Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2020/05/13

ディアス・ビーチのJ・M・クッツェー

これで何度目かなあ、と思いながら2000年のJ・M・クッツェーのインタビューを見る。オランダのテレビ局が制作した「美と慰めについて/Of beauty and consolation」というシリーズ。最初のほうは、ケープタウンのホテルでのインタビューで、音楽的な美しさがあると著者自身がいう『マイケル・K』の最後の部分を、オランダ語で朗読するクッツェー。(このブログに埋め込むのは、たぶん、1度目2度目、そして今回の3度目)
 


(以下のメモは備忘のため)

「書くことについて/on writing」
世界をありのままに把握してそれをある枠組みのなかに置き、ある程度まで手なづけること、目標としてはそれで十分/grasping the world as it is and put it within a certain frame, taming it to a certain extent, that is quite enough for an ambition」

52:40
人は癒しのために美が、自然の美が必要なときがある、なにか小さな、花とか、あるいはワイルドで大きなここの風景のようなものによって、自分の、動物としてのオリジンと結びつくような自然の美が。。。

備忘録として少し書いておくが、最後のほうで、『鉄の時代』に出てくる「天国」の部分に関連させて質問している。クッツェーは「死」「神」「天国」といった概念について「考えていく」と明言していた。

1:15:00
ヨーロッパの伝統で人が神に「不死の生」をさずけてほしいと願ったのは誤りだった。

2020/05/12

『鉄の時代』のファーカイルは白人か、黒人か?

J・M・クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルは白人か、黒人か?
河出文庫 2020.5.7発売
これはなかなか解けない問いのようだ。2008年に初訳が出たとき、ある研究者は白人と断定して自作内で論を立てた。ある読者は黒人とみなして感想を書いた。しかし。

主人公ミセス・カレンの家の敷地に無断で入り込み、ガレージのわきの通路にダンボールとビニールシートで家らしきものを勝手に作って、そこに身をまるめていたのがファーカイルだ。作品の最初に、まず書かれているのがファーカイルの風貌で、細かな描写がある。

「背が高く、痩せこけて、風雨にさらされた皮膚に、長い虫歯の犬歯、ぶかぶかの灰色のスーツを着て、縁のほつれた帽子をかぶっていた」

 これだけでは「黒人か白人か」はわからない。ところが数ページ後に非常に重要な語がはさみこまれる。

「馬面の、風雨にさらされた顔、酒で目のまわりがむくんでいる。奇妙な緑色の目──不健康な」

 この「緑色の目」というのが決め手となるか、ならないか。白人だ、と思ったひとはここで判断したらしい。しかし、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』の主人公はカラード(混血)だが紺碧のような緑色の目をした男だった。ということは?
 だが、決め手は、じつは、もっと後ろにある。ミセス・カレンの家で働いているメイド、フローレンスには子供が3人いて、長男ベキがいつのまにかタウンシップから逃げてきて、カレンの屋敷に住み着いている。住み着いて、といっても庭に離れのように立てられた狭い召使い部屋に、ということなのだが、このベキがあとからやってきた友人ジョンと2人で、酒浸りのファーカイルに殴りかかり、ファーカイルが手に持っていたブランデーの瓶の中身を地面に捨てるシーンがある。ここが決定的なのだ。なぜか?

ペンギン版 2018.9.25発売 
白人の屋敷内で黒人少年(ベキというのはバンツー系/黒人の名)が、いくら浮浪者でも白人に殴りかかることは、まず考えにくい。87年のケープタウンでの出来事なのだ。まだアパルトヘイトの法律は歴然と存在する。そして、酒ばかり飲んでいて闘わない旧世代へ若い世代が憤怒を募らせてきた歴史的事実があったことを思い出したい。南アフリカの解放闘争の歴史を少しひもとけば、それはわかる。とりわけブランデーがカラードの労働者たちに給料の代わりに支給された事実は『デイヴィッドの物語』にも出てきた。だから、若者が「のらくら者」と思われるファーカイルに殴りかかるシーンは、世代間の対立をあらわにする場面でもあるのだ。 
 そこまで読み解けば、ファーカイルは白人ではありえないことがわかるだろう。たとえ緑色の目をしていても。

 また、「黒人」だという見方は、非白人をすべて「ブラック」と呼んで団結した人たちの用語からすればあたっているが、フローレンスやベキのような「黒人」は当時南アフリカの法律では「ネイティヴ」と呼ばれた。だから「ブラック」というのはあくまで「非白人」という大雑把なカテゴリーなのだ。そこにはカラードもインド系もアジア系も入った。闘争の最終段階では「we black」と明言した反体制の白人闘志もいたくらいだ。そしてケープタウンはこのいわゆる「カラード」が「ネイティヴ」より多い街だったのだ。

 ということを考えると、ファーカイルはやっぱりカラードか、と思いいたる。おそらく、そうだろう。カラードといっても、肌の色とか文化的な背景とか、じつにさまざまなんだけど。
 そして作家は「ジョン・クッツェーはあたうるかぎりこの語を使うのを避けた」と『サマータイム』のなかで元恋人・同僚のソフィーに言わせていたことも思い出したい。


(2014年11月にアデレードで開かれたTraverses: J.M.Coetzee in the World の初日の朗読でクッツェーはこの『鉄の時代』の冒頭を朗読した。)

***
付記:そもそもVercueil・ファーカイルという名前は、いわゆるバンツー系(コーサとかズールー)の黒人の名前ではない。この作品中に出てくるThabane・タバーネとか、『恥辱』のセクハラ委員会の委員長Mathabane・マタバーネはともにバンツー系の名前だが、Vercueil・ファーカイルは明らかにフランス語かオランダ語起源の名前をアフリカーンス語読みしたもの。「V」は「ヴ」ではなく「フ」に近い音なのだ。これは2006年の初来日時に、作家本人に何度も発音してもらって確認した。

2020/05/02

J・M・クッツェーのシカゴ講演:『子供百科』で成長すること(2)

なんだか妙に気温があがってきて、そよとも風が吹かない午後になった。
 連休中はどこも書店は休業を余儀なくされて、かろうじてネット書店で注文はできるものの、本や雑誌が手に入りにくくなってる。おまけに肝心要の図書館も閉まっている。そこで!

岩波書店の「思想 5月号」に掲載されたJ・M・クッツェーのシカゴ講演:『子供百科』で成長すること(約53枚)──の解説「J・M・クッツェーの最新スタイル」を期限限定でここにアップすることにした! 
 クッツェーの講演の中身は第2巻の日本語訳が出たばかりの「イエスの三部作」と切っても切り離せない内容の、非常にスリリングな話になっているのだ。


*****J・M・クッツェーの「新」スタイル ****

──ほかに読むものがないときは緑の本を読む。「緑の本を一冊持ってきて!」と病床から母親に向かって叫ぶ。緑の本とはアーサー・ミーの編纂した『子供百科』のことで………『少年時代』12章

 これはアレルギーで微熱をだしたジョンが書物を貪るように読みはじめた『少年時代』のシーンである。『青年時代』『サマータイム』と書き継がれた自伝的三部作(1)の初巻を訳してから「緑の本」とはどんな本だろうとずっと思っていた。謎を解いてくれたのが2018年10月9日に作家が古巣のシカゴ大学で行なったこの講演 Growing up with The Children's Encyclopedia (『子供百科』で成長すること)だ。母親が買いあたえた中古の百科事典が少年期の自己形成にどんな影響をおよぼしたか、それを細かく検証しようとする作家はこのとき78歳である。

「緑の本」と呼ばれた『子供百科』の編者アーサー・ミーとはどんな人物だったか、編集方針やその底に流れる思想はどんなものだったか。アングロ・サクソンを最優秀とする雑駁な人種概念、優生学的な進化思想、ひた隠しにされたセックス、みずからの命を捨てる犠牲的精神の称揚など、クッツェーが文章や図版を示しながら論じる内容はスリリングだ。

──中略──

『子供百科』がイギリス帝国のプロパガンダとして愛国的な子供を作るために編集された歴史的事実と、その時代背景を分析する視線が、南半球で生まれた彼自身の少年時代を容赦なく照らしだしていく。

 『イエスの幼子時代』(註3)『イエスの学校時代』(註4)『イエスの死』と書き継がれた三部作は「特別な」子供と教育をめぐる、すぐれて哲学的な思弁小説である。

──以下略──


2020/05/01

河出文庫版 J・M・クッツェー『鉄の時代』

植木鉢にハーブの種など蒔いていると、予定より早く入手可能になっていました。河出文庫版のJ・M・クッツェー『鉄の時代』です。

 最初、カバーを見たときはびっくりしましたが、1990年に出たハードカバーとならべてみると不思議な共通点が浮かび上がることに気がつきました。ともに女性のプロフィールなんです。

右:Secker&Warburg 版 (1990)
原著の表カバーは打ちっぱなしのコンクリのような、木製のような、壁の上に何枚かのガーゼを重ねて、茶色の染みのようなものをにじませ、遠くから見るとギリシア彫刻の、おそらくデメテルの顔が、ぼんやりと浮上するようになっています。裏表紙もまた女性の写真で、顔の上にガーゼが置かれています。
 今回の文庫では、そんな「病んだ人間」を思わせる「ガーゼ」こそ使われていませんが、また別の要素が加味されて……まあ、カバーの話はこのくらいにして。

1990年版ハードカバー裏
これでクッツェー作品の文庫化は、2003年に集英社文庫『夷狄を待ちながら』、2006年にちくま文庫『マイケル・K』(その後 2015年に岩波文庫)、2007年にハヤカワepi文庫『恥辱』に続いて、4作目になります。

 舞台はアパルトヘイト末期のケープタウン、元ラテン語教師だったミセス・カレンが娘にあてて遺書代わりに書く手紙、という形式の小説です。2008年に池澤夏樹個人編集の世界文学全集の第1期に初訳として入りました。翻訳作業が作家の2度目の来日と重なって、膝詰めで疑問点を解決できたのは本当にラッキーでした。そんな裏話は、このブログ内にも<『鉄の時代』こぼれ話>のタグをクリックするとたくさん出てきます。

 作家クッツェーがまだケープタウンに住んでいたころの骨太の作品です。動乱の時代に目の前の現実にどこまでも真摯に向き合おうとする、そんな緊張感がみなぎった作品はこの「コロナの時代」を生き抜くための救命ボートにもなるでしょうか。なるといいなと思います。今回、文庫化にあたって新たに「訳者あとがき──よみがえるエリザベス」を書き下ろしました。J・M・クッツェーの現在地と、彼の作家としての世界的評価についても書きましたので、ぜひ!☆