Elizabeth Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/04/29

「日本」という現場、個々人のフロント

こういう発言をする人がいる、ということに同時代人として希望を感じる。

小出裕章氏:

どこかにモデルを求めてはいけないと思うんです。今あるのは、私たちのこの「日本」という現場があるわけで、それをどうやって変え、どういうところにもっていけるかという、たぶん、そういうことしか意味がないだろうと思います」

「ですから、東京みたいなきらびやかな街をつくることが豊かだと思ってる、六本木のような街を豊かだと思う、それは私は全然違うと思っています」

「私は、聞いていただいたように「東京の街づくりが間違えている」と言ったわけで、いわゆる大都市のつくり方が間違えている。それは逆に言えば、過疎地のつくり方も間違えているということです」

詳しくはぜひこちらへ                               
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「野に暮らす」と書いて「野暮」というが、しばらく前から「野暮」のどこがわるいの? とわたしは、ことあるごとに反論することにしている。おしゃれな都会の洗練された「粋」がもっともすばらしいものとされてきた、日本の中央文化主義の価値観そのものを変えることはできるだろうか? 

 原発をめぐる日本人の心の動きは、この文化の問題と不可分に結びついている。
 
 もちろんそれは田舎の、過疎地の、農業などを営む人たちの心や人間関係のあり方とも不可分だ。

 集団でも組織でもない、個人、が立ちあがるか、社会、ができるか、試されている。

2011/04/27

アディーチェ第二短編集、訳了!

今日、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの第二短編集の訳稿を編集部に送った! 全9篇。

 2009年に出た英語版の短編集『The Thing Around Your Neck/なにかが首のまわりに』から未邦訳のものを6篇。さらに「Granta」や「New Yorker」といった雑誌に掲載されたものが3篇。

 今回もまた日本独自版。『アメリカにいる、きみ』につづく、2冊目のオリジナル短編集です。

 内容としては、作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの成長と変化が・・・詳しくは本になってからにしましょう。
 秋には書店にならぶはずです。どうぞお楽しみに!

*****
注記:2枚の画像はいずれも「New Yorker」から拝借しました。

2011/04/23

J. M. クッツェーが自伝的三部作を1巻に

今年9月にクッツェーの自伝的三部作が1巻になる。タイトルは「Scenes from Provincial Life/地方生活からの叙景」。

 1997年の「Boyhood/少年時代」、2002年の「Youth/青年時代」、そして2009年に出た「サマータイム/Summertime」が一冊の書籍にまとめられて、この9月、いつものようにイギリスの出版社 Harvill Secker から、アメリカでは、これまたいつものように少し遅れて10月に出る。

 自伝的三部作は「Summertime」が最後、と著者自身が明言していたけれど、「一冊にまとめる」ことがなにを意味するのか興味深い。ここには見逃せない、著者自身の強いこだわりが見て取れる。それぞれのサブタイトルだった「Scenes from Provincial Life」が三部作をつないできたが、今回これがメインタイトルになった。

 「地方生活からの叙景」

 硬質で、無駄のない、倹約型の文章でつづられる内容を考えると、「Scenes」を「情景」とは訳せないように思える。どうにも日本的な湿気が付着してしまう。南アフリカの渇いた風景を描いていることから考えても、やはりここは「叙景」だろう。
 
 クッツェーのことば使いにはいつも、先人たちの作品やことばと響き合うものが隠されているが、このメインタイトルもまたそう。友人から指摘されて気づいた、というか思い出したのだが、これはバルザックの「人間喜劇」と響き合っているらしい。調べてみると、そのなかの「Scènes de la vie de province」をそっくり英語にしたものだということがわかった。

 
 舞台は三作ともに南アフリカ。唯一の例外が「青年時代」のロンドンだ。そしてこの「青年時代」にはつぎのようなゲーテのことばがエピグラフにあったことも思い出される。

Wer den Dichter will verstehen
muß in Dichters Lande gehen.
– Goethe

 無手勝流に訳してみる。

Anyone who wants to understand the poet
must go to the poets' country.
- Goethe

 文字通り解釈すれば「詩人を理解しようとするなら、詩人の国に行かなければならない」、つまり「青年時代」は全体の三分の二ほどロンドンを舞台としてはいるが、そこに登場する詩人志望の青年/ジョンを理解しようとするなら、彼の国/南アフリカへ行かなければならない、ということか。

 やっぱりなあ!
 

2011/04/21

コワ〜い原発は いやだニャーン

25年前のチェルノブイリ原発事故から一カ月後、日比谷公園で買ったバッジです。ものもちのいい娘の机のなかから出てきました。

 あのとき、たくさん並んだ木製のバッジのなかから、この猫の絵柄を選んだ娘はいま、自分で猫を飼うようになりました。

事実と向き合う、目をそらさない

半月ほど前にこれらの写真をみたとき、文字通り、絶句しました。しばらく身体が動きませんでした。(3月24日に無人飛行機が撮影したものです。他の写真もあります→こちら
 
 今日、ひさびさに池田香代子さんのブログに「【動画】福島原発で作業にあたっている人びとの状況は 災害とメディア」さらにその続編が掲載されました。これは必読!

 それを読んで、これらのリアルな写真群を思い出しました。衝撃的だけれど、福島第一の現場で作業にあたっている人は(それも約8割が今回の震災による被災者です)は、こういう場所で日々働いているのですね! 
 最初は三度の食事すらなかった。お風呂、新鮮な野菜や果物、最低限の宿泊施設さえない。体育館にごろね状態で、食事はすべてレトルトか缶詰。こういう労働によって支えられる「東京」とはなんなんだろう? 

 それにしても、作業が長引くことは最初からわかっていたはずなのに、どうしてもっと早く、そこで働く人たちのための設備を準備しなかったのでしょう? 東電も、政府も。愚直にわたしは問いたい──そのことを速やかに報道し、問いかけない大手メディアは、本来のジャーナリズムの仕事をしているのかしら? 

 ふたたび思い出されるのは、京都大学原子炉実験所の小出裕章氏のことばです。

私は原子力を専門としていながら、原子力を廃絶したいと思います。その理由は原子力が危険だからという前に、原子力が始めから終わりまで差別に基づかないと成り立たないからです。

 りんごの花は、やっぱりきれいだ!

2011/04/20

城南信用金庫が脱原発宣言!

これは広めたい。約1週間前の情報ですが、めぐりめぐってわたしも知りました。

企業の長がここまで「節電できる」と発言するのはすばらしい!

http://www.youtube.com/watch?v=CeUoVA1Cn-A

2011/04/19

不思議なオドラデク

引用ばかりじゃね、ちょっと日記風に、オドラデクのことを。

 日曜日にシアターイワトへ「カフカ ノート」を観にいった。
 高橋悠治のピアノ、そして4人のアクターたちが交代でノートを読み、身振り、動作、さまざまに演じる舞台。

 天井からなにげなく吊るされた、不思議な物体。☆のような、糸巻きのような、なにかの潰れた目玉のような、漂流物がからまったオブジェ=オドラデク。
 
 あ、今日はオドラデクの日か、と思った。

 詳しくはこちらへ → 家のあるじとして気になること

 結局、またしても引用とリンクになってしまう!!
 今日もまたオドラデクの日なんだろうか? ビト〜ン、ビト〜ン、といいながら出没するあれか?

「原発に頼れない地震列島」

Mon pays natal さんのサイトに見逃せない情報がつづけて載りました。転載します。

1)「毎日jpから。われわれはこんなことも真剣に考えずに過ごしてきたのか。

──国会で13日開かれた超党派の危機管理都市推進議員連盟の会合。講師を務めた石橋克彦・神戸大名誉教授(地震学)が語る議員らの“想定”をはるかに超えたシナリオに、会場は重苦しい空気に包まれた。「どうして日本の原発は危険で、欧米の原発は安全なのか」。議員の問いかけに石橋氏は「ひとえに日本が地震列島だからです」と淡々と応じた。」


2)「昨日あげた毎日jpの記事は必読ですが、こちらは石橋克彦氏の2008年の文章。「地震列島」の現状がよくわかります。これを読むと、原発については推進派も反対派もなく、日本列島ではすべて停止し全廃する以外の選択肢はないでしょう。どう考えても危なすぎる」→「原発に頼れない地震列島


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付記:写真は、Jamaica Break さんのサイトから拝借しました。ふくよかでゴージャスなりんごの花! これが鉢植え?

2011/04/16

このくにを捨てばやとおもふ更衣

このところずっと考えてきたことを言い当ててくれた翻訳家がいます。
 それまでほとんど毎日のように更新されていたブログが、3.11以降ぴたりと止まってしまい、どうしたのかと思っていましたが、今日のブログを読んでわかりました。池田香代子さんのブログ

「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」という表現をtwitterで発見した池田さんはこう述べます。

***
「ふくいち」とは、言わずと知れた福島第一原子力発電所のことで、東京電力がつけた略名です。親しみ深さを狙っているのでしょう。それをそのまま受け止めて、「つもり」という語をつなげて、恐ろしい過酷事故を起こした原発をかわいらしく擬人化しています。過酷事故による放射性物質放出も、「もくもくする」とユーモラスに表現しています。

「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」

そう書いた方に、この事態を矮小化する意図はなかったでしょう。そうではなく、「ふくいち」にこうして呼びかけて、哀しみを表現しているのだと思います。これが私たちの、綿々と続いている心性なのではないでしょうか。「私たち」がどのような範囲を示すのか、私にはわかりません。古来、この列島に住まう人びとなのか、アジアなのか、その一部なのか、あるいは地理的境界に意味はなく、権力からの遠さが「私たち」を規定するのか。わからないままに「私たち」と言っています。

怒るのではない。そこにあるのは哀しみ。どんな凶悪な厄災にも、「ふくいちよう」と呼びかけて、呼びかけ可能なものに変換して、引き受ける。引き受けてしまう。逃げない。たたかわない」

***
 これを読んで思いました──日本人ってホントに、どうして怒らないの?(今日ばかりはステロタイプにも「日本人」ということばをわたしも使います!!)これほど生命が軽んじられているというのに。こんな理不尽がおこなわれているというのに。憤怒はふつふつとわいてきます。憂いに沈むこともあるけれど、沈んでばかりもいられないじゃない・・・子どもたちのことを考えると。

 再度いいたい! 地震と津波、これは天災です。でも、原発事故はあきらかに人災です。人災は人が作り出した災厄です。おなじ過誤をくりかえさないために、徹底的にその原因を明らかにして、責任の所在も明らかにして、防御する手だてを講じることができます。だから、

 人災を天災みたいに受け入れないこと!

 無力感におちいらないためにも、本来はメディアは決定権をもつ人たちの行動をチェックしなければならないはずです。決定権をもつ人=権力をもつ人です。ジャーナリズムは権力をチェックする、メディアの存在意義はそこにある。

 ことばに関わる人間の「希望」もそこと深くつながっているはず。

 日本のメジャーなメディアが世界中から批判されているのは、ここではないか。とりわけTVは・・・わずかな例外をのぞいて権力の出先機関になっている。その構造を日本人は受け入れてきた? はるむかしから? そんなのいやだな、わたしは。生きているかぎり。

 多くの人がたたかわない? ずっと、ずっと? 命じられたことはするけれど、ひとりの個人として、おのれの心の底の声を聞いて、なにものかに抗い、たたかうことがない? たたかうという行為がいま一人の「他者」を発見すること、「他者」へはたらきかけること、「他者」との連帯=愛をも可能にすることなのに。諦観は、その愛する行為を始めないことなのに。

 なぜ??


 この国を捨てばやとおもふ更衣   流火

むべなるかな。
 これは太平洋戦争に青年将校として行った人が戦後あるいてきた結果を自問する句です。ひとりの個人が(おそらくはかつて自分を一体化させた)「国」と向き合い、それを問うところまでは進んだ。でもいま「捨てばや」と思ってみても、生きている限り、愚直にこの先も歩いていかなければならないことを多くの人は知っている。ひとりひとり、この土地を、この「日本語という島」を、このときを。だから、もうそんな「あわれ/我=彼」心情のうちに留まってはいられないわね。

*ネットから拝借した写真はわたしの大好きな北国のリンゴの花。

2011/04/11

ヴィヴァ!『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』

 3.11以降、心がざわつく。落ち着いて本が読めない。でも中断していた本へもどり、時をわすれて、力あることばたちを読んだ。

 漫画、TVゲーム、SF、とあまり馴染みのないオタク文化満載、膨大な脚注なのに、読ませる。この力はなんだ? 
 ディアスは1996年に出た短編集「Drown(邦題『ハイウェイとごみため』)」でニューヨークの貧民街に住む声なき人びと=ドミニカ移民に声をあたえた。この一作でMITの教職を手に入れたことからみても、なみの才能ではない。そして事実、教職で生計を立てながら絶対に書かねばならない本を書いた。それがこの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』である。

 主人公のオスカーはスポーツ大嫌いのふとっちょオタクだが、まことに気弱でまじめな愛すべき男の子。しかし彼を溺愛するのは母ベリと姉ロラだけで、彼がのぼせる女の子からは総スカンを食う。ま、それもそうか、だって開口一番、TVゲームやSFの細部について語りまくるのだから。

 母の出生の物語はトルヒーヨ独裁下のドミニカ共和国の歴史と絡む。それは幼くしてニューヨークに移民したディアスの経験(直接ではないにしろ、親の世代から生々しい体験として延々と語り聞かされたはず)を写してもいる。それが半端じゃなく過酷だ。その過酷さに対抗できる手法を生み出すためディアスは十年の歳月を費やした。確かにそれだけのことはある。読むほどに作品に込められた凄まじいまでの力がひしひしと伝わってくる。
 ペルーの大物作家リョサの『チボの饗宴』(権力者を視点にすえた興味深いがシンプルな物語)に対抗し「支配する側からではなく、支配される側から見た」物語を書くためディアスはこんな手の込んだ手法を編み出したのか。語り手もオスカー、ロラ、ベリと移り、最後にオスカーのルームメイトにしてロラの元彼だったユニオールが話をまとめることになるところが、『半分のぼった黄色い太陽』のウグウをちょっと思い出した。
 
 その結果、きらきらしい引用で迷路のような奥行きをもった、猥雑きわまりない独特のスペイン語てんこもりの、まことに斬新かつリアルなアメリカ青春文学が生まれた、というのは部外者のつける理屈で、オタク文化の迷路こそアメリカの、いや近未来世界の「重層的ないま」をとらえる網の目と作者は考えたのだろう。

 それにしても、オスカーくん、二次元キャラじゃなく、いつも三次元の生身の人間を好きになり、最後まであきらめずにアタックするところが泣かせます。
 そして最後に特筆すべき点をひとつ。あれだけ頑固な母に育てられ、強烈な性格の姉といっしょに暮らしながら、主人公オスカーにミソジニー(女性嫌悪症)がかけらもない。マチスモ(男尊女卑)の濃厚なラテンアメリカ世界から出てきたディアスにも感じられない。これは特筆にあたいする。女たちの内面をじつに生き生きと描ける秘密はそこにありそうだ。訳も丁寧ですばらしい。
  
ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』都甲幸治/久保尚美訳(新潮社刊 2400円)

*****
5月11日付記:一カ月前に書いたものを今日アップします。

2011/04/09

道化──「人それを呼んで反歌という」より

今日は2002年に逝った安東次男の命日。『安東次男全詩全句集』(思潮社刊、2008)から彼の詩を一篇ここに写す。

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道化
 La Grille est un moment terrible pour la sensibilité, la matière. ──Antonin Artaud


色彩の興奮が撒き散らす
花粉たちの中で
不確かに傾く
一本の線
幼年の上の
弛緩を支える
饑餓の心棒
すでにして倦怠と
新鮮さはそこから生まれる
この昼の中の昼を持つ目と
夜の中の夜を持つ目は
心臓の鼓動の一つ一つのように
ぜつたいにまじわらない単音だ
遅日のゆがんだ
植物性の壷をつくる
饑餓をもつ種子たちが
手に手に過去の苞をたずさえて
そいつをこわしに到着する
 内部の到着
 静脈の中のふくれた風景
不透明な壷の内壁へ垂れる
粘稠な黄は
最初の存在となる
痴情は
べたべたに花粉を塗りたくつた
壷に
ぎりぎり巻きつけられる
そのとき壷は 見られることへの
痛みとなって発する

       (四月)「CALENDRIER」(1960年)初出

2011/04/07

「ずっとウソだった!」

こんなのみつけました。斉藤和義の「ずっと好きだった」の替え歌です。歌うは likeasaito さん。(オリジナルバージョンはあっという間に消されたようです! キキタカッタナア。いや、ひょっとするとこれは・・・)

ここですよん

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『ずっとウソだった』 作詞作曲:斉藤和義

この国を歩けば、原発が54基
教科書もCMも言ってたよ、安全です。

俺たちを騙して、言い訳は「想定外」
懐かしいあの空、くすぐったい黒い雨。

ずっとウソだったんだぜ
やっぱ、ばれてしまったな
ホント、ウソだったんだぜ
原子力は安全です。

ずっとウソだったんだぜ
ほうれん草食いてえな
ホント、ウソだったんだぜ
気づいてたろ、この事態。

風に舞う放射能はもう止められない

何人が被曝すれば気がついてくれるの?
この国の政府。

この街を離れて、うまい水見つけたかい?

教えてよ!
やっぱいいや…

もうどこも逃げ場はない。

ずっとクソだったんだぜ
東電も、北電も、中電も、九電も
もう夢ばかり見てないけど、

ずっと、クソだったんだぜ

それでも続ける気だ

ホント、クソだったんだぜ

何かがしたいこの気持ち

ずっと、ウソだったんだぜ

ホント、クソだったんだぜ

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2011/04/04

ある原子力専門家のコメント

Mon pays natal さんのサイトでこんな情報を見つけました。京都大学原子炉実験所の小出裕章さんの意見へとつながります。

 内容をここにもペーストします。

【コメント】
私は原子力を専門としていながら、原子力を廃絶したいと思います。その理由は原子力が危険だからという前に、原子力が始めから終わりまで差別に基づかないと成り立たないからです。
六ヶ所再処理工場は享楽的な生活とは無縁な六ヶ所の住民を被曝させ、下請け労働者を被曝させます。それを選択することになんら関与することもできない世界中の人々、そして将来の世代を被曝させます。
放射能はあらゆる生命体に対して有害であり、原子力は廃絶すべきものです。

2011/04/03

ぶれずに怒りたい、正しく怖れたい

 あちこちのブログから、今回の原子力発電所の事故後の政治やメディアをめぐって、はっきりと「原発ノー!」という声が聞こえはじめた。その特徴は、これまでの「便利で」「快適な」「都会型」の生活を根本的に見直そう、という論調に裏づけられている。

 たとえば、norah-m さんの「福島原発事故によせて」
 それを引用した Mon pays natal さんの「山川草木鳥獣虫魚のために」
 あるいは、ハマイカブレイクさんの「ことばのポトラック」について書いたことばたち

 これほど大きな汚染とダメージを土に、水に、海に、それをたよりに生きている生き物すべてにおよぼしながら、人びとの生活を徹底的に破壊した「人災」である原発事故を避けることができなかった「知識人」「専門家」たちの責任のがれと、論理のすりかえの巧みさは、いったいどこからくるのだろう? 本当にことばを失う。いまだに原発を推進するというこの国の政治は、富めるものの経済利益を調整するだけなのか。

 彼らが「ことば」を専門にあつかう権力をもつ人たちであることにも、打ちのめされる思いがする。
 
 でも、あきらめるのはまだ早い。生きているかぎり、あきらめるのは自分の人生を放棄することに等しいのだから。

 理不尽なことには「ぶれずに怒りたい!」 放射能はいたずらに不安がらず、信頼できる人たちから情報をえて「正しく怖れたい!」
 
(写真はネット上で見つけた50〜60年代?の日本) 

2011/04/02

「ことばのポトラック」が動画に!

3月27日に渋谷「東京サラヴァ」でおこなわれた大竹昭子さん企画の「ことばのポトラック──3.11のかなしみをのりこえるために」がYOUTUBE にアップされました。

二部に分かれています。どちらも、とても丁寧に映像化されています。ぜひごらんください!

 Part1

 Part2

出演者ほか:

1.佐々木幹郎「鎮魂歌」

2.くぼたのぞみ「日本語という島で生きのびるための三篇の詩」

3.古川日出男『聖家族』より「馬」

4.東直子・短歌

5.管啓次郎(朗読)「Omninesia」より3編
管啓次郎+Ayuo(朗読とギター)「北と南」より3編
Ayuoのソロ演奏「きみのねむるすがた」 (作詞・作曲Ayuo)
「Drawing Lines by」 ((Poetry by Ayuo)
「Ballad of the Queen Who Died For Love by Maurice Ravel 」(Words by Roland De Mares, translated by Robert Hess)                

6. 平田俊子「ゆれるな」「ひ・と・び・と」「うらら」

7.  堀江敏幸『アイロンと朝の詩人』より「「言葉」抜いた大人たち」

8. 南映子「夜行バスは、シワタネホへ」(自作詩)
「トゥスカーニア 7」(ペドロ・セラーノ詩)

9. 間村俊一「うぐいすとなゐ」

10. 小池昌代『コルカタ』より「桜を見に」

11. 佐々木幹郎「明日」(朗読)/かのうよしこ&小沢あき(歌とギター)武満徹歌曲「小さな空」「三月のうた」「MI・YO・TA」

2011/04/01

ことばの力、メディアの・・・

Kさんのブログにのっていたアドレスへ飛ぶと、長崎大学に関するこんな文章が。これまでの東電と「一流大学」との関係がわかる。

今朝のA新聞に大きく掲載されていた元某大学総長のインタビューを読んで、ちがうだろ、ちがうだろ、あなたの責任はどこに? 学者は自分の発言がもたらした結果に責任を負わなくてもいいのか? と思いながら、上記の記事へ飛んだあと、やっぱりなあ、と・・・。

 今朝の新聞記事はエイプリルフールじゃないよねえ。

 水俣病のときの愚挙をくりかえさないでほしい。本当に!!



原子力資料情報室から原子力安全委員会へのメッセージ>の一部を転載します。

4 メディアからは、「専門家」が放射線被曝による「健康影響はない」、「発がんのリスクはない」と繰り返し主張している映像が垂れ流されている。「専門家」に、このような曖昧な科学を語らせ続けてよいのか。
 この結果、関心のある人たちには、いっそうの不安をあたえ、関心のない人たちは「専門家」の言葉を信じて、比較的高い空間線量が観測されているにもかかわらず、子供たちを屋外で遊ばせている。発がんのリスクを正しく伝えること。

これは爽快!──空飛ぶペンギン

今年もまた桜の季節がやってきた。いつものように窓からはユキヤナギの白、杏のうすいピンク、遠くにレンギョウの鮮やかな黄色、そしてつぐみが賑やかに朝からさえずる。
 
 Mさんのブログで知りました。爽快な映像です。感動的な映像です。

 ペンギンって空を飛ぶんだ!! 空を飛ぶ「4月の魚」!