Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2007/10/19

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(5)

 思えば、この作家の笑顔の写真はそれほど多くはない。翌30日、「ベケットを見る8つの方法」と題した講演で、クッツェー氏は写真に残るベケットやカフカの眼差しは、凍りついたような視線、犬のような目、といったことばで語られることが多いが、イメージと実物には大きなズレがあるのではないかと疑問を投げかけた。
 カフカはよく「ミスフィット」という語とともに語られるが、じつはこの作家は保険会社につとめる優秀な社員で、写真の眼差しによって作り出され、流布しているパーソナリティとはちがい、同僚たちから尊敬されていたのだ、それにしても「fit=適合する」という語は、たった一音節ながら、なんと容赦ないことばだろうか、と。その前に延々とくり返された「サルとおぼしき生物=it と餌の入った箱の話」は、とどのつまり、「生き延びるための適応」を意味する、この「フィット」に繋がっていたのではないか、それに続く写真と眼差しの話も、冷たい、気難しい、人嫌い、といわれてきたクッツェー氏自身について暗に語っていたのではないか、とわたしは妙に納得した。この作家の境涯とも、じゅうぶん重なるように思えたからである。

 南アフリカ社会でアウトサイダーとして育ち、1960年のシャープビル事件のあとに故国を出る決心をし、大学卒業後にケープタウンを飛び出して行った先のロンドンでは、旧植民地生まれの部外者として歓迎されず、その後わたった米国からもヴィザの発給を停止されて、1971年に31歳で、アパルトヘイト体制の南アへ覚悟の帰国を余儀なくされたクッツェー氏は、以来、検閲制度をかいくぐりながら密度の高い小説作品をつぎつぎと世界に送り出してきた。解放から5年後、息子の死からちょうど10年後に、ようやく、のびやかな筆致で書いた『恥辱』を発表したが、アパルトヘイト撤廃後の南ア社会で生きる人たちを容赦なく描いたこの傑作は、翌年5月「人種差別的だ」として政府与党と人権委員会から公的に批判されることになる。
 2002年、クッツェー氏はついに南アを離れた。(作家自身は、あるインタビューで「祖国を出るのは離婚に似て内密なものだ」として、その理由をはっきりとは語っていないが、南アを離れたことは『恥辱』をめぐる批判や、その後の出来事と無関係だとは思えない。)(付記/2015.11.13:その後、J・C・カンネメイヤーの伝記などによれば、クッツェーがオーストラリアへ移住する計画を立て始めたのは1990年代の早い時期で、1999年の時点ですでにその計画はかなり進んでいた。したがって『恥辱』をめぐる騒動はたんなる偶然の一致だったことが明らかになっている。)そして03年10月にノーベル文学賞を受賞し、06年3月にはオーストラリアの市民権を得るにいたった。

 顔写真には撮影者と被写体となる人の関係がはっきり出る。9月29日の初会見の最後にわたしが撮った写真も、いざ現像してみると、ほおのあたりは笑っているのに、深い悲しみをたたえたような目もとは、とても厳しい。
 だがしかし、である。翌日、2時間半におよぶ講演が終わって、サインをもらう読者の長蛇の列からようやく解放されたクッツェー氏に、挨拶のために近づいて行ったときのことだ。
 「こんばんわ」といって手を差し出すと、一瞬「誰だ?」と相手を射すくめるように凝視したあと、その顔にこぼれんばかりの、破顔の笑みが浮かんだのだ。鋭く光る目の下には、これまで頑固に、厳しく、自分を律して生き抜いてきたことを思わせる、無数の皺が刻まれていた。
 そのときわたしは一瞬のうちに理解した。彼が見せるこの微笑みは、やがてわたしの記憶のなかで、飴色の光を放ちはじめることになるだろう、と。(了)☆☆☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。