2008/07/03

わたしのジャズ修業(3)──ニーナ・シモン

恐かった。こちらをにらんでいる、そう思った。「あなたがたに、わたしの歌が本当にわかるの?」と詰問されているようでもあった。

 大手町のサンケイ・ホールのステージにその人は立っていた。アップの髪に、腕と胸の出る白いロングドレスを着て、ピアノのキーを、太い腕で、力を込めて、叩くようにして弾いた。そして、喉から絞り出すような声で歌った。

 ニーナ・シモン。

「ニューポート・ジャズフェスティヴァル・イン・ジャパン」に出稼ぎにきたのだ。愛想なんか微塵もない。ほかのミュージシャンがお義理で見せる笑顔を、この人は一度も見せなかった。60年代の米国で黒人を中心にして盛り上がった公民権運動、その運動の渦中にいて、ディーヴァだった人だ。

 全然わかっていないのかもしれない、とそのときわたしは本気で考えた。そもそも「わかる」って、いったい何だ? ジャズはいい、ジャズじゃなければ、なんてはしゃいでいるけれど、上っ面をなでてるだけじゃないのか、と痛感したのもこの瞬間だった。まさに、頭から冷水。思えばそのとき、大きな宿題をもらったのかもしれない。黒い塊のような、理解不能のものを抱え込むことになったのだから。
 ニーナ・シモンを自分の部屋で聴くことは、ほとんどなかった。厳しすぎるのだ。疲れて帰ってきて、人は、また叱られるような歌を聴きたいとは思わない。アン・バートンやサラ・ヴォーンなんかのほうが、ずっと気持ちがやわらかくなって、肩の凝りもとれる。

 でも、ひっかかりはずっと続いていた。80年代初め、子育ての真っ最中に、トニ・モリスンの『青い目が欲しい』やアリス・ウォーカーの『メリディアン』を読んだとき、ここにあるのは、ニーナ・シモンの歌声とおなじ水源から流れてきた声だ。ことばになった声だ、つながった! と思った。意識の下で脈々と流れてきた水脈が、あるとき、ふいに、もうひとつの水脈と合流する瞬間だった。わが人生の最初の混乱期から、すでに、10年以上のときが流れていた。