八戸が舞台の小説である。八戸というのは「耳懐かしい」地名なのだ。学生時代に夏休み、冬休みになると上野から青森まで夜行列車に乗った。青森から函館までは青函連絡船だ。函館からさらに特急を乗り継いで滝川へ。
その旅で、青森に着く少し前の駅が八戸だったと記憶している。降りたことはないけれど。作中に出てくる青森弁というか八戸弁というか、東北訛りというか、とにかく全部がすべて理解できるわけではないけれど、この本にでてくる会話はルビの振られた「意味」を見なくてもおよそあたりがつくものが多い。なかには、これは聞いたことがある、耳にしたことがある、いやいや、わたし自身が使ったこともある、という語に何度か出くわした。
つまり、わたしが育った北海道中部の農村の訛りは、八戸の訛りと共通する表現が多々あったことに、いまさらながら気づいたのだ。ふむふむ、ふむ。土臭い、というか、泥臭いというか。そこには洗練という名のトリックがない。
ずどんと心の底まで打つような、その八戸訛りのパワフルなこと。それが作品に「劇薬的な効果」をおよぼしていて、すばらしいのだ。そのことは書評にも書いた。しかし、それ以外のことは、まあここでは触れないでおこう。クッツェーとか、ドストエフスキーとか、宮澤賢治とか、出てきます。詳しい内容は、ぜひ、書評そのもので確認してください。
聖性を鏡に映すダークコメディ
「すばる 3月号」2月6日発売(集英社)に掲載です。