2026/09/08

無数の「薮」のなかを彷徨する⎯マリー・ンディアイ『復讐はわたしのもの』

夏休みも終わり、復帰した。ひさしぶりの読書だったこともあって、あっというまに読んだ。クラクラするほど面白かった。

  マリー・ンディアイ『復讐はわたしのもの』笠間直穂子訳・早川書房 

 原題は、LA VENGENCE M'APPARTIENT

 もとは旧約聖書の申命記にあることばだ。日本では文語訳の『復讐するは我にあり』というタイトルで佐木隆三が小説を書き、今村昌平監督が映画化した。70年代のことだ。映画は見なかったけれど大きな話題になった映画のタイトルとしてしっかり記憶している。

 2021年に原作が出版されたマリー・ンデイアイの『復讐はわたしのもの』は、売れない女性弁護士シュザーヌが主人公で、語りの中心にいる。ある日、事務所に一人の男がやってくる。この男、知っている、と咄嗟にシュザーヌ弁護士は思う。男は、三人の子供を殺したマルレーヌという女の夫で、ジル・プランシポと名乗った。でも事件として報道される前から知ってる、とシュザーヌ弁護士は思うのだ。

 自分は15歳のときのこの男を知った、とシュザーヌ弁護士は直感的に思うのだが、名前は果たしてプランシポだったか、自分はまだ10歳だったはずで、、、いきなり記憶のもやのなかへ突入する彼女は、どうにも確信が持てない。あれは母親がアイロンがけを頼まれてその仕事についていったときの出来事で、、、プランシポという家だったのか、、、それとも、、、でもそこで起きたことはとてもポジティヴなものだったと自分の記憶にはしまい込まれていて、そのおかげでこうして弁護士になるまで頑張れたのだけれど、でも、あれは、現在の価値観からすれば、、、父親に言わせるとまったく別の出来事のようで、、、

 事務所を訪れたその男から子殺しをした妻の弁護を依頼されて、、、シュザーヌ弁護士はその妻マルレーヌに会いに行って話をするのだが、、、はたして、、、

 最初は付箋をつけたり、余白にメモを書き込んだりしながら読んでいったけれど、3分の2ほど進んで、ンディアイの揺蕩う独白の波にさらわれて一気に読み切った。一組の夫婦と3人の子供。シュザーヌ弁護士と両親、シュザーヌ弁護士の元恋人ルディとその幼い娘リラ、シュザーヌ弁護士の家事をするモーリシャス出身のシャロンとその子供たち。スーパーで偶然会ったとき、シャロンは毅然とした表情で子供たちを、、、(最初から最後まではしょらずに「シュザーヌ弁護士」と記されるのが効いている!)

 夫婦や親子の関係にジェンダーや人種の影を絡ませながら、物語の底辺にはドロリと澱みながら「階層」「階級」の動かしがたい力が流れている。普段はあたり前のこととして受け入れてはいるが、実は、この力が人間の心理にどのような無言の力をおよぼすか。教師をしていたのに自分より上の階級の男と結婚して、子供を育てるために教職を諦め、そのためか母親や姉妹とも行き来をしなくなってしまったマルレーヌ(夫ジルの話では夫婦はとても仲が良くて、家族も申し分なく幸せだったというが・・・)、そして、弁護士にまでなったシュザーヌにも、、、ひょっとすると、この作品はそこが読みどころかもしれない。

 語りはちくちくと幾重にも絡まるいばらのような権力構造の内部で、人と人の関係と心理が永遠に定まらない無数の「薮」のなかを彷徨するかのよう。とにかくあらゆることが定かではないのだ。読み手はその彷徨にのっけから全身を包まれる。舞台は冬のボルドー。ずっと曇っている、ずっとだ。でも最後に主人公がモーリシャスへの旅をする。それが記憶と猜疑への悪魔祓いとなって着地へ向かう! 靄が切れて光が差しこむ。

 奴隷貿易に携わっていた家系の名前を変えたいという依頼人の登場が効果をあげているのも見逃せない。最後の裁判のシーンに、3人の子供を殺した女性を閉じ込めていた「家」、というキーワードが出てきて幕が降りる、みごと!


 マリー・ンディアイは最初にインスクリプトから笠間さんの訳で出た『みんな友だち』を北海道新聞で書評したのが、わたしの最初の記憶だ。おなじ出版社から『心ふさがれて』も出たけれど、なぜかぼんやりとしか覚えていない。それ以後も『ロジー・カルプ』(田久保麻理・訳)『逞しい三人の女』(小野正嗣・訳)と2冊も翻訳が出ている(いずれも早川書房)。でも、とにかく『みんな友だち』が衝撃的だった。こういうアフリカ絡みの小説はじめて読むかも、と感じたことを思い出すのだ。

 そのせいだろうか、日本語に上陸してから20年と感慨深い。訳者あとがきがとても充実している。そこに出てくるンディアイの自伝的作品『善人ドゥニ』がいたく面白そうだ。「老いゆく母のこと、語り手の幼少時に家を出てセネガルへ戻った父のこと、そして父に会いに未知の国へ降りたった若い女性のことを、ドゥニという名の人物を通じて全篇がつながるように描いた連作」とある。これはぜひ、ぜひ読みたい!

 とにかくンディアイはこんなにすごい作品を書く作家になっていたのを実感した読書だった。間違いなく現代フランスを代表する作家だろう。ノーベル文学賞の候補と噂されるのも十分わかる。

 ちなみにンディアイは映画「サントメール」のシナリオも書いていて、あの映画にもこの『復讐はわたしのもの』にも「子殺し」というテーマが流れている。母性という名の「美名」に閉じ込められる暴力性と抑圧、その制度的な構造と、心理の力学を、21世紀という時代に、ポジとネガの境界を定めずに、ひたひたと言語化してンディアイは伝える。読むことが無数の薮のなかを彷徨うことになるのも必然である。

 藪の向こうを凝視すること。定まった答えはない。自分の経験と知識を総動員して見つけるしかない。そこがたまらなく刺激的だ。☆