2008/07/30

謝罪について──J・M・クッツェー『厄年日記』より(2)

『厄年日記/Diary of a Bad Year』は2007年9月に発売された作品だが、これは3段組みのへんてこりんな(!?)構成の本で、上段にJuan(フアンと読むのか? ジュアンと読むのか? 英語なら、もちろん、ジョン──ああ、またまた!/笑)という老作家(南アフリカ出身で「Waiting for the Barbarians」という著作があるそうだ)がドイツの出版社の依頼で書いている「強力な意見」が番号をふられてならぶ。中段にはおなじマンションの最上階に住む若いフィリピン系の女性Anyaとの物語が展開し、下段には彼女とそのパートナーである男性Alanとの物語が展開する、という三層構造になっている。
 引用するのは、この上段の「強力な意見/Strong Opinions」に含まれている。そのおおかたがメッセージ性をもつ文章で、これはJuanなる作家が書いていることになっているが、もちろんそこにはクッツェー自身の影がちらほら見え隠れしている。(この老作家を「セニョールC」なんて呼ぶ場面もでてくる!)

 昨日の続きを引用する。
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今日の新聞に、法的義務を専門とするアメリカ人弁護士の広告が載っていた。時給650ドル(約8万円)でオーストラリアの会社に、義務を負わずに謝罪のことばを述べる方法を指導するとうたった広告だ。公式謝罪は、かつてはもっとも高いシンボリックなステイタスを確保していたものだが、経済人や政治家が現在の風潮──現在の「文化」と彼らが呼ぶもの──のなかで、物質的損失のリスクを負うことなく高い倫理性を獲得できる方法があることを学ぶにつれて、次第に価値のないものになってきている。
 このような展開は、ここ二十年、三十年前にさかのぼって始った、行儀作法の女性化(物腰をやわらかくすること)や、感傷的なものに仕立てることと無縁ではない。硬化しすぎて泣くことのできない男、あるいは、曲げることが不得手で謝罪できない男──もっと正確にいうと、謝罪の行為を(相手になるほどと思わせるように)演じようとしない男──は、さながら時代遅れの恐竜か、変な人物ということになり、流行遅れになってしまった。
 最初、アダム・スミスは・・・(中略)・・・。現在の「文化」では、誠実であることと誠実さを演じることを、わざわざ識別しようとしない──実際、ほとんどの人が識別する能力を失っている──ちょうど、宗教上の信仰と宗教的慣習に服従することを識別しないように。これは真の信仰ですか? とか、これは真の誠実さですか? といった胡乱な質問をしても、ぽかんとした表情が返ってくるばかりだ。真実? なんですか、それ? 誠実さ? もちろん私は誠実ですよ──前にそういいませんでした?
 高額で雇われるアメリカ人は彼の顧客に、真の(誠実な)謝罪を演じるにはどうするかを指導などしないし、見かけが真の(誠実な)謝罪でありながらじつは誤った(不誠実な)謝罪をするにはどうするかを指導するわけでもない。ただ、訴訟を起こされないための謝罪を演じるにはどうするかを指導するだけだ。彼の目には、そして彼の顧客の目には、予期せぬ、想定外の謝罪は、度を超えた、不適切な、計算違いの、それゆえに誤った謝罪のようなものなのだ。つまりは、金のかかる謝罪。金がすべてをはかる基準なのだから。
 ジョナサン・スウィフトよ、きみがこの時代に生きていたらよかったのに。