はっきりと覚えているのは、ジャズは苦手だ、と考えた瞬間が、確かにあったことだ。たぶん16歳のときだ。北の旧植民地から、ひたすら憧れるメトロポリスの音楽は、クラシックとポップスだった。
80年代に入ってから「みんなビートルズを聴いていた」なんて、コピーが街のあちこちに貼られたことがあったけれど、あれは嘘だ。「みんな」が聴いていたわけではない。とりわけ地方の中学、高校では「ビートルズを聴く生徒は不良だ」と教師や親がかたく信じて疑わなかった時代、それが60年代なかばの日本だった。
わたしは中学生のとき、音楽室でEP盤(4曲入りのドーナツ盤)をかけて仲間と盛りあがり、職員会議にかけられたことがある。初来日したビートルズの武道館コンサートがテレビで放映される日など、高校の進路指導教官がわざわざ、あんなものは観るな、と授業中に念を押したりした。いまなら即「うぜーっ!」である。(ハニフ・クレイシの作品を思い出すよねえ。写真のアルバムは初めて自分のお小遣いで買ったLP。)
だから、騙されちゃいけない。あのコピーは、歴史的事実があとから書き変えられた典型的な例といっていい。
憧れのメトロポリスにやってきて1年、自分の好みががらりと変わっていくのがわかった。それまでの価値観のようなものを、ひたすら壊したい衝動にかられたのだろう。音楽も例外ではなかった、というより、音楽こそがそのもっとも重要な対象になっていたのかもしれない。音楽は耳という器官を通して、身体の奥底に入っていって、深くなにかを刻むからだ。
大学でそれまで属していたオーケストラ──指揮者という独裁者が統治する全体主義の極致!!──を辞めて、トリオ、クアルテット、クインテットといった、数人が対等に演奏する形式に惹かれていった。全体の一部になることではなく、単独の存在として他の存在と向き合う形式だ。
そう、「向き合うこと」だったのだ。それも、即興で。異なる存在と向き合うこと。楽器や声を通してやり取りすること。チャットすること。といっても、楽器を単独で弾くほどの腕はなかったから、残念ながら、もっぱら聴く方にまわざらるをえなかったのだけれど。
そして、夜のライヴスポット通いがはじまる。