Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2023/03/10

読書記録──三浦英之著『太陽の子』

三浦英之著『太陽の子、日本がアフリカに置き去りにした秘密』(集英社、2022)を一気読みした。

 1960年代からコンゴ民主共和国で大規模な鉱山開発をした日本企業があった。鉱物資源企業「日本鉱業」だ。それはちょうど石炭が斜陽になっていった時期と重なる。資源を持たない国は必然的に、必要に応じてこの地球上で鉱山資源が埋まっている場所を試掘し、採掘し、精錬し、輸送し、と大規模展開をすることになる。
 そして、その企業活動のために、コンゴに約500名の日本人が住んでいた時期がある。1970年代から80年代にかけてだ。銅を採掘するための拠点として、事業所はもちろん、企業活動をする人たちのために住宅、宿舎、学校、病院などが建設された。

 何年もの労働と生活の場としてのコンゴで、コンゴ人女性と「結婚」して子供を作った日本人男性たちがいた。問題は女性たちが10代の少女だったことだ。日本人男性は20-40代。企業が撤退することになったとき、妻と子供たちは置き去りにされた。それはどういうことだったのか。その時代のコンゴと日本の社会状況、世界経済の波、さまざまな要因を考え合せながら、朝日新聞のアフリカ特派員、三浦英之は6年という歳月をかけて深く、長く取材を重ねていく。

「お父さんに会いたい、お父さんを探してください。僕は、私は、日本人なんです」

2006年版ペーパーバック
 そう語る「残された子どもたち」のインタビューが「フランス24」に流れ、さらにBBCの記事にもなったことは、わたしも鮮明に記憶している。日本人の病院でコンゴ人女性が産んだ赤ん坊が殺されたという噂がたった。それがニュースになった。これは、その報道内容がどこまで事実で、どこまでが「裏付けなしの一方的な報道」かを検証した報告書である。労を惜しまずに多くの人に直接インタビューをして書かれた報告書は、読みはじめたら止まらなくなり、最後まで一気に読んだ。
 コンゴの、できるだけ多くの人たちに直接インタビューをして話を聞いていく。日本に帰国した時は鉱山会社の人、コンゴで働いていた男性たちを探し出して話を聞く。そんな三浦記者を支えていたのは、長年コンゴに住み暮らしてきた70代の2人(いや在コンゴ日本大使館の人もいたから3人)の日本人カトリック教徒だったことが印象的だ。

 コンゴで鉱山開発が行われた60-70年代というのは、九州や北海道の炭鉱が相次いで閉山に追い込まれた時期でもあって、失職した炭鉱労働者がコンゴへ「出稼ぎ」に行ったことは想像に難くない。また著者が「あとがき」で「アフリカで鉱山開発に携わった少なくない数の労働者たちが帰国後、新しい、「純国産エネルギー」を支えるため、各地の原子力発電所へ送られている」と書いていることも忘れがたい。


 一時期「ザイール」という名になり、いまはまた「コンゴ」に戻ったこの国は、アフリカで最も広い面積を持っている国だ。かつては生ゴムの最大の輸出国でもあった。コンゴ河が海に流れこむ地域はフランス、ベルギー、イギリスなどの帝国による争奪戦になった。やがてウェールズ生まれの「ジャーナリストで探検家」スタンリーとベルギー国王レオポルド2世の結託で、長期にわたり「国王の私有地」となり、自動車のタイヤの爆発的なニーズによってゴム生産で巨大な富を生み出すようになる。そして第二次世界大戦後は、南東部カタンガ州がとりわけ鉱山資源が豊かなゆえに、ヨーロッパ諸国をはじめ世界中から熱い視線を浴びつつける。PCなどの蓄電池に欠かせないレアメタル、タンタルを含むコルタンの産出では他の追随を許さないからだ。アフリカのこの地域を長期にわたり「紛争地」にしておくことで利を得ている人たちがいるのだ。

 アフリカ諸国が次々と独立する1960年に、ベルギー領コンゴもまた独立。初代大統領にパトリス・ルムンバが選出された。だが、カタンガ州の鉱物資源の利権をめぐる権力闘争ゆえに暗殺された。『ルムンバの叫び』という映画にもなった。つい最近もこの暗殺にCIAとベルギー政府が絡んでいたことが明らかになったばかりだ。

 コンゴ事情を知るために三浦記者が参考資料としてあげている、藤永茂著『『闇の奥』の奥』(三交社、2006)は、出版されたときすぐに読んだ。だが、残念でならないのは、この本を書く動機になったというアダム・ホックシールドAdam Hochschildの名著『レオポルド王の亡霊/ King Leopold's Ghost, A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa』(2006アップデート版)が日本語に翻訳されていないことだ。当時、企画会議にかけた出版社もあったと伝え聞くが、出版にいたらなかったのは日本の読者にとっても残念極まりない。

 なぜなら『レオポルド王の亡霊』という本は、現在のコンゴがなぜあのような国でありつづけるのか、レアメタルをめぐる紛争と筆舌に尽くし難い女性への性暴力の根幹を知るための必読書といえるからだ。ノーベル平和賞を受賞したムクウェゲ医師のところで止まらずに、いまからでも遅くないので、ぜひ、どこかの出版社がこの『レオポルド王の亡霊』を出さないものだろうか。

  調べてみると、原著はペーパーバックの表紙が何種類も出てくる。何度も版をあらためて、長期にわたって読み継がれているようだ。最近ではバーバラ・キングソルヴァーの序文がついた版もあるし、電子版もあるので、試し読みができる。コンゴについての基本的な史実を知りたい人には、いや、世界経済の根幹をなす「資源」について知りたい人に、超おすすめです。

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2023.3.11──昨夜、このブログを書きながら写真をうまくアップできずにいるうちに、消えてしまった部分があったことを、ある人から教えていただいた。それは図らずも今日で12年目を迎える「3.11」の原発事故と深く関係する部分でもあった。それを補ったことを付記しておく。


2023/03/08

「海外文学の森へ 51」:ジャン・フランソワ・ビレテール著・笠間直穂子訳『北京での出会い もうひとりのオーレリア』

東京新聞の「海外文学の森へ」(2023.3.7夕刊)で、ジャン・フランソワ・ビレテール著・笠間直穂子訳『北京での出会い もうひとりのオーレリア』(みすず書房)を紹介しました。

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 最愛の伴侶を失ったとき、人はそれをどう悼むのか。本書には一九三九年スイス生まれの中国思想研究者ジャン・フランソワ・ビレテールの二冊の著書が収められている。前半『北京での出会い』は若き留学生が北京へやってきた六三年から書き起こされるが、先に書かれたのは後半『もうひとりのオーレリア』だ。

 一般人が外部世界とのやりとりを厳しく制限されていた北京で、ビレテールは医師の崔文(ツイウェン)に出会う。困難を潜り抜けて結婚にたどり着いた二人は、文化大革命が始まるころ危機一髪、シベリア鉄道経由でスイスへ向かう。だがその後長いあいだ文は家族と連絡が取れなかった。


 やがて読者は、文の家族が置かれていた状況を、彼女の次兄の語りによって知ることになる。六〇年代中国社会が、内部で生きた者の証言によって、詳細に照らし出されていく。当時は知り得なかった暮らしの細部を伝えるナラティブに、思わず手に汗握って読みふけってしまった。


 中国へ再入国できなくなったビレテールと文は、やむなく日本へやってきて京都に滞在した。六〇年代末の大学のようすを「五月のパリ」と比べる日本人に、ビレテールは「錯覚です」と応じる。五月のパリを実体験し、中国社会の内部をその目で見た者の視線の確かさが光る箇所だ。


 にべもないその応答に、わたしは視界から一気に曇りが吹き払われる思いがした。六〇年代末の日本で、ある種ファッションだった紅衛兵帽や、大学の壁に太く描かれた「造反有理」グラフィティの記憶に、異なる角度から強い光が当たったからだ。


 後半『もうひとりのオーレリア』には不意に逝った妻への追想が、日記風に記される。芸術作品の「使用法を教えてくれる案内書」と解説にあるように、これはネルヴァルの著作を下敷に、文と共に生きた時間を忘却と創作の力で新たなロマンスの殿堂へ再構築する試みといえるだろうか。


 記憶のなかで揺れる「わたしたち」の細部を固定しようとする情動の不確かさを、穏やかで淡々とした、見事な翻訳がすくいあげていく。


 ことばそのものを深く味わえる一冊である。


  くぼたのぞみ(翻訳家・詩人)