2018/07/08

この夏は『鏡のなかのアジア』第1章でさらわれました!

谷崎由依著『鏡のなかのアジア』(集英社)
本来なら堂々と、きちんと書評すべき本だと思いながら、そういう「表だった場所」に自分の大切な読後感を晒したくない、という極めて私的な思いを抱かせる、これはわたしにとってとても貴重な本だと最初の短編を読んで、まず思った。切実だ。

 物語の筋はあるようで、ないようで、確かにあるのだけれど、それを理性的に分析して書きしるそうと思うより前に、ここに書かれている日本語の、美しい文体の、リズミックなことばの連なりの、流れの、その心地よさに浸っていたい! ことばの海にざんぶり身をひたして、そのまま流されようが、溺れようがかまわないから! という思いに完全に足をすくわれた。

 物語の舞台となるのはチベット。サンスクリット語と思しき「るび」が(もちろん英語もある)、アルファベットで、漢字やひらかなの単語や熟語にふられるというアクロバット。これ、いいなあ、こんな技があるのか、わたしもやってみたいな、と思わせる心憎いスキルである。そのルビが文体にあたえる華麗なまでの共振というか、視覚による擬似レゾナントというか、連想の奥行きというか。たとえば、

 「筆」に「pen」とルビがふられ、「牛酪」に「butter」、「獣」に「yak」、「僧院」に「gompa」、「空」には「gnam」、「ねずみ」に「tsi tsi」、「城」に「zong」、「湖」に「mtsho」なのだ。

 いきなり、ぼうぼうと岩山に吹く風の、乾いた音が聞こえてくるのだ。もうイヤなことばっかり続く、この湿気で腐敗しきった土地で読む、乾いた風景の作品世界がたまらない。リズミックにくりかえされる「馬の足で二日、風が強ければ五日、ひとの足なら十日かかる場所」といった距離感を示す、凛とした表現の妙。
 ここちよくさらわれてみたい文章がここにある。久しく体験しなかった詩的な散文である。幻想短編集というわかりやすい表現が、どこか平板に感じられるほどに。
 
 といった私的な感情のことをひたすら書き連ねたくなる本なのだから、そんな文体への思いつめた感想ばかり、公の書評では書けないじゃないか。それ以外のことは、たとえば物語の筋やら、登場人物やら、舞台背景のことやら、それぞれ大切なことなんだけれどあまり口にしたくないのだ。陳腐な表現で読者にわざわざ説明してもしかたがないし、説明なんかしてあげない、といいたくなるのだ。これじゃ全然、書評にならないし、作家に失礼だから、ブログに書くことにした。

 おまけに「鏡のなかの……」である。ぐんと近しく感じるタイトル。あと一冊加わると「鏡のなかの……」シリーズができあがりそう! ほら!

 『鏡のなかのアジア』
 『鏡のなかのボードレール』
 『鏡のなかの蝦蟇』とか。
  (そういえば、有名どころでエンデの『鏡のなかの鏡』があったわねえ。)

「気だるくやつれ伏すアジア、灼熱に身を焦がすアフリカ」もあっけなく凌駕して。いや、もう、幻視者(visionnaireとルビ)作家、谷崎由依、おそるべし!