2003年10月に時事通信のために書いた拙文を「南アフリカのワインを飲む会」からここへ移動します。移動にあたって、事実関係をより正確にするため2箇所、加筆しました。
あくまで2003年の時点で書いたものです。その後のことは2006年8月に出た拙訳『マイケル・K』のあとがきや、このサイトの「クッツェーの微笑、あるいは…」に詳述しましたので、参照してください。
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「2003年のノーベル文学賞はJ.M.クッツェーが受賞」
J・M・クッツェーが、ついにノーベル文学賞を受賞した。
毎秋、最終リストに彼の名が残るようになって何年になるのだろう。最初に耳にしたのは『マイケル・K』を訳していたときだから15年も前のことだ。以後『夷狄を待ちながら』など8作品が邦訳されている。
南アフリカの作家、ジョン・マクスウェル・クッツェーは1940年2月9日、オランダ系植民者(アフリカーナー)の父ザカライアスと、アフリカーナーとドイツ系植民者の娘である母ヴェラとのあいだに、ケープタウンで生まれている。クッツェーという名は典型的なアフリカーナーの姓だが、家庭では英語が使われたため、この作家の第一言語はアフリカーンス語ではなく、英語になった。
人種によって苛烈に区分けされた社会でアウトサイダーとして育ったことが、作家としての自己形成に深く影響していることは間違いない。アパルトヘイト(人種隔離)体制が強化された1940〜50年代の南アで、複雑な疎外感を感じながら成長したころのことは拙訳『少年時代』にも詳しい。
ケープタウン大学で数学と文学を学んだ後、ロンドンでコンピュータプログラマーとして働きながら修士論文を書き(この時代のことは『青春時代』未邦訳…に詳しい)、さらに米国のテキサス大へ留学し言語学で博士論文を仕上げた。ニューヨーク滞在時にベトナム反戦集会に出たため、ビザが発給されなくなり、やむなく帰国。ケープタウン大学の教職を得て、74年に実験的作風の『ダスクランズ』を出版したのを皮切りに、発表する作品が次々と名だたる賞を受賞。1999年にはブッカー賞史上初の、2度目の受賞者となって、マスコミの話題をさらった(受賞作は83年の『マイケル・K』と99年の『恥辱』)。最新作の『エリザベス・コステロ』を含めて、これまでに小説やメモワールを11冊、エッセイ集を4冊発表、アンドレ・ブリンクとの共編著やアフリカーンス語からの翻訳などもある。
クッツェーは、91年におなじくノーベル文学賞を受賞した南アの作家ナディン・ゴーディマと、作風や政治的スタンスなどをよく比較される。ゴーディマの作品が南アを舞台にしたリアリズムに貫かれているのに対し、クッツェーは一作ごとに南アと架空の舞台を行き来しながら書き方を変えてきた作家だ。
だが、寓話的な手法を駆使した検閲制度下でもアパルトヘイト撤廃後も、無駄をそぎ落とした文体、痛々しいほどの内省といった特徴は変わっていない。西欧的カノンを引用し解体し、パロディ化しながら西欧植民地主義の源を根底から批判しようとする、知的で倫理的なその作風は、読者の意識の薄皮を何枚も剥がし、微妙にずらし、後戻りできないところへと導いていく。一度読んだら病みつきになる作家である。
たまたま南アフリカという土地に白人として生を受けたことに、あくまで個人として向きあおうとする作家クッツェーの受賞は、狭い集団意識に逃げ込もうとする人間への痛烈な批判でもあり、また、西欧中心主義的な世界文学の受容から抜け出せない北のアカデミズムへの、南半球からの強力なパンチとも受け取れる。
大のマスコミ嫌いで、ブッカー賞受賞式を2度とも欠席するという徹底ぶりだ。今回の受賞も、定例講義のためにシカゴ大学に滞在していたクッツェー自身はまったく知らず、スウェーデン・アカデミーが本人と連絡を取るのにずいぶん手間取ったと報じられた。
人柄は誠実そのもの、拙訳書を送るたびに、几帳面にすぐ返事をくれた。『少年時代』の翻訳時、作品内の時間的矛盾について質問すると「嗚呼(アラース)、間違いました」とじつに率直なことばが返ってきたことを思い出す。
あくまで2003年の時点で書いたものです。その後のことは2006年8月に出た拙訳『マイケル・K』のあとがきや、このサイトの「クッツェーの微笑、あるいは…」に詳述しましたので、参照してください。
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「2003年のノーベル文学賞はJ.M.クッツェーが受賞」
J・M・クッツェーが、ついにノーベル文学賞を受賞した。
毎秋、最終リストに彼の名が残るようになって何年になるのだろう。最初に耳にしたのは『マイケル・K』を訳していたときだから15年も前のことだ。以後『夷狄を待ちながら』など8作品が邦訳されている。
南アフリカの作家、ジョン・マクスウェル・クッツェーは1940年2月9日、オランダ系植民者(アフリカーナー)の父ザカライアスと、アフリカーナーとドイツ系植民者の娘である母ヴェラとのあいだに、ケープタウンで生まれている。クッツェーという名は典型的なアフリカーナーの姓だが、家庭では英語が使われたため、この作家の第一言語はアフリカーンス語ではなく、英語になった。
人種によって苛烈に区分けされた社会でアウトサイダーとして育ったことが、作家としての自己形成に深く影響していることは間違いない。アパルトヘイト(人種隔離)体制が強化された1940〜50年代の南アで、複雑な疎外感を感じながら成長したころのことは拙訳『少年時代』にも詳しい。
ケープタウン大学で数学と文学を学んだ後、ロンドンでコンピュータプログラマーとして働きながら修士論文を書き(この時代のことは『青春時代』未邦訳…に詳しい)、さらに米国のテキサス大へ留学し言語学で博士論文を仕上げた。ニューヨーク滞在時にベトナム反戦集会に出たため、ビザが発給されなくなり、やむなく帰国。ケープタウン大学の教職を得て、74年に実験的作風の『ダスクランズ』を出版したのを皮切りに、発表する作品が次々と名だたる賞を受賞。1999年にはブッカー賞史上初の、2度目の受賞者となって、マスコミの話題をさらった(受賞作は83年の『マイケル・K』と99年の『恥辱』)。最新作の『エリザベス・コステロ』を含めて、これまでに小説やメモワールを11冊、エッセイ集を4冊発表、アンドレ・ブリンクとの共編著やアフリカーンス語からの翻訳などもある。
クッツェーは、91年におなじくノーベル文学賞を受賞した南アの作家ナディン・ゴーディマと、作風や政治的スタンスなどをよく比較される。ゴーディマの作品が南アを舞台にしたリアリズムに貫かれているのに対し、クッツェーは一作ごとに南アと架空の舞台を行き来しながら書き方を変えてきた作家だ。
だが、寓話的な手法を駆使した検閲制度下でもアパルトヘイト撤廃後も、無駄をそぎ落とした文体、痛々しいほどの内省といった特徴は変わっていない。西欧的カノンを引用し解体し、パロディ化しながら西欧植民地主義の源を根底から批判しようとする、知的で倫理的なその作風は、読者の意識の薄皮を何枚も剥がし、微妙にずらし、後戻りできないところへと導いていく。一度読んだら病みつきになる作家である。
たまたま南アフリカという土地に白人として生を受けたことに、あくまで個人として向きあおうとする作家クッツェーの受賞は、狭い集団意識に逃げ込もうとする人間への痛烈な批判でもあり、また、西欧中心主義的な世界文学の受容から抜け出せない北のアカデミズムへの、南半球からの強力なパンチとも受け取れる。
大のマスコミ嫌いで、ブッカー賞受賞式を2度とも欠席するという徹底ぶりだ。今回の受賞も、定例講義のためにシカゴ大学に滞在していたクッツェー自身はまったく知らず、スウェーデン・アカデミーが本人と連絡を取るのにずいぶん手間取ったと報じられた。
人柄は誠実そのもの、拙訳書を送るたびに、几帳面にすぐ返事をくれた。『少年時代』の翻訳時、作品内の時間的矛盾について質問すると「嗚呼(アラース)、間違いました」とじつに率直なことばが返ってきたことを思い出す。