2017/08/29

7月のミラノ──映画狂 J・M・クッツェーと3本の長い映画


 ミラノで7月7日、ラミラネシアナという総合文化祭でJ・M・クッツェーが映画を3本上映しながら講演する、というニュースが入ってきたのはいつだったか。

 その3本とは:
 ・黒澤明監督の「七人の侍」
 ・サタジット・レイ監督の「大地のうた」
 ・ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「奇跡の丘」


 フェスの様子がイタリアの新聞に掲載された、La Lettura という新聞の日曜読書欄別冊300号記念の分厚い号で、 3本の映画についてクッツェーが書いているという。イタリア語なのでまったく読めない。ところが「世界文学・語圏横断ネットワーク」の事務局をつとめる土肥秀行さんが電子版を定期購読していて、ページ画像を送ってくれたのだ。日本語の概略までつけて。ありがたきかな、とはこのこと! さっそくこのブログでシェアしようと思う。

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 序として、
40年前にロンドンで映画を観ていた、昔は映画が一番身近な芸術で、世界中の若者が同じ映画を観ていた、いまもそうだろうが20代は影響されやすいもの、だから自分が影響が受けたものーそれは今の映画よりもアンビシャスだったーを紹介する。

『大地のうた』について──
ベンガル地方の言葉で撮られた映画で、世界中で有名になったものの、インドのなかではマイナーである、サタジット・レイは裕福な家の生まれで、イタリアのネオレアリズムやクロサワに影響を受け、カルカッタ郊外の田舎を舞台にした、「さまよう」という言葉がふさわしい撮り方と語り方である、インドでは右派からも左派からもたたかれた、彼自身「普遍的な人道主義」に根差したとコメントしていたから余計たたかれてしまった、(クッツェーがひきつけられている点として)ブレッソンのように人とモノが対等に溶け合う映像である。
『七人の侍』について(3本のなかでもべた褒め)──
筋は単純だが、現代的なテーマを抱えていて、一次的にサムライを雇って悪者を駆逐した農村はその後どうなるのか、また別の悪者があらわれたらまたサムライを雇うのか、それとも常備軍を整えるのか、農村にそんな余裕があるのか、それにそんなことをしたら軍人層に圧迫されないか…といった疑問を生じさせる、時代背景としては日本がアメリカ統治期に「時代劇」が戦中の「武士道」を煽ったため禁止されていた、しかし軍政下でも「時代劇」は前近代的なものとして制限されていた、「時代劇」の復活は、戦後の日本の大変革を後押しするために行われた、笑いや恋愛を交えて展開していくクロサワの語りはシェイクスピアに匹敵する、ベストな俳優たちがベストな演技をみせている、特にミフネは道化的かつ悲劇的ですばらしい。

『奇跡の丘』について──
弱き者と抑圧されき者に寄り添うマタイ伝を忠実に映像化しようとした、イエスは超人的に描かれる、それはパゾリーニのイエス観にもとづく、神話を再現しようとしている、当初撮影が予定されていたパレスチナはイスラエルの意図により聖性が取り去られていて、南部イタリアに変更された、そこは先進国のなかの第三世界であり抑圧された土地だった、人々の慎みは聖地がもっていたものと同じである、その慎みと聖性は、現代のパレスチナのように、失われていくものだった、パゾリーニはのちにそれを嘆くようになる、パゾリーニはこの映画に中世の世界観を持ち込む、すなわち光は世界を照らすというものである、ゆえにこの映画の人々は逆光や真上からの光線により、造形的に正面から絵画的に描かれる、イコンのよう映像なのである。
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 どれもいかにもクッツェーらしいコメントである。「七人の侍」については『Diary of a Bad Year/厄年日記』(2007)の巻頭を飾る章「国家とはなにか」で詳述しているし、「大地のうた」も「奇跡の丘」も『青年時代』に出てくる。ロンドン時代に映画を観ることが唯一の気晴らしだったコンピュータプログラマーのときの話である。とりわけ、インド映画の音楽に心身ともに揺さぶられたこと、母親と息子の関係の描きかたなどが心に残ったこと、が書かれていた。
 しかしなんといっても「奇跡の丘」を観たときの体験が印象深い。政教一致の南アフリカで彼は教育を受けた。それまでに心身ともに染み込んでいるキリスト教文化の土埃を足から振り払ったつもりが、そうではなかった、最後に近いシーンでキリストの両手に釘が打ち付けられる一瞬一瞬に身体がぶるっぶるっと震えたこと、見終わったときは不覚にも涙が出てきたこと、などが体験として述べられていたのだ。
 このへんのことが、いま彼が書いている「イエスの連作」とどう関連するのか。

 いずれにしても、上の映画評はたんなる印象評ではなく、それぞれの映画が制作された時代背景や、そのときどう評価されたかまで含めて、概略ながらじつに的確な論評である。全文をぜひとも英語のオリジナルで読んでみたいものだ。

Grazie mille, Doi-san!