Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2015/02/25

クッツェーの新刊がもうすぐオランダ語で

いつごろからだろう? J・M・クッツェーの新刊は英語のオリジナルが出版される前に、まずオランダ語への翻訳から出るようになったのは? 今回も、彼の新しい作品は世界に先駆けて今週まず、オランダ語版がコッセ出版社から出るようだ。オリジナル版のタイトルは「The Good Story」、オランダ語もそのまま「Het goede verhaal」だ。

 オランダでは、英語とオランダ語の両方ができる人が多いと聞く。英語版が先に出れば、当然、そのオリジナルを買う人が多いはずだ。ファンは英語で読むことになる。時間をかけてオランダ語に翻訳しても販売数はのびないことは容易に予測できる。
 このように例外的に、オランダ語への翻訳を優先することは、とりもなおさず、オランダ語で読まれる文芸の質と量を底上げするための戦略のひとつと考えられる。クッツェーはコッセ出版社とともに、この戦略を積極的に支えていることになる。オランダでは自分の作品がまずオランダ語で読まれてほしい、というメッセージがここからは読み取れる。ポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』でも語っているように、クッツェーの第一言語「英語」が彼にとって「他者の言語」だということ、この作家と英語の微妙な距離がこんなところにも出ているようだ。

 今回の作品は、表紙を見てわかるように、精神分析医のアラベラ・クルツとの共著だ。「良い物語」とはなにか?──サブタイトルには「真実、フィクション、心理療法をめぐるやりとり」とある。文学をめぐって、作家とサイコセラピストとの意見の交換、というのは興味津々ではないか。とりわけ『サマータイム』のなかでもはっきりと述べられているように、作品行為を自己セラピーと認識するクッツェーのような作家にとっては。

 ちなみに5月にHarvil Secker から出るオリジナルの英語版の表紙も、すでにネット書店にはあがっている(写真右)。円安のため、わずか200ページ前後の本が、3000円以上するというのは涙、涙、涙というほかないのだが・・・。

2015/02/24

Hit the ground



いやあ、何年ぶりで棚からひっぱりだして聞いたこのCDから。

Hit the ground

Hit the ground, baby
It's alright now
Hit the ground, baby
Take your veil down
See your eyes in mine
Leave the rest behind
Hit the ground, baby
'Cause I want to love you now
Hit the ground, baby
I said it's alright now
Hit the ground, baby
You're gonna make it somehow
Baby, why so lonely?
The day has just begun
Hit the ground, baby
Hit the ground and run
See your eyes in mine
Leave the rest behind
Hit the ground, baby
Hit the ground and run
Hit the ground, baby
Hit the ground and run

Songwriters
HARRIS/WRIGHT/REAGON


 

2015/02/11

クッツェーがブリンクについて書く

同僚であり共編者、アンドレ・ブリンク──J.M.クッツェー
ぼくが初めてアンドレ・ブリンクの名前を耳にしたのは1960年代、合州国に住んで学んでいたときだった。故郷から伝えられる噂では、アフリカーンス語文学の保護者が変わり、アンドレやヤン・ラビ、エティエンヌ・ルルーがリードする新しい世代が台頭してきたということだった。ヤン・ラビ(アイス・クリッジの友人で「オンラス」サークルの一人だったと思う)のことは聞いていたが、ほかの二人は知らなかった。探してみると、ブリンクの著書だけが入手できた。英訳版の Die Abassadeur だ。

1971年に南アフリカへ帰国して、ぼくは南アの新聞をまた読めるようになった。日曜版「ラポート」紙で偶然、アンドレ名義の長い文学評論をいくつも読んだ。それは他の文学ジャーナリズムのなかでも抜きん出ていた。新しい詩やフィクションについて評するその文章は、ぼくには分野全体を完璧に把握しているように思えたが、ごく普通の教育を受けた読者なら思わず誘い込まれるうまい書き方でもあった。書き手がヨーロッパやアメリカの同時代文学で起きていることに精通しているのは明らかだった。

実際にぼくがアンドレと接するようになったのは1980年代のことで、コース・ヒューマンの働きかけによって彼とぼくが新しい南アフリカ文学のアンソロジーを共同編集することになったときだ。このアンソロジーは、イギリスではフェイバー社から、アメリカではヴァイキング社から出版されることになったが、南アフリカの作家たちの、英語で書く作家とアフリカーンス語で書く作家の作品を(翻訳で)一冊の本に収める企画だった。ぼくは英語作家を、アンドレはアフリカーンス語作家を受け持った。選集にはあたうるかぎり最新の情報を盛り込むことにした。

スーパースターとして、そしてアフリカーンス語文学界の「アンファン・テリーブル」としてのアンドレの噂は知っていたので、ぼくはさぞかし苦労の多い時間になると覚悟した。たとえば、かんしゃくを破裂させたり、最後通牒を出したり、締め切りを守らなかったり。ところが、彼は共同作業者としてはじつに完璧、素早く、無駄なく、文句をいうこともなく、第一級の仕事をしたのだ。われわれの共編書『引き裂かれた土地:同時代南アフリカ読本』(1986)はいまでも、この種の本としてはなかなかの出来に思える。それは、より広い世界に対して、南アフリカの歴史上の危機的時代における文学を、スナップショットとして伝えている。

その後、彼がローズ大学を去ってケープタウン大学へくるまで、アンドレとぼくは持続的な連絡をとることはなかった。ローズ大学では比較文学の教授というのが彼の持ち味を生かす地位だったが、UCTには比較文学の学部がないため、彼の所属は英文学部となった。そこに彼はすっかり馴染んた。英文学も米文学も、彼の新しい同僚とおなじように、ときにはそれ以上に熟知していたのだ。彼はロマンス語の学部でだって十分教えられたのではないかと思う。

アンドレはUCTでは大学院生をおもに教えた。英文学や他の文学研究の修士課程で学ぶ者、あるいはクリエイティヴ・ライティングの修士の院生である。補助教師としてぼくは彼の修士の授業にいくつか参加した。彼が教える院生は途方もなく恵まれていると秘かにぼくは思った。クリエイティヴ・ライティングの院生が自分の書いたものについて指導を受けるとき、その指導はまっすぐ問題の核心を突きながら、じつに思いやりのある、じつに理解ある態度で表現されていたからだ。文学を志す学生は本物の文人が仕事をするようすを目の当たりにする機会に恵まれたわけだ。彼の守備範囲はときに世界文学全体にまでおよび、哲学的にも洗練され、現代批評の最新の流れにも通じていたのだから。

20世紀後半の南アフリカの歴史に対する概観が定まろうとしているいま、われわれは、Sestigers つまり、1960年代に花開いたアフリカーンス語作家および知識人の世代のなかで、アンドレが果たした歴史的役割がなんであったかを理解することができる時期にいる。作品を通して彼はアフリカーンス語小説に、ヨーロッパやアメリカのモダニズムの方法と関心を持ち込んだ。と同時に、彼がおおやけの知識人(ひどく酷使された用語だが、彼の場合は偶然ながらぴったり適合する)として、そしてかなりの程度まで政治的知識人として生きた人生を通して、彼は1948年以降体制の独断的、文化的麻痺状態から、危険ながら刺激的なポストコロニアル世界へとアフリカーナーを引きずり出すことに大きな役割をはたした。彼の活動に対する罰として、彼は長年にわたって国家機関から嫌がらせを受け、執拗に悩まされた。彼は迫害する者に対して立ち向かい──勇敢に、とぼくには思えた──受けた分に等しく返しもした。やはり、人が誇りをもって振り返るキャリアかもしれない。☆

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付記:これは先日、他界した南アフリカのアフリカーンス語作家、アンドレ・ブリンクのことを多くの人に知ってもらうために訳しました。ぜひ、彼の作品を実際に手に取ってみてください。日本語ならこちら。あるいは、この本も(いま、サイトをのぞいてみると、どこも売り切れですが、近いうちにきっと増刷されるはずですから、そのときはぜひ!)おすすめです。

2015/02/08

クッツェーが書くブリンクとの出会い

 昨日、訃報が流れた作家アンドレ・ブリンクは1935年生れの、南アフリカのビッグなアフリカーンス語作家だった。ほとんど常にといっていいほど、ナディン・ゴーディマや J・M・クッツェーといっしょに語られた作家だ。自作をみずから英訳し、フランス語も達者な人だった。

南アフリカ国内にかぎらず、ブリンクが英雄的な存在と見なされたのは、アパルトヘイト体制の支持基盤であるアフリカーナーの名のある家系に生まれ、アフリカーンス語を母語として育ち、フランス留学を機に、自国のアパルトヘイト体制の矛盾や酷薄さを痛烈に意識し、帰国後はその体制へのレジスタンスを強力に打ち出しながらアフリカーンス語で作品を書き、南アフリカの文学とその社会に多大な影響をあたえたからだろう。アフリカーンス語で書かれた小説として初めて発禁処分を受けた作家でもある。邦訳は小説に『白く渇いた季節』(ユーザン・パルシー監督で映画化された小説で、映画ではスーザン・サランドンが光っていた)や、エッセイ集『見えない南アフリカを見る』などがある。もっと翻訳が出てもいい作家だったと思う。

 そのアンドレ・ブリンクとの出会いについて、J・M・クッツェーが書いている文章が Books Live というサイトに掲載された。ブリンクのパートナー、Karina M. Szczurek が編集した『Encounter with André Brink』という本に収められている文章だ。

 2人が実際に初めて出会ったのは、Faber社から出た『A Land Apart』を共同で編集したとき(1980年代前半)だったとある。ブリンクの仕事ぶりに感嘆するクッツェーのことばは掛け値なしだろう。この本はわたしも1990年ころ神保町の洋書屋で入手した。見返しに1780円という定価が書き込まれている。このアンソロジーから幾編か詩を翻訳して雑誌に紹介したこともあった。懐かしい。
 ブリンクの追悼の意味を込めて、クッツェーが書いた「同僚であり共編者」ブリンクとの出会いの文章を、ここにもペーストしておく。

JM Coetzee
Colleague and collaborator
I first heard the name André Brink in the 1960s, when I was living and studying in the United States. From home came rumours of a changing of the guard in Afrikaans letters, of the rise of a new generation led by André and Jan Rabie and Etienne Leroux. I had heard of Jan Rabie (he was a friend of Uys Krige’s, I knew, one of the Onrus circle), but not of the other two. I searched out the only Brink book available, an English translation of Die ambassadeur.
In 1971 I returned to South Africa and was able again to read the South African newspapers. In the SundayRapport I came across lengthy literary articles under André’s name, which stood out from the rest of the literary journalism. They reviewed new poetry and fiction with what seemed to me total command of the field, yet were engagingly enough written to entice the ordinary educated reader. Their author was clearly familiar with what was going on in contemporary letters in Europe and America.
I had no actual contact with André until the early 1980s, when he and I were brought together by Koos Human to collaborate in editing a new anthology of South African writing. This anthology, which would eventually be published by Faber in the UK and Viking in the USA, was planned to bring together within the same covers English-language and (in translation) Afrikaans-language South African writers; I would be responsible for the former, André for the latter. The selection was to be as up to date as possible.
Knowing of André’s reputation as the superstar and enfant terrible of Afrikaans letters, I was expecting a stormy time: tantrums, ultimatums, missed deadlines. Instead of which I found the perfect collaborator, a man who swiftly and efficiently and without fuss did a first-class job. The product of our collaboration, A Land Apart: A South African Reader (1986), still seems to me a good book of its kind, offering the wider world a snapshot of South African writing at a time of crisis in the country’s history.
I did not have sustained contact with André until he left Rhodes University and joined the University of Cape Town. His natural position there would have been as professor of comparative literature, but UCT did not have a Department of Comparative Literature, so he was housed in the Department of English. He was entirely at home there: he knew English and American literature as well as his new disciplinary colleagues did, in some cases better. I suspect he would have been equally competent in a department of Romance languages.
In his teaching at UCT André concentrated on senior students, those taking honours in English or else working for the MA in literary studies or the MA in creative writing. As a co-teacher I sat in on some of his MA classes. Privately I thought his students extraordinarily privileged: the creative writing students for receiving guidance on their work that went straight to the heart of the matter yet was expressed in the most courteous, most understanding manner; the literature students for an opportunity to see a true man of letters at work, someone whose range of reference extended across the whole of world literature, who was philosophically sophisticated as well, and up to date with contemporary schools of criticism.
Now that the outline of South African history in the second half of the twentieth century is beginning to settle down, we can begin to see what historical role André fulfilled as the leading figure among the Sestigers, the generation of Afrikaans writers and intellectuals who flowered in the 1960s. Through his writing, in which he imported into the Afrikaans novel the methods and concerns of European and American modernism, but equally well through the life he lived as a public intellectual (a much-abused term that happened to fit very well in his case) and to a degree as a political intellectual, he played no small part in bringing Afrikaners out of the complacency and cultural torpor of the post-1948 dispensation into the dangerous but exciting world of the post-colonial. In punishment for his activities he was for years harassed and persecuted by the agencies of the state. He stood up to his persecutors – bravely, it seemed to me – and gave as good as he got. A career, all in all, on which one might look back with pride.

2015/02/04

『鉄の時代』から朗読するクッツェー

 11月11日から3日間にわたってオーストラリアはアデレードで開かれた、Traverses: J. M. Coetzee in the World の初日、J・M・クッツェーがエルダー・ホールで朗読をした映像がYOUTUBE にありました。



 最初に彼を紹介するのは、朗読の前にピアノ演奏をしたアンナ・ゴールズワーシーさん。クッツェーさんはまず、今回のコロキアムを企画、実行した人たちへの謝辞を述べ、それから朗読を始めます。「20年以上も前に書いた小説ですが」といって読みはじめたのは、なんと『鉄の時代』でした。彼がなにを読むかは、主催者をはじめ、誰にも知らされていなかったので、びっくりしたのなんのって! 彼が読んだ部分の拙訳を少しだけ以下に。

****
 ガレージのわきに細い通路があるのを、おぼえているかしら、あなたがときどき友だちと遊んでいたところ。いまでは使われることもなく、さびれ、荒れ果て、吹きだまった枯れ葉がうずたかく積もり、朽ちている。
 昨日、この通路のいちばん奥に、段ボール箱とビニールシートでできた家があるのを見つけたの。なかで男が、通りから来たとわかる男が、身をまるめていた──背が高く、痩せこけていて、風雨にさらされた皮膚に、長い虫歯の犬歯、ぶかぶかの灰色のスーツを着て、縁のほつれた帽子をかぶっていた。その帽子をかぶったまま、縁を耳の下に折り込むようにして寝ていた。浮浪者よ。ミル通りの駐車場をうろつく浮浪者のひとり、買い物客に金をねだり、立体交差の高架の下で酒をあおり、ゴミ入れをあさって食べる浮浪者。雨の多い八月はホームレスにとって最悪の月、そんなホームレスのひとり。両脚をマリオネットのように外に突き出し、箱のなかで、あんぐりを口をあけて眠っている。まとわりつく、芳香とはおよそいいがたい臭気──尿、あまったるいワイン、黴臭い服、ほかの臭いも。不潔。
 立ったまましばらく彼をじっと見おろしていた。じっと見ながら臭いを嗅いでいた。訪問客、よりによってこんな日に、わたしのところに舞い込んできた客。
 サイフレット医師から知らされた日だった。知らせは良いものではなかったけれど、それは、わたしのもの、わたしのための、わたしだけのもので、拒むわけにはいかなかった。両腕で抱きあげ、この胸にたたんで、家にもち帰るものだった。首を横にふったり、涙を流したりせずに。「先生、どうもありがとうございました。率直にお話くださって」とわたしはいった。すると医師は・・・

          ・・・中略・・・

 男はぎょっとなることをした。まっすぐに、初めてわたしを直視して、ぺっと唾を吐いたのだ。ねっとりと、黄色い、珈琲の茶色い筋を含んだ唾の塊を、わたしの足もとのコンクリートの上に。それからマグをわたしに突き返し、ぶらりと歩み去った。
 ものそれ自体だ、そう考えると身震いが起きた。わたしたちのあいだに登場した、ものそれ自体。唾はわたしに、ではなく、わたしの目の前に吐かれた。わたしがそれを見て、調べて、それについて考えることができるように。彼のことば、彼なりのことば、その口から吐き出され、彼を離れた瞬間は温もりのあったことば。紛れもない、ひとつのことば、言語以前の言語に属するもの。最初は眼差し、それから唾を吐くこと。どんな眼差しかって? 敬意のかけらもない眼差しよ。ひとりの男からの、男の母親ほどの老齢の女に向けられた眼差し。ほら──おまえの珈琲だ、持っていけ。

*****
さらに偶然は重なるもので、この夜、わたしがホテルに帰ってパソコンを開けると、東京からメールが入っていたのです。それは世界文学全集第一期に入ったこの作品の邦訳『鉄の時代』(河出書房新社刊、2008年)が増刷されることになったというニュースでした。嬉しい偶然の一致でした!

2015/02/01

「アデレード報告記」を書きました

 昨夜から強い風が吹いている。唸るような。泣くような。怒るような。この不条理な世界を去って行いく死者たちの、去りかねている憤怒にみちた声を運ぶように。いまも吹いている。北の地方では烈しい吹雪になったようだ。いったい残された人間たちはどこに向かっていくのか。

 ようやくコラムが掲載されます。明日、2月2日(月)の「毎日新聞」夕刊です。昨年11月にアデレードで開催されたイベント「トラヴァース、世界のなかの J・M・クッツェー」について書きました。三日間にわたるイベントのようすや、クッツェー家を訪れたときの印象など。ジョン・クッツェーさんと笑顔のドロシー・ドライヴァーさんの大きな写真も載ります! 初日の朗読前にアデレード大学構内の庭で開かれたレセプションのときに撮影したものです。
「縦横に論じた3日間──クッツェーの全体像に迫るイベント」

 原稿はかなり早く、11月中に送ってあったのですが、日本でも世界でもたてつづけにさまざまなことが起きて・・・。

 右の写真は、イベント2日目にオーストラリア国内で限定発売された『Three Stories』(Text Publishing, 2014)にサインするジョン・クッツェー。この小さな本には、A House in Spain(2000)、Nietverloren(2002)、He and his Man(2003)が入っています。
 オーストラリアで彼の本を編集するText Publishingのスタッフも参加していました。
 
短篇「スペインの家」は、彼が70歳になったときアムステルダムで開かれたイベントで公開されたもの。そのとき今回のように参加者のために限定発売(配布?)された短篇と聞いています。「ニートフェルローレン」は2013年秋に「神奈川大学評論 76」に訳出しましたので、日本語でも読めます。デイヴィッド・アトウェルの研究によれば、この短篇はジョンの父方の農場フューエルフォンテインがあるカルーに、作家が別れを告げるための作品だそうですが、確かにそう考えると腑に落ちることがいくつもあります。「He and his Man」はご存知、2003年のノーベル文学賞受賞記念講演!