2008/07/06

卵──安東次男詩集より(4)

 白いくさり卵を立てたように、木蓮の花が咲くと、子供は、また
醜い家鴨の子の話をせがむ。子供にはそれが大事な宇宙が壊れたよ
うに心配なのだ。赤い電車が、はがね色の気缶車が、銀のちいさな
お釜が、子供にはそれをのせて走る卵がなくなったように心配なの
だ。「タマゴ、ウムネエ」と子供は心配そうにいう。そして四つん
匐いになって尻をおとし、醜い家鴨の子の真似をして畳の上を匐っ
てまわる、「ガアガアガア」。痔病やみの父親たるぼくも、あとか
ら匐ってまわる。ぼくらは父と子と二人して、梅雨どきの匂い獣の
ように畳の上を匐ってまわるのだ。それからぼくは鶏小屋へ下りて
いって、鶏たちの朝の卵を一つ失敬する。そしてわざと子供にきこ
えるように大きな声でいう「借りるよ」。ぼくはできるだけでたら
めな盗賊であることを子供にも鶏たちにも分らせるように振る舞う
しかない。「そら」子供の前に卵をころがしていやると、子供は横
目でそれを見て「フフ」と笑う。おお何というあたらしい奇蹟がお
こっているのだ …… それから今度は子供が取りにゆく、子供は「カ
チルヨ」という。彼女はできるだけゆつくりと、宝ものの袋をあけ
るようにそれを畳の上にころがす、そして「ホーラ」といつて手を
うつて、「ウンダネ」と嬉しそうに笑う。それからもういちど、「ガ
アガアガア。」醜い家鴨の子の真似をして匐ってまわるのだ。父親た
るぼくも匐ってまわるのだ。
 そのような朝のひととき、暗い世界のうら側をのぞき見している
やつはたれだ。染め上げた脳の切片をピンセットではさむように、
無意味なことをするやつはたれだ。しかし卵にははさむところがな
い。それは、父と子の朝の太陽のように、大海のなかをころげてま
わるのだ。
            『蘭』─『安東次男著作集第一巻』より

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 前回取りあげた「みぞれ」はあまりに有名な詩です。1977年に出た著作集(青土社刊)の投げ込み月報に、詩人吉増剛造が寄せた「予感の折返し」という文でもこの詩が取りあげられていて、「安東次男の詩の根源を形成する、安東次男がものをみ、ものに触れるときの触れかたが、ここにその姿をあらわしている」とあります。
 今日書き込んだ詩「卵」は、安東次男の第二詩集『蘭』の最後におさめられた作品です。この詩篇を取りあげて論じる人は寡聞にしてわたしは知りませんが、詩人安東次男の人間臭い一面をあらわしている作品として、とても貴重だと思います。