2008/02/06

『厄年日記/Diary of a Bad Year』

 昨年9月、南アフリカ出身のノーベル賞作家、J・M・クッツェーの新しい小説『厄年日記/Diary of a Bad Year』が出版された。小説と銘打たれてはいるけれど、この作品には凝った仕掛けがある。

 舞台は、現在この作家が住むオーストラリア、主人公は一人暮らしの72歳の男性作家、「強力な意見」を書いてくれという、ドイツの出版社からの注文に応じて原稿を執筆中だ。国家の起源について、アナーキズムについて、デモクラシーについて、と「意見」が述べられていく。
 ある静かな春の朝、彼が住む高層マンションの1階ランドリールームで、真っ赤なワンピースを着た、若くて魅力的な女性、アンヤを見かけたところから「物語」が始る。

 冒頭部分が、作品の出版より数カ月前に、ある雑誌(New York Review of Books)に発表されてから話題沸騰のこの作品、じつは各ページが3段に区分けされているのだ。上段に「意見」が、2段目に老作家の声が、下段にアンヤの声が展開する。混成3部合唱のような、ポリフォニックな物語構成は、まるで室内楽のスコアを見ているよう。
(こんな構成の本を翻訳するときは、どうすればいいのか?! 横書きの言語ならそのまま移すこともできるけれど、日本語のような縦書き言語の場合は──翻訳者も編集者も思案に暮れそう!)

 さて、新境地を開くクッツェー氏が、一昨年の秋につづいて、昨年12月初旬に再来日した。今回は国際交流基金の招きで、東京、金沢、京都、広島、愛媛、長崎を訪ねてまわる2週間の旅だ。
 今年10月に刊行予定の拙訳『鉄の時代/Age of Iron』内の、メールでは伝わりにくい、固有名詞の発音上の疑問点を解決するために再会した。滞在先のホテルを訪ねると、几帳面なクッツェー氏はふたたび約束の時間きっかりにあらわれた。でも今回は初対面のときの緊張感はなく、終始にこやかに会話が進み、稔り多い会見になった。(この作家の「名前へのこだわり」については、次回に。)

 それから10日後の12月17日に、東京駒場で開かれた自作朗読会でのこと。作家は三声の『厄年日記』を微妙にアレンジし、切り替えのたびに「スイッチ」といいながら朗読した。印象的だったのは、朗読後、珍しく会場から質問を受けつけ、それに丁寧に答えていたことだ。

 駆け足で各地をまわった作家の日本への関心は、さて何処に? 長崎の出島記念館をまず第一の希望として訪れた、オランダ系植民者の末裔であるクッツェー氏、次作には江戸時代の日本が登場するのだろうか?
 ちなみに『鉄の時代』は、河出書房新社刊の世界文学全集第1期11巻に入る。
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2008年2月5日、北海道新聞夕刊に掲載されたコラムに加筆しました。