引用するのは、この上段の「強力な意見/Strong Opinions」に含まれている。そのおおかたがメッセージ性をもつ文章で、これはJuanなる作家が書いていることになっているが、もちろんそこにはクッツェー自身の影がちらほら見え隠れしている。(この老作家を「セニョールC」なんて呼ぶ場面もでてくる!)
昨日の続きを引用する。
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このような展開は、ここ二十年、三十年前にさかのぼって始った、行儀作法の女性化(物腰をやわらかくすること)や、感傷的なものに仕立てることと無縁ではない。硬化しすぎて泣くことのできない男、あるいは、曲げることが不得手で謝罪できない男──もっと正確にいうと、謝罪の行為を(相手になるほどと思わせるように)演じようとしない男──は、さながら時代遅れの恐竜か、変な人物ということになり、流行遅れになってしまった。
最初、アダム・スミスは・・・(中略)・・・。現在の「文化」では、誠実であることと誠実さを演じることを、わざわざ識別しようとしない──実際、ほとんどの人が識別する能力を失っている──ちょうど、宗教上の信仰と宗教的慣習に服従することを識別しないように。これは真の信仰ですか? とか、これは真の誠実さですか? といった胡乱な質問をしても、ぽかんとした表情が返ってくるばかりだ。真実? なんですか、それ? 誠実さ? もちろん私は誠実ですよ──前にそういいませんでした?
高額で雇われるアメリカ人は彼の顧客に、真の(誠実な)謝罪を演じるにはどうするかを指導などしないし、見かけが真の(誠実な)謝罪でありながらじつは誤った(不誠実な)謝罪をするにはどうするかを指導するわけでもない。ただ、訴訟を起こされないための謝罪を演じるにはどうするかを指導するだけだ。彼の目には、そして彼の顧客の目には、予期せぬ、想定外の謝罪は、度を超えた、不適切な、計算違いの、それゆえに誤った謝罪のようなものなのだ。つまりは、金のかかる謝罪。金がすべてをはかる基準なのだから。
ジョナサン・スウィフトよ、きみがこの時代に生きていたらよかったのに。