともに、きちんと事実を伝えています。💖


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追記:2022.4.24──

1)参考図書をあげておきます。(『J・M・クッツェーと真実』にも入れました。)

・Derek Attridge: J. M. Coetzee and the Ethics of Reading, University of Chicago Press, Chicago, London 2004.

・Peter D. McDonald: The Literature Police, Oxford University Press, 2009.
・J. C. Kannemeyer: J. M. Coetzee, A Life in Writing, Scribe, 2012.
・David Attwell: J. M. Coetzee and the Life of Writing, Viking, 2015.

・Marc Farrant, Kai Easton and Hermann Wittenberg: J. M. Coetzee and the Archive: Fiction, Theory, and Autobiography, Bloomsbury, 2021.

・Robert Pippin: Metaphysical Exile on J. M. Coetzee’s Jesus Fictions, Oxford University Press, 2021.


2)『その国の奥で』のことは『J・M・クッツェーと真実』第三章「発禁をまぬがれた小説」で、部分訳も引用しながら、詳述しました。

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さらに追記:2022.11.12──

*「6月」と書きましたが、正しくは「2月」でしたので、訂正しました。

2021/04/19

フェミニズムの視点からJ・M・クッツェー『少年時代』を読み直す(2)

『少年時代』はこう続く。

 母親が独り裏庭で自転車の乗り方を習得しようとする。脚を両側にまっすぐ伸ばして養鶏場までの斜面を下る。自転車が倒れて止まる。クロスバーがないので母親が転ぶことはない。ハンドルにしがみつきながら、ぶざまな格好でよろめくだけだ。
 彼は内心、母親に反感を覚える。その夜は父親のひやかしに加勢する。これがひどい裏切りなのはよくわかっている。いまや母親は孤立無縁だ。

 それでも母親は自転車に乗れるようになり、おぼつかない、ふらつく乗り方ながら、懸命に重たいクランクを回転させる。

 母親がヴスターまで遠出するのは、午前中、彼が学校へ行っているときだ。一度だけ母親が自転車に乗っている姿をちらりと見かける。白いブラウスに黒っぽいスカート。ポプラ通りを家に向かってやってくる。髪を風になびかせて。母親は若く見える、少女のようだ、若くて生き生きとして謎めいている。


 この描写は、もちろん、当時の少年の心理を57歳の作家が鋭く分析しながら書いたものだ。

 少年は、周囲の環境のなかで孤立すると、どうして自分はみんなと違うんだろ、どうして自分の家族が「ふつう」じゃないんだろ、と悩む。でも、自分の母親がみんなとは違うことがちょっぴり自慢でもある。他の家族と違って母親が家で主導権を握っていることにも、変だと思いながら、ありがたいと思う。でも。


 父親は黒く重たい自転車が壁に立てかけてあるのを見るたびに冗談にする。父親の冗談によれば、ヴスターの住人たちは自転車に乗った女があえぎながら通り過ぎるあいだ、仕事の手を止めて身を起こし、口をあんぐりと開けているそうだ。よいしょ! よいしょ!  と彼らは母親を囃し立て、冷やかす。冗談は少しも面白くないが、彼と父親はそのあと決まって大声で笑う。母親のほうは、機知に富んだことばを返すことがない。そんな資質に恵まれていないのだ。「笑いたければ笑えばいい」という。

 そしてある日、なんの説明もないまま、母親は自転車に乗るのをやめる。それから間もなく自転車は姿を消す。だれもなにもいわないが、彼には身のほどを思い知らされた母親が諦めたことがわかる、そして自分にその責任の一端があることもわかる。いつかきっとこの埋め合わせをしよう、と彼は心に誓う。


 でも、幼ない子供にとって、母親は生きるための大地のような存在だ。とりわけ最初の子供は生まれ落ちたときから自分を中心に世界が回っている経験をすることが多いため、母親には、とにかく子供である自分を中心に生きていてほしい。少年の体験として、クッツェーは正直にそれを書く。

 自転車に乗っている母親の姿が彼の脳裏から離れない。母親がペダルをぐんぐんこいでポプラ通りを走りながら、彼から逃げて、自分の欲望に向かって行こうとしている。母親に行ってほしくない。自分の欲望をもってほしくない。母親にはいつも家にいてほしい、家に帰ったとき彼を待っていてほしい。彼が父親と組んで母親に対抗することは滅多にない。断然、母親と組んで父親に対抗したいほうなのだ。でもこの件では、男たちの側につく。

 そして「いつかきっとこの埋め合わせをしよう」と心に誓った少年は、ものすごい勢いで自立して成功への道を探る。ノーベル賞受賞時の晩餐会のスピーチにもあるように、「とにもかくにも、自分の母のためでなければ、われわれはノーベル賞を受賞するようなことを、はたしてするものだろうか?」といってテーブルについた大勢の客達から笑いをとった。

 実は、必ずしも母親でなくてもいいのだけれど、自分を大事に思ってくれる人、自分を大切にケアしてくれる人への繋がりが子供の成長にはとても大切なのだ。幼い生命にとっての養分なのだから、それが手当なく遮断されたり、長期的に途切れたりすると、幼い命は疲弊する。疲弊すると、花でも野菜でも、伸びやかには育たない。子供は自分だけの「誰か特別な人」がほしいものだ。長いあいだそれは「母親の仕事」とされてきた。1940年代の南アフリカでも。
 クッツェーの母親は周囲に同調して、みんなと同じように子供を育てることはしない。その子の性格や力に合わせた教育が大事だとして徹底的に保護する。『サマータイム』の最後の断章でも、シュタイナー、モンティッソーリという教育者の名前を作家自身が引き合いに出している。

 『少年時代』の第1章の最後で、クッツェーは「男たちの側に」ついたことが母親への裏切りだったと自省する。フェミニズムという語が、今のような意味で使われるのは1960年代になってからだ。セクシャル・ハラスメントという語も知られるようになった90年代後半に、50年ほど前の田舎町ヴスターでの出来事を作家は書いている。それも自分自身が息子を早々と失ったのちに。。。

 そのことを考え合わせると、この第一章を書いている作家の位置が、二重、三重に違って見えてきた。読者によって、フェミニズム的視点から分析されるのを待っているような作品ではないか。

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2021.4.27──昨日、facebookとtwitter でシェアしたときのコメントを備忘のために追加:
「1940年生まれの作家が自分の少年時代、青年時代から30代の「朱夏のとき」まで、徹底的に自分を突き放すようにして他者化して、過去の記憶の内部をさらしながら物語にまとめる作業はフェミニズムという時代の風を受けてさらに輝いて見える」

2021/04/18

フェミニズムの視点からJ・M・クッツェー『少年時代』を読み直す(1)

J・M・クッツェーの『少年時代』を読みなおした。

 16歳の少年ジョンはカルティエ=ブレッソンに憧れて、将来は写真家になろうと考えていた。カレッジ時代のことだ。そのころ撮ったフィルムや機材などが出てきて、Photographs from Boyhood として2020年に出版された。そこにはアーティストとしてのクッツェーの出発点となる方法論が明確に出ている。(日本語訳も2021年の秋に出る。)

 翻訳作業にあわせて自伝的フィクション『少年時代』を再読した。そして面白いことに気づいた。これは個性の強い、しっかり者の母を持ち、その母から深く愛されて育った少年の自伝的物語として読めることだ。つまり、フェミニズム的な視点から読みなおすことができるのだ。

 アパルトヘイト制度が確立されていく1940年代後半の南アフリカで少年時代を送ったジョン・クッツェーは、母親をどんな風に見ていたか。白人女性である彼の母親は社会的にどのような位置にあったのか。母親と少年の関係を軸にしてこの作品を読み直すとどんなことがわかるか。

 学校の成績は抜群だが周囲から浮いてしまう男の子を母親がどう守って育てたか。その母親はどんな人物だったか。これは母と男の子の関係を考えるための宝庫のような作品だった。

 のっけから母親が家に閉じ込められることを嫌って、自転車を買ってくる場面がある。第一章だ。

 母親は、馬は買わない。その代わり予告なく自転車を買う。女性用の中古で、黒く塗ってある。やけに大きく重たいので、彼が庭で試してみても、ペダルをまわすことができない。

 母親は自転車の乗り方を知らない。たぶん馬の乗り方も知らないかもしれない。自転車を買ったのは、自転車なら簡単に乗れると思ったのだろう。そこで母親は乗り方を教えてくれる人がいないと気づく。

 父親は、それみたことかと笑いを隠さない。女は自転車になんか乗らないもんだという。それでも母親は負けない。わたしはこの家の囚人になんかならないわよ、わたしは自由になるの、といって。

 家に閉じ込められずに自由に生きたい、と移動の手段に、母は自転車を手に入れた。

 最初、彼は母親が自分の自転車をもつなんてすばらしいと思った。三人そろって自転車に乗り、ポプラ通りを走っているところを思い描いたこともある。母親と自分と弟と。ところがいま、父親の冗談に母親が頑固にだんまりを決め込むしかないのを見ていると、気持ちがぐらついてくる。女は自転車になんか乗らないもんだ、という父親のほうが正しかったらどうしよう? もしも母親に乗り方を教えてくれる人があらわれなかったら、もしもリユニオン・パークのほかの主婦はだれも自転車をもっていなかったら、とするとあるいは女は本当に自転車になんか乗らないものかもしれない。

 ケープタウンから移り住んだ田舎町は、「女は自転車なんか乗らないもの」とする社会だった。クッツェーの母親ヴェラが、今から見れば非常に自立心の強い頑張りやで、気骨のある女性だったことが伝わってくる。

 

2018/12/04

風の曲がり角──ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(最終回)

ナミビアの首都はWindhoekと地図に書かれ、「ウィントフック」とウィキペディアには出てくる。読み方はアフリカーンス語なら「ヴィントフック」、ドイツ語も音はおなじだが表記はWindhukだ。ナミビアは独立時に公用語を英語と決めたために、頭文字のWが濁らない「ウィントフック」として定着しているのだろう。まあ、読む人のオリジンによってさまざまな音になりそうな地名だ。
 
 しかし、この地名はどこから来たのか?

ウィントフックにあるドイツ教会と、
かつて立っていた騎馬像
その土地は先住民のナマ語では「!ai-//gams(ai-gams etc.)」(クリック音などありそうで発音できません😢!)、ヘレロのあいだではOtjimuise(オキムイゼ) と呼ばれて、「温泉」を意味したという。
 風が吹き抜けるという地理的条件から「風の曲がり角/Windhoek」と呼ばれたという説が有力だ。ケープダッチ(ケープ植民地のオランダ語、のちのアフリカーンス語)でWindは風、hoek はcornerの意味。だから「風の曲がり角」。
 ほかにも、ヘンドリック・ヴィットボーイより前の時代に活躍したOrlamのトップ、ヨンカー・アフリカーナ/Jonker Afrikaner が南アフリカからこの地に渡って拠点を作ったとき、故郷にあった山の名前 Winterhoek をこの土地につけて、それがいつのまにかWindhoekになったという説もある。

 いずれにしても、その後、ここを支配したドイツ系植民者がそれをドイツ語ふうの表記 Windhukと変えた。ドイツが第一次大戦で敗戦国となり、南西アフリカは南アフリカの実行支配下に入って、またアフリカーンス語表記 Windhoekに戻した。ナミビア独立時に英語が公用語になり、この土地の名は英語読みされて「ウィントフック」となった。
 もちろんナミビアに住むドイツ語話者はドイツ語ふうに発音し、アフリカーンス語話者はアフリカーンス語ふうに読んでいるのだろう。多様な背景をもった人々が、多様な言語の音でその土地を呼ぶ。それぞれに「正しい理由」をもちながら。だから、旧植民地の土地の名前に「正しい呼称」などないと考えたほうがいい。つまり力関係がそれを左右するのだ。

 こんなふうに、土地の名前には何層にもおよぶ歴史の痕跡が隠されている。

騎馬像跡に建てられた犠牲者の記念碑
Orlamと呼ばれる集団はいくつかあって、ヘンドリック・ヴィットボーイの王国もそのひとつ。南部のナマクワランドに住んでいた牧畜・狩猟民族である褐色の肌をした先住民とオランダ系植民者の混血だ。この地に入っていったキリスト教宣教師によってオランダ語とキリスト教思想を教え込まれたヴィットボーイは、ナマ語のみならず、ケープダッチの読み書きができた。だから「日記」が残っている。
 19世紀末のドイツの植民地時代にウィントフックの中央にはドイツ教会が建てられ、その真向かいにReiterdenkmal(騎馬像)も建った。植民者の苦労を記念する像だ。しかし、1990年に独立した後は、その騎馬像が取り去られ、ドイツ軍のジェノサイドによって犠牲になった先住民系の人たちの像に、じわじわと置き換えられた。ドイツ教会のすぐそばには新たに独立記念博物館が建てられた。そのプロセスを講義で聞いた。

バルタザール・ドゥ・ビールとアナ・ルイザ
(カンネメイヤーの伝記から)
さて、ここでクッツェーがなぜ Late Essays の最後に「ヴィットボーイの日記」をめぐる章を入れたか、という話に戻ると、彼の母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(1844~1923)が、1868年にドイツ宣教師団の一員として南アフリカへ送られ、この南西アフリカで布教活動をしているのだ。そのことはすでに書いた。モラビア出身の宣教師の娘と結婚し、数年後にアメリカへ渡って、イリノイ州のドイツ人コミュニティで布教。そのとき生まれたのがジョンの母親ヴェラ・ヴェーメイエルの母、つまりジョンの祖母ルイザ・ドゥ・ビール(1873~1928)だった。
 少年ジョンはポメラニア出身の曽祖父バルタザールはてっきりドイツ人だったと思っていたが(そう教えられた)、調べてみるとどうやらポーランド人で若いころ名前をドイツ風に変えてドイツ人宣教団に入ったことがわかった(これは今世紀に入ってから判明した事実)。

 というわけで、J・M・クッツェーにとってケープ植民地と南西アフリカの歴史は、デビュー作『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」の背景として、また、『少年時代』にも出てくる彼のオリジンをさかのぼる家族の歴史・物語として、切っても切れない関係にあるのだ。
 ケープ植民地と南西アフリカの歴史は、したがってクッツェーの作家活動の起点であり、人間クッツェーの自己認識の足場を形成したものである。そこが「ケープ植民地の歴史は、ヨハネスやナタールといった土地の歴史とひとくくりにできない」とクッツェーがいう理由なのだろう。(了)

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付記:2018.12.10──ナミビア研究の専門家Sさんに、Windhoek の呼称の由来について、詳細なコメントをいただき、訂正しました。やっぱりWikiだけに頼っていては危ない、ということですね。

 

2017/05/28

反アパルトヘイト・ニュースレターのリンク先

昨日開かれた「反アパルトヘイト運動と女性、文学」の場で、アフリカ行動委員会のニュースレターのアーカイヴが移設されていたことを知ったので、リンクをいくつか更新しました。かつての投稿をここに再掲いたします。

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2013/12/31(の投稿です)

2013年がもうすぐ終る。今年はドリス・レッシング、チヌア・アチェベ、そしてネルソン・マンデラが逝った。来年早々にはそのネルソン・マンデラ追悼特集があちこちの雑誌に掲載されることだろう。1950年代にアパルトヘイトに抗して抵抗運動を組織したネルソン・マンデラとその仲間たち。たぐいまれな品格と、その意志と思想の強さで、27年という獄中生活を耐えた人は、南アフリカの抵抗運動、解放運動のシンボルとなっていった。

 日本でも古くは60年代初頭に、南アフリカの人びとと繋がろうとする反アパルトヘイト運動が芽吹いた。70年代初めにマジシ・クネーネが来日して当時の若者たちにあたえた「クネーネ・ショック」、それを契機に運動は着実に継続され、ネルソン・マンデラ解放時に最盛期を迎えた。この運動についてはもっと知られてもいいだろう。また当時の日本社会がどんなようすだったかも振り返ってみるのは悪くない。
 その運動のおおまかな歴史(日本各地に自発的につくられたグループがあり、それぞれに思い思いのかたちで展開された)を、東京のグループである「アフリカ行動委員会」の実質的中心人物、楠原彰氏がまとめたものがここで読める。

 わたしが知っているのは80年代末、そのマジシ・クネーネというズールー詩人の叙事詩の翻訳で悪戦苦闘していたころからネルソン・マンデラが解放され、来日した時代のことだ。それについては中村和恵編『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店 2009)に詳しく書いたので、ぜひ。
 特筆にあたいするのは、日本における反アパルトヘイト運動が、それまでわたしが抱いていた「運動」のイメージを快く裏切ってくれたことだ。つまり、組織特有の束縛が一切なく、あくまで自発的個人の意思による活動の場として確保されていたのだ。これは60年代末の全共闘に端を発する運動がセクト化してやせほそり内向きになっていくのを学内でちらちら横目で見ていた者には、じつに新鮮だった。
 だから、集団がからきしダメというわたしのような人間もすっと入ることができた。つまり、あの運動は「あ、それ、わたしがやります!」と手をあげて事実やってしまう人間の集まりであり(そのなかでみんな力をつけた)、命令とか指令とか動員とか、上下関係とか、初心者とかベテランとか、先輩とか後輩とか、そういうものとは無縁だったのだ。人と人の関係が、いわゆる「縦系」の縛りから完全に解放されていた。

 きみもぼくもわたしもあなたも、来る者はこばまず、去る者は追わず。ほんの数年ではあったけれど、のびのびと、やりたいことをやらせてもらったように思う。自分の仕事ともリンクさせることができたし、大いなる学びの場として、また、面倒な人間関係もおなじ志を仲立ちにしてのりこえ、深めていけることも学んだ。だから、心地よく裏切られたり勘違いしたりしたこともあったけれど、恨みとか怨嗟とは無縁だった。世はバブルたけなわ、喧噪とは縁のないわたしの30代から40代にかけての例外的事件だった。

 先日、20年ぶりにそのころの仲間数人とテーブルを囲む会があった。同窓会などとは違って、すっとあの時期に戻っておしゃべりできて、さらに現在この社会で起きていることをも気兼ねなく話題にできた。そういう人間関係。これは貴重。
 運動の最盛期、東京を中心に活動していた「アフリカ行動委員会」は「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」を毎月発行し、定期購読者に郵送していた。1987年の準備号を出した森下ヒバリ編集長から始まり、つぎの高柳美奈子編集長が第三種郵便にする努力を惜しまず、それを引き継いだ須関知昭編集長の超人的な遠路往復で、1995年まで全85号が発行された。その全ページがその須関氏の努力で「アーカイヴ」にpdf ファイルとしてアップされ、読めるようになった。

 当時はまだインターネットはなかった。ようやく小型のワープロが出まわってきたころで、紙面はそれを駆使して打った原稿をそのまま写植で起こして即印刷された。そのため、字間行間に独特のニュアンスが残る。購読料だけでやりくりしたので、経費上ざらっとした紙が使われ、当時はまだコピーも上質ではないため、滲みも多い。いまから見れば紙面は苦労がしのばれるものではあるが、わずか20年のあいだに、われわれを取り巻く活字媒体の変化は恐ろしいほど変化したことをも実証している。
 
 あのころの南アフリカと日本の関係がどうだったのか、バブルにわく日本社会の裏側で、南アフリカの解放運動を横目でながめながら、経済的に裕福になった不名誉な、恥知らずの「名誉白人」がどう振る舞ったのか。80年代に白人アパルトヘイト政権下の議員たちと「友好議員連名」なるものをつくり事務局長をやった当時の国会議員、のちに長らく東京都知事をやった人の名前も登場する。あの時代に若者だった人たち、子供だった人たち、そしていま社会の最前線で活躍する人たちが、なにを得てなにを失い、なにを引きずっているのか。
 いずれ、各号の「目次」もできるはずだ。そうなれば、もっと使いやすくなるだろう。これはまちがいなく貴重な記録だ。2013年大晦日の、わたしからのプレゼント。


 では、みなさま、よいお年をお迎えください。

2017/03/27

デイヴィッド・アトウェル教授との2日間

3月24日と25日、東京大学の駒場キャンパスで、JMクッツェー研究の第一人者、デイヴィッド・アトウェルさんを迎えて読書会と講演会があった。主催は田尻芳樹教授研究室。

 一日目はクッツェーの最新作:The Schooldays of Jesus を読む会で、細やかな分析と自伝的な事実との絡み、他作品との響き合いなど、クッツェー読みならではの視点から参加者全員が深くコミットする意見、質問、指摘などを出し合って、濃密な時間があっというまに過ぎていった。

 二日目は講演会で、まずアトウェルさんの"The Comedy of Seriousness in J.M. Coetzee"というレクチャーがあり、さらに三人の研究者のとても興味深い発表があった。アトウェルさんの講演は、真摯さのなかにアイロニカルな笑いがちりばめられたクッツェー作品を、いくつかのキーワードを交えながら縦横に分析するもので、metalepsis という語が印象に残った。ほかにもtradgecomedy, immortality of writer, contingency, non-position, otherness, unsettlement of planters といった語がメモに残っているが、時間がすぎると細かな記憶がどんどん遠ざかっていく。

 余韻としてくっきりと残っているのは、むしろ、アトウェルさんの深い響きのいい声、人柄、話し方、語調といったことで、それは出席者全員によって共有された gift なんだろうと思う。作家や作品への共通の関心をもつ人たちが実際に会って、率直にことばを交わし、ハグして触れ合うことの大切さ。限られた人生の時間で、それは、いろんな情報を交換する以上に大切なことかもしれない、そんな気がする。

会が終わったあとの食事会、飲み会で出た話がまた、とてつもなくおもしろかった。80年代、90年代の南アフリカの細かな事情や、日本でそのころ反アパルトヘイト運動があった話や、先日他界したミリアム・トラーディのこと。ANCの資金調達係として初来日したズールー詩人マジシ・クネーネが80年代に亡命先のカリフォルニアからクッツェーに、クッツェー作品を賛辞する長い手紙を書いていたというのは初めて聞いた話だった。ほかにも現在の南アフリカの学生の動き、政治状況、出版事情など、じつにいろんな裏話が聴けた。

 二日目の最後の発表がゾーイ・ウィカムの作品についてだったためか、「『デイヴィッドの物語』を日本語に訳したきっかけは?」という問いが訳者へまわってきた。そのとき即座に「JMクッツェーの作品の歴史的な背景を日本語読者に知って欲しかったから」と答える自分がいた。それで、あらためて、そうだったのだと自分でも再認識したのだった。クッツェー作品をより深く(勘違いせずに)理解するためのコンテクスト(まあ、もちろん、それだけではないんだけれど)としての南アフリカ文学。カウンターとしての作品──あっちにもこっちにも、デイヴィッドがいるんだもんなあ。マニアックな話ですが……。
 
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付記:2017.3.29──デイヴィッド・アトウェルさんはクッツェー作品のなかで、なんといっても『マイケル・K』がいちばん好きだ、といっていたのを付記しておきます。彼の著書の副題"face to face with time"は、マイケルがスヴァルトベルグ山脈の洞穴のようなところにこもって、考えたことばだった。しみじみと、嬉しい。

2016/05/12

『鏡のなかのボードレール』とフロート・コンスタンシア

Groot Constatia の入口
 さわやかな5月の夕暮れ。来月刊行予定の、翻訳付きのエッセイ『鏡のなかのボードレール』(共和国刊)の念校に、みっちり赤を入れて返送した。(編集者さん、すみません!)
 いつもなら、ほとんどふらふらになって、電話でピックアップを頼むところ、今日は風もなく、まぶしい光のなかを、散歩がてら、ゲラを入れた大きな封筒を抱えて郵便局まで行った。斜めに差し込む日差しが思いのほか強く、家に帰ってから、脱力してワイン三昧!

右奥がテイスティング・ルーム
 2011年11月に、クッツェーの自伝的三部作のリサーチに訪れたケープタウンで、亡霊のようにボードレールの一篇の詩が脳裏に浮かびあがった。その詩に出てくる「コンスタンシアのワイン」とは、ここのワインだったのかと驚いたワイナリー、それが「Groot Constantia/フロート・コンスタンシア」だった。

ホワイエの壁にかかった絵
拙著『鏡のなかのボードレール』は、『悪の華』からいくつかの詩篇を訳出しながら、話は時空を超えてあっちへ飛び、こっちへ飛び、テーマも19世紀象徴派詩人ボードレールの作品が日本語へ翻訳された歴史や、日本の詩人たちのボードレール詩の受容などを経て、最後はふたたびクッツェー作品に出てくるケープタウンへと戻っていく。

 キーパーソンはボードレールの「ミューズ」だったジャンヌ・デュヴァル、カリブ海生まれといわれる肌の黒い女性だ。
 小ぶりながら、掌にすっぽりおさまる pomegranate みたいな、握りしめると grenade のような本になるといいな!

2015/10/26

いま、南アフリカの学生たちの、格差をなくす闘い

2週間前に、ヴィッツヴァーテルスラント大学で授業料値上げ反対から始まった南アフリカの学生たちの抵抗が、今週に入って、野火のように全国へ広がり、大学が封鎖されたあとは通りへと拡大して、南アフリカという国の根幹を揺さぶっている、と伝えられている。「born frees at the helm」が合いことば。



 21年前に人種差別のアパルトヘイトからは解放されたけれど、2010年にブラジルを抜いて経済格差が世界一になってしまった南アフリカ。若者たちの主張は、現政権はアパルトヘイト政権下の植民地的な政策をまたしても再現しようとしている、生きる場を確保したい、生きさせろという叫びに近い。学費値上げに反対して、低所得者層の黒人にも教育を、という要求を皮切りに、彼らの主張は格差是正のための闘いとなっているようだ。

 若者たちのスタイルは、彼ら彼女らの親の世代がかつて行った解放闘争時のデモのスタイルにとてもよく似ている。歌を歌い、体を大きく動かしながら、ことばをリズムに乗せていくスタイルだ。闘いは個別のものではなく、世界的、経済的な流れと密接に結びついているという主張はあたっているだろう。プラカード上のいくつかの主張を拾ってみる。

Born a communist, died a capitalist's Blade
Where leader's cane afford to learn
Students are SA's future

ズマ大統領は、学生と大学側とテーブルについて話し合う予定だったが、実際には、TV映像でメッセージを流しただけだった。しかし2016年は授業料は上げないといったようだが。。。はたしてどうなるか。詳しいニュースはここで。

 このビデオ、Shutting Down the Rainbow Nation の存在は、ビンニャヴァンガ・ワイナイナのツイートで知った。彼のコメントは「look at those young people taking charge of their continent! /この若者たちが自分の大陸に責任をもとうとするところを見て!」というもの。

Students shook the South African nation to its very core this week as protests swept across campuses with the so-called born frees at the helm. "Shutting Down the Rainbow Nation'' is a ten minute documentary that captures the energy and heart of the student-led movement, which shut down higher education institutions around the country. It speaks to the policing of the black body, state violence, and the fall of the 'rainbow nation', sewn together with videos posted by the public on Twitter and Facebook throughout the shutdown. History was re-written this week, as it became clear that even though the revolution may not have been (adequately) televised, it was certainly tweeted. 

Video edited and produced by Leila Dougan.

Thumbnail image by Jabulile Newman.

Thanks to BCUC (Bantu Continua Uhuru Consciousness) for the music (http://www.bcuc-band.com/).

We thank the twitterverse for their contribution including:

@LirandzuThemba, @ashleighfurlong, @LanceAPetersen, @DerangedCatlady, @cleoPOKPAS, @CamillaCrafter, @LirandzuThemba, @DanniTwiet, @ashleighfurlong, @VusiThembekwayo, @abed_v1, @shaunswingler, @JabulileNewman, @intellectualangel, @bro_slovo, @ZizMajavu, @YusraaPochee, @CaityShannon, @MalaikaWaAzania, @leiladougan

Please accept our apologies if we used your footage without prior permission. If this is the case, please let us know so that we can add your hashtag to the list.

2015/10/16

今日は国際辞書デーって、知ってた?

ひさしぶりにブログに戻ってきた。さて、今日は南アフリカの言語状況について少し。


 今日、11月16日は国際辞書デーだそうだ(知らなかった!)この記念日はアメリカの辞書編集者ノア・ウェブスターの誕生日にちなんだもので、彼は1758年の今日、生まれている。

 南アフリカで、11ある公用語(オフィシャル・ランゲージ)ごとに構成された辞書編纂ユニットは、この重要な日を祝って、11月末までに先住民言語の13もの新しい辞書や改訂版を出す予定だ。一言語単独の辞書と、二言語間の辞書である。
 辞書編纂ユニットは2001年に、南アフリカにおける辞書編纂と語彙の変遷に焦点をあてるために設立されたもの。11公用語の辞書編纂ユニットは、構造としてこの国の憲法が保障し、法律によって義務付けられているとある。目的はこの国の先住民言語の「状態を高め、使用を促進する」ためだそうだ。
 ユニットは国立だが、基盤はその言語がおもに用いられている州、あるいは州内地域に置かれている。しかし、その作業結果は、居住地にかかわらずその言語の話者および学習者すべての利益になるようにする、とある。

 帝国言語である英語は南アフリカではほぼリンガ・フランカの位置を占めている、といってよさそうだ。もちろん、英語が第一言語の人もいるだろうが、むしろ農場や田舎ではアフリカーンス語のほうが「根付いている」という表現があたっているかもしれない。アパルトヘイト政権はこのアフリカーンス語を、ある意味で、頑固に守った政権だったからだ。
 ジョン・クッツェーが育った時代は、それまで大人たちは英語とアフリカーンス語のバイリンガルだったけれど、ジョンと同世代のアフリカーンス語話者は英語がどんどんできなくなっていった、という。農場のいとこたちは、だから、完全にアフリカーンス語しか話さなくなったということのようだ。
 しかし1994年の解放から20余年。その状態がどんなふうに変わってきたのか、変わっていくのか。少なくとも先住民言語を記述して、辞書を作り、つい最近までは各言語による文学賞まであったのだ。グローバリズム経済が南アフリカにこれから、どんな言語的影響をおよぼしていくのかウォッチングしていたい。

 言語別に具体的な辞書ユニットが置かれている州は:

ツォンガ語──リンポポ州
ツィヴェンダ語──リンポポ州
セソト・サ・レボア語──リンポポ州
シツワティ語──ムプマランガ州
イシンデベレ語──ハウテン州/ムプマランガ州
イシズールー語──クワズールー・ナタール州
イシコサ語と英語──東ケープ州
セソト語──フリーステート州
セツワナ語──北西州
アフリカーンス語──西ケープ州

 辞書や書籍がこれからいつ、どのようなものが出るかは以下の通り。

isiZulu English Bilingual Dictionary
isiNdebele Afrikaans English Trilingual Dictionary
isiNdebele Monolingual Dictionary
Tshivenda English Bilingual Dictionary
Tshivenda Monolingual Dictionary
Sesotho sa Leboa Monolingual Dictionary
Sesotho sa Leboa English Bilingual Dictionary
Setswana Monolingual Dictionary
Setswana English Bilingual Dictionary
Setswana Maths and Science English – Setswana Dictionary for Grades 4 to 9
Sesotho English Bilingual Dictionary
Xitsonga English Bilingual Dictionary
Xitsonga Monolingual Dictionaries
Due Early 2016
Siswati Monolingual Dictionary
Siswati English Bilingual Dictionary
These will add to the published dictionaries listed below:
isiXhosa Three Volume isiXhosa – Afrikaans – English Dictionary
isiXhosa One Volume Monolingual Dictionary
isiXhosa Maths and Science isiXhosa – English Dictionary for Grades 4 to 9
isiZulu Monolingual Dictionary R 275.