昨日、エミリー・カーメ・ウングワレー展を観てきた。
すごかった。本当に、すごかった。
その絵を観たときにかきたてられた感情をどういったらいいか。おいそれとことばにするのが躊躇われるような、ことばにするとすべて嘘になってしまいそうな、そんな感情に襲われた。
ウングワレーは1910年ころ、オーストラリアの先住民/アボリジニとして生まれた人だ。1996年の死にいたるまでの最後の8年に、3000点とも4000点ともいわれる「作品」を描いた。
無文字の人だ。無文字ゆえの、多くのことばをもたなかったゆえの、観る者から一瞬「ことば」を奪うほどの迫力にみちた絵を描いた。それまで溜まりに溜まったものをその身体から噴出する、いや、暴発させる力によって、画布のうえで腕を動かしつづけ、去った人だ。
会場を出てからはたと考えた。このような力を受け止め、求め、憧れる者とは、いった何者なのか? 六本木という土地の冷房のきいた美術館で、遠く運ばれてきた絵としての彼女の作品を観る側にいる者、つまり、自分のことだ。自分からはすでに失われてしまった「プリミティヴなもの」を求めようとする「わたし」とは、いったい何者なのか?
家に帰って、思い出した。オーストラリア市民となったJ・M・クッツェーが『厄年日記』のなかで、先住民に対する「謝罪について」書いた文章を。
それを一部ここに訳出する。
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『オーストラリアの歴史における意味と無意味』と題する新著のなかでジョン・ハーストは白系オーストラリア人が先住オーストラリア人に対して、彼らの土地を征服し奪取したことを謝罪すべきかどうかという問題に立ち返る。懐疑的精神をもって彼は問いかける。正当な返還なしの謝罪がなんらかの意味をもつのか、事実上、それは「無意味」ではないのか、と。
これはオーストラリアにおける入植者の子孫にとってだけでなく、南アフリカの入植者の子孫にとってもまた、さし迫った問題だ。南アフリカでは、状況はある意味でオーストラリアよりも良い。なぜなら、白人から黒人へ農場の土地の返還が、強制返還というかたちを取らざるを得ないとしても、具体的な可能性として存在するからだ。だが、オーストラリアではこれがない。何ヘクタールもの土地を所有する権利、つまり、そこで作物を生育させ家畜を飼育できる土地を所有することは、たとえ、小規模農業がその国の経済のなかでそれほど重要ではなくなりつつあるとしても、きわめて大きな、シンボリックな意味をもつ。こうして白人の手から黒人の手へ移譲される土地の断片はどれも、かつての状態を復活させることで集結する土地返還の正当性を具体化するプロセスの、一段階をしるしているように思われる。
このような劇的なことがオーストラリアで計画されることはありえない。オーストラリアでは、下からの圧力が、比較的、弱く、断続的だ。非先住オーストラリア人は、ひと握りの人たちを除く全員が、この問題はひたすら消え去ることを願っている。合州国の場合とおなじように、先住民の土地に対する権利は消し去られ、消滅させられてしまったのだ。(つづく)