Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2007/10/16

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(2)

 翻訳をするとき、あるいは作家論や作品論を書くとき、テキストとしてどの版を使うかはとても重要なことだ。クッツェー氏の作品の場合、いつも最初に出るセッカー&ウォーバーグ社版とその少しあとに出るヴァイキング版では作りが微妙に違っていることがある。ハードカバーから1年ほどあとに出るペーパーバックでは、英国と米国の読者層の違いを考慮してか、表紙に書かれる推薦文やうたい文句などは、当然ながらまったく違う。だからこれは要注意。
 たとえばいまわたしが訳している『鉄の時代/Age of Iron』の場合、ペンギン版のペーパーバックの表紙には Novel という文字があるけれど、これはオリジナルのセッカー&ウォーバーグ社版ハードカバーにもヴィンテージ版のペーパーバックにもない。つまり出版社がその作品の「何を前面に出して売るか」ということで、本の作り方が違ってくるのだ。そういった細かな違いに著者自身がどこまで関与しているか、これは定かではない。テキストクリティックにあたっては、テキストそのものの信頼性、つまり書籍の制作のプロセスにも十分に考慮する必要がある。書籍として出版される前にエージェント経由で送られてくるタイプスクリプトを、翻訳テキストとしてそのまま使うのはさらに危険だ。固有名詞の変更など、テキスト上の微妙な変化がかならずといっていいほどあるからだ。

 メールでのやりとりが終わった6月初旬、クッツェー氏が来日するらしい、というニュースが飛び込んできた。一瞬、あわてた。18年前に彼の作品を初めて読んでから、そのうちいつか、一度は会えるといいなあ、と夢想してきた作家が来日する! それも数カ月後に! というのだから。まだ最終的に決まったわけではない、という。だれに尋ねても「来るらしい」とか「来る予定」という情報以外、詳細はわからない。しばらくしてから、ならば、と直接ご本人に確かめた。ちょうど『鉄の時代』の日本での翻訳出版が決まった直後だったせいもあり、幸いにもアポイントメントがとれた。

 会見には、むかし拙訳『マイケル・K』を送ったときに作家から届いた最初の手紙を持参した。日付は1991年4月。1989年暮れに『鉄の時代』をタイプスクリプトで読んだのち、ある出版社からの要請でシノプシスを作り、翻訳の計画を進めていると伝えた手紙への、作家からのお礼の手紙だった。
 遠いむかしに書いた自分の手紙を見て「ずいぶん早くから『鉄の時代』を翻訳する努力をしてくれていたのですね」とクッツェー氏はいった。たしかに。15年以上も前のことなのだ。だが、当時いくつかの出版社は、リアリズム小説だという理由で最終的にはこの作品を歓迎しなかった。なんでもかんでもマジックリアリズムで片づけられ、ポストモダンなることばがやたら流行ったころのことである。この作家がいわゆる「リアリズム」の手法で書いた作品は『恥辱/Disgrace』が最初ではなかった。翻訳して紹介されなかっただけなのだ。逆にいうとそれは『鉄の時代』という作品が日本で翻訳される機が熟するのに、16年の歳月が必要だったということなのかもしれない。(つづく)☆☆
***********************
付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。