2016/04/25

『恥辱』の、いわゆる「ルーシー問題」


 こんな疑問が「Yahoo」に投稿されたのを見つけた。
Q:クッツェーの恥辱について。オランダに行こうという父親の提案を拒否して、ルーシーが頑なに農村に留まろうとしたのは何故ですか?

 以前からずっと考えてきたことだった。『恥辱』が日本語に訳されたとき、多くの読者が感じた疑問でもあっただろう。いまでも解けない謎として立ちあがってくるらしい。
 『恥辱』という作品は、クッツェーが多岐にわたる問題を、密度の高い構成と端正な文章のなかに投げ込んだ小説で、人種や、ジェンダー、セクハラ、大学の再編成、ロマン主義思想の問題点、植民の歴史、動物の生命と人間との関わり、などなど、そう簡単に答えが見つからない問題提起が埋め込まれている。とりわけ「動物の生命」については、最後のシーンなど、どう考えていいかよくわからないという人もいる。とにかく優れて「問題含み」の小説なのだ。なかには、問題として読者の意識にすぐに立ち上がってこないほど、深いところに置かれた疑問もある。
 また南アフリカという土地にあまり馴染みのない読者にとって、とりわけ若い女性の読者にとって、今回アラートされた疑問は、解けない謎として残ってしまうのだろう。それについてわたしなりに考えてみたい。

 まず、ルーシーの母親、つまりデイヴィッドの最初の妻は、作中ではオランダに住んでいることになっている。ルーシーはその母親を頼って、いったんはオランダへ行ったけれど、故郷へ帰ってきたという設定だ。
 なぜ南アフリカに帰ってきたか? ここでクッツェーは、人は自分が生まれ育って暮らしてきた土地や社会との結びつきを、そう簡単に切り捨てることはできない、といっているようだ。故国の田舎に小さな農園を買って自給自足の暮らしを営もうとしているルーシーは、やっぱり自分は南アで生まれ育った人間だと思ったのかもしれない。さらりと書かれているが、彼女の「帰国」には、ルーシー自身のなみなみならぬ決意が秘められているのだ。背景としては、作者クッツェーが1970年代初めに、アメリカからやむなく、アパルトヘイト下の南アフリカへ帰国した事情なども重ね合わせることができる。

 ルーシーの生活は質素で、大学教授として都会に住んできた父親の暮らしとくらべれば、はっきりいって貧乏暮らしだ。その対比もクッツェーは書きたかったのだろう。それもパートナーの女性が出ていってしまったとあるから、ルーシーはアフリカの田舎でたったひとりで住んでいるわけだ。そんな行動がアフリカの農村社会にとってはどれほど「異質」なものであるか、「奇異」なものであるかは外部からはうかがい知れない。そこもクッツェーは書いている。これは旧態然とした男尊女卑の村社会に、女性があえて(果敢にも)無防備に身をさらすことを意味する。最後はその共同体の規範に従うこと、つまりペトルスの契約上の妻として身柄を保護してもらい(はたしてそれが保護かどうかは疑問だが)、家は彼女の所有として不可侵のものにしたい、とルーシーなりの苦肉の策を解決法として考え出したりするのだ。そのように書くことで、クッツェーは白人女性が「あらたに」アフリカの農村社会に生きることの試みをこの作品に書き込んでいるのだろう。
 ちなみに、ペトルスが身内の若者がルーシーへのレイプに関係していたことを知り、ルーシーを「生まれてくる子供ともども面倒をみる」と申し出るところもクッツェーは書き込んでいることに注目したい。それが農村共同体の旧式な、一族の長としての責任の取り方なのだ。(面倒をみる、とか、保護する、とか、結局は「女性を隷従させる」ことを意味するので、女性読者はさらに反発するだろうけれど……)

 女性が自立してひとりで生きていくことを許さない社会規範。それは50〜60年前の日本社会を考えてみるだけで容易に想像がつく。先の戦争直後に女がひとりで田舎に古い農家の屋敷を買って住む、と想像してみてほしい。女性は経済的自立ができず、必ず誰かに属していなければならない共同体社会の縛りは、まだまだ世界中のいたるところある。
 
 そもそも17世紀以降、アフリカ南端に入植してきたヨーロッパ系白人、とりわけオランダ系の人たちは、何代も南アフリカに住んできたのだ。ヨーロッパ列強国によるアフリカに対する植民地政策の延長上に、アパルトヘイト体制が誕生したことを思い出してほしい。非白人を徹底的に差別的に搾取するその制度のもとで生きる白人もまた、ある意味、がんじがらめの非人間的な制度下で生きざるをえない状況だった。(といっても、白人が利を得るその制度は、白人にとっては、その非人間性を「自覚」したときに初めて檻となるのだけれど──つまり、見ないことにする、差別などないことにすれば、良心は痛まなかったわけだ。)
 ルーシーは、そんな軛を振り払って、一度はヨーロッパへ向かった。がしかし、オランダへ行っても、母親と折り合いが悪かったのか、南アとは決定的に異なる社会がそこにあって自分を「部外者」だと感じたのか──クッツェー自身がイギリスで『青年時代』に感じたように──とにかく故国へ戻ってきたのだ

 だからルーシーは、自分で決意して戻ってきた南アフリカという土地からそう簡単に逃げ出すわけにはいかないのだ。自分の意思に従えば、これからもずっと住み続けることを選択せざるをえない、たとえ黒人にレイプされてその子供を産むことになっても、というのがこの小説のなかでクッツェーがルーシーに課した役割だ。そういうふうに土地と関係を結ぶ人物として描いた。だからルーシーはある意味、作家ジョン・クッツェーの分身であり、彼の「絶望的希望」のように見えなくもない。
 ところが、これを書き上げてから、クッツェー自身は南アフリカを去る。南アフリカにとどまり続ける分身を作品内に刻んでから、その土地を去ったのだ。南ア国内では、そこに批判が集中したこともあった。

 とにかく、この「ルーシー問題」は作品が発表された直後、南アだけではなく世界中のフェミニスト読者のあいだで侃々諤々の議論を呼んだようだ。無理もない。なぜ、歴史的な負荷をひとりの「白人女性」だけに背負わせるのか、という憤懣だ。もちろん南ア国内では、黒人男性が集団レイプする事件を描いたことに対する政権側の批判もあった。だがそれは「新生」南ア社会にとって、当時も今も、あまりに日常的なことでありすぎる「マイナスイメージ」だったからだ、といまになればわかるだろう。(白人男性が有色女性をレイプし続けてきた長い歴史は、ハベバ・バデルーンが論じていた──昨年のちょうど今頃のブログを参照して!

 この「ルーシー問題」は、しかし、地球規模で人の大移動が起きているいま、「南」と「北のメトロポリス」の関係で考えてみるとき、未解決のさまざまな問題が噴き出る場として、ほとんど普遍的なテーマへと変貌していく。

 結局、これだといった答えなどないのだ。歴史的文脈を知り、そのなかで読者がそれなりに考え出すしかない。考え続けていくしかない。それがクッツェー作品を読むということなのだから。

2016/04/23

ブックフェアでトークショーに出るクッツェー:9月には新作も

 この21日から始まったブエノスアイレスのブックフェアに参加しているジョン・クッツェー、以前ならこういった「トーク」にはほとんど出ない姿勢を崩さず、ケープタウン時代は「引きこもり作家」などと呼ばれていたのに、オーストラリアへ移ってからずいぶん変わったものだ。とても社交的になって、自宅に友達や同僚や仲間を招いて、冗談をいいながら話もするようになったのだから。(おかげでわたしも2014年にフェスの参加者といっしょに招かれ、彼の手料理までご馳走になった!)

 とりわけここ数年の南アメリカ諸国訪問への、彼の熱の入れようはすごい。先日もメキシコへ行ったばかりだった。コロンビアもよく訪れている。ブエノスアイレスのこのブックフフェアのあとは、サンマルティン大学で3回目のセミナーを控えてもいるわけだから、とりわけアルゼンチンへの出没頻度が高いといえる。

 臨機応変にその場で応答するのが苦手だから、講演はもっぱら書いたものを朗読する形式でやってきたクッツェーだが、チャレンジ精神旺盛に、大きく自分の殻を破っていく姿がまぶしい。今年で76歳になったクッツェーは、人生の残り時間は若い人たち、とりわけ「南」の人たちへ何かを確実に手渡そうという意気込みが強く感じられる。
 2013年に出た小説 The Childhood of Jesus は、ある種の哲学小説、あるいは、文学的テーマパークのようにさまざまなテーマを浅くちりばめた作品と見えながらも、大きな枠組みで見ると、あれはクッツェー流の「子育て論」であり「教育論」ではないかとわたしなどは思ってきたのだけれど、今年9月に出るという The Schooldays of Jesus という新作のタイトルを見ると、やっぱりなあ、と思わざるをえない。タイトルを日本語にすると『学校へ通うイエス』というか、『イエスの学生時代』というか、制度としての「学校」と「教育」に重点を置く作品になるのかしらん、と想像してしまう。

少年時代、青年時代』はまさしく彼のSchooldays だったわけだし、立場は変わるけれど『サマータイム』だって、今度は職場としての学校が舞台になった作品だった。彼の母親が長年教師だったこともあって、クッツェーはずっと「教育」と切っても切れない関係に身を置いてきた人間なのだ。社会制度としての教育に鋭い光をあてるときがやってきても、少しもおかしくはない。作家としてのクッツェーと、教師としてのクッツェーは、まぎれもなく同一人物なのだから。そして、二人の子供を育てた「親」としてのクッツェー。この部分がとても微妙なのだけれど。
 
 自分がこの世に生まれてきたのはなんのためか、自分の vocation/天職はなにか、とずっと自問しつづけてきた人ならではの視点で書かれる彼の文章は、いつだって、ややもするとたった一つの「国」の内部で視野狭窄におちいりがちな人間を、ぐんと見晴らしのいいパースペクティヴのなかへ連れ出すパワーをもっている。このパワーがなんといってもクッツェーの文章の醍醐味なのだ。新作が楽しみだ。

 今日もまた、あいかわらずのクッツェー話でした!

2016/04/20

クッツェーが選んだ「詩のアンソロジー」がやってきた!

「アリアドネの糸」という意味をもつアルゼンチンの出版社から出た分厚いアンソロジー:『51 Poetas Antología Íntima』──J・M・クッツェーが選んだ51人の詩人たち。古典から、比較的新しい時代の詩まで。無名の伝承詩もある。オーストラリアのアーネムランドの先住民に伝わるらしい歌「Moon-Bone Cycle/月の骨サイクル」(正直、どう訳したらいいのかよくわからないが、これを歌いながら「土地」のメンテナンスをするのだろうか)もある。

 左ページにオリジナルの言語、右ページにスペイン語訳がついている。下段の註もスペイン語。猫に小判とはこのことだけれど、ぱらぱらとめくっていくのは楽しい。スペイン語訳で出た12冊の「個人ライブラリー」の最終巻だ。前書き、註もクッツェーが書いたものがスペイン語に訳されている。贅沢な作りで、分厚い。600ページもある。シャルル・ボードレールは「Spleen 1-4」が選ばれている。もっぱら都会生活の憂鬱を謳う詩だ。アルチュール・ランボーは「酔いどれ船」か。ふむふむ。

10日ほど前、ゲラ読みの合間をぬって都心まで行ってきたのだ。しかし、あの日はちょっとくたびれて帰りの電車で貧血になってしまったけれど、なんとか家にたどりついた。でも、しっかり受け取ってきたのだ。はるばる運んでくれたKさん、Muchas gracias!

2016/04/08

「第4回 世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会」のために

明日は本郷で「第4回 世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会」が開催されます。明日のプログラムのタイトルは「南の文学」。そこで思い出すのは、昨年のいまごろ

  メトロポリスと周辺──J・M・クッツェーたちの挑戦

というタイトルでブログを書いたことで、そこではクッツェーがアルゼンチンのサンマルティン大学で開催する「南の文学」講座のことを紹介しました。そのとき、明日のコーディネーターをなさる柳原孝敦さんらに助けていただいて紹介したクッツェーのインタビューを、参考までにここに再掲します。

4月と9月に開かれるこの「南の文学」講座は、今年も第三回目が今月末に開催されるようです。

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「われわれ(の文学)がマイナー文学であるという考えに抵抗しなければならない」

2003年にノーベル文学賞を受賞した南アフリカ生れの作家、JMクッツェーはすでに何度もこの地を訪れているが、今回はアルゼンチンのサンマルティン国立大学で開催されるセミナー「南の文学」のディレクターをつとめる。大学院の授業として開かれるこのセミナーは、アフリカ、オセアニア、南アメリカの文学を横につないで「南の文学」を創造する試みだ。今日から始まるセミナーではこの三つの地域から作家、研究者、教師、文藝批評家が一堂に会する。第一回はオーストラリアの文学に焦点をあてる。参加するのはゲイル・ジョーンズとニコラス・ジョーズ。

セミナーについて、クッツェーは「クラリン」誌の質問にメールで次のように答えている。

Q:南の文学に共通する基本的な要素とは何でしょうか?


JMC:それはまさに、われわれがこのセミナーで答えたいと思っていることです。これらの地域の作家と文学研究者どうしの繋がりはあまり強くはないので、そのため英語を使う世界への影響が、北から南へという方向になり、南から北へはあまりない。この位置関係を今回のセミナーによって覆すことが願いです。

Q:以前あなたは「スイス人が言うには、スイス人であることはマイナーな存在であることを運命づけられている」と書きました。それはオーストラリア人にも言えることでしょうか? 中心以外の文学で「マイナー」でいられずにすむ文学というのはありますか?

JMC:メトロポリスの出身でないかぎり、そして一般的に、北のメトロポリスのことを語らないかぎり「田舎者」であり「マイナー」であると運命づけられるという考えこそ、われわれが抵抗しなければならないものです。

Q:植民地であった点で共通しているオーストリアと南アフリカで、植民地化の影響の類似点と相違点は?

JMC:オーストラリアの文化的生活に、かつての植民地権力であった英国がおよぼした影響は、20世紀半ばまで強力なものでした。それ以降は英国に代わって、特にアメリカのポップカルチャーが文化モデルになりました。しかし、最良のオーストラリア人作家は独自の立場から、みずからの声で語るようになっています。

Q:オーストラリア文学は「エキゾチックな」文学に含まれるのでしょうか? それともアルゼンチンのようにそれを拒否するのでしょうか?

JMC:世界文学(ここでは単一の「世界文学」ではなくて「世界のいろいろな文学」のニュアンス)というのは結局、北の大都市以外のところから出てくる文学を指す婉曲語法なので、オーストラリア文学も世界文学の一員であるなどと考える以前に、北のメトロポリスの文学とそうでない文学(地方的でマイナーな文学とされるもの)を区別する必要があるでしょう。

Q:中央と周辺という考えは、ヨーロッパの危機とグローバリゼーションと再定義してもいいでしょうか?


JMC:それは厄介な質問です。グローバリゼーションとは概念として、中央と周辺のあいだの対立を超越するもののように見えながら、実際は「北」がみずからを中心と見なし「南」を周辺と見なしています。


2016/04/01

緋寒桜のひよどり

ピーヨピーヨと緋寒桜でひよどりが啼いて、3月が過ぎていきました。ピーヨピーヨと啼きながら、ひよどりは桜の花芽も、わたしの気鬱もつんつんとついばんでくれたようです。「水牛のように」に詩を書きました。


緋寒桜のひよどり


ここ東京郊外の丘の上でひよどりの声を聞きながら思うのは、遠い北の土地で起きたいくつもの出来事。そして揺れる緋寒桜を見ながら想像するのは、浅い歴史のなかで生起した家族の物語。

数年前に撮ったユキヤナギ
 それにしてもここ数ヶ月、胃痛やらなにやら木の芽どきに特有の体調不良に悩まされてきたけれど、4月の声を聞いたとたんにすっきりして、みんなどこかへ行ってしまったような気がする。
 気がするだけかもしれないよ──と身体の奥から微かなさささやき声が聞こえてくる。そうか、ひょっとしたら騙されているのかな? だって今日はエイプリールフールだもの。

 窓の外の緋寒桜の花も盛りを過ぎて、黄色い葉芽がちらほら出てきた。遠くに見えるユキヤナギの純白の花は、いまが盛りと、流れるような花枝を伸ばしている。春がやってきた。

2016/03/29

セザリア・エヴォラを聴く春の夕暮れ

セザリア・エヴォラ(1941~2011)の「rogamar」1曲目、"赤道のサントメ" 

大西洋の奴隷貿易の中継地だったカボ・ヴェルデ出身のセザリア・エヴォラがサントメ・プリンシペについて歌う。「サントメ、サントメ、誰のためにたたかっているのか、忘れないこと」と。





2016/03/22

チママンダ・アディーチェが短編「オリコイェ」を朗読

こんなのがありました。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが短編を読んでます。BBCの番組。
短編のタイトルは:

Olikoye


 ナイジェリアでかつてめざましい保健衛生政策を実施した大臣、オリコイェ・ランサム・クティの物語です。つぎつぎと新生児が下痢をして死んでいく村、病原菌による感染症から新生児や乳幼児をまもるための施策をし、袖の下を決して受け取らなかったこの人物は、かの伝説のミュージッシャン、フェラ・クティの兄弟だそうです!

 日本だって1950年代までは、田舎の医療衛生状態はナイジェリアの田舎と似たような状態だったことを思い出したい。わずか半世紀前のことでした。長い歴史的時間に照らして見るなら、あまり差はないのよね。

テクストはこちらで読めます

2016/03/20

春は、唸る風が……

 調子にのって駆け出そうとした漱石ざんまいの日々も、胃痛をいただいてしまって早々に中断。春の日差しのなかで、ひたすら静養と軽い手作業の日々だ。
 一昨日は部屋の隅に積んであった、書類やら、本やら、何度かの数少ない旅の記録やらを整理した。引越しをしてから、かれこれ13年以上も放ってあった、子供たちの写真も少しだけ整理した。約20〜30年前の写真である。

 これ、いつごろの写真だったっけ?──と親たちがすっかり忘れてしまった写真を、夕食に来た娘たちに見せると、さすが記憶する細胞が古びていない。あ、それは……とぴたりと言い当てる。
 卒園式、入学式の朝の写真などなど、おびただしい枚数の写真がアルバムに貼られたり、ブックポケットに収められて書棚に入っていたり。時系列にならべかえて埃を払い、しばし見入る。

 昨年秋に逝った猫の写真もたくさん出てきた。
 春は、唸る風が、旅立っていったものたちの残影を、記憶の底にかすかに波立たせる季節でもある。

2016/03/13

『道草』から遡って読む夏目漱石

今日も曇り空だ。おまけに真冬なみに寒い。でも風はないので、亡霊の泣くような音に悩まされずにすむ。

 没後100年だからというわけでもないが、そうだ漱石かと思って、このところもっぱら夏目漱石を読んでいる。もっぱらといっても、まだ『夢十夜』『道草』『硝子戸の中』を読んだだけだ。そういえば、学生のころは辛気臭い男になってみる読書などゴメンだと、10代のころ母親が高く評価していたエスタブリッシュメントのマッチョ作家、森鴎外ばかり読んでいた。(いま考えてみると、自分の子を宿した女を捨てて帰国する無責任な日本男の「苦悩の」内面なんぞを描いた『舞姫』が教科書に載っていたなんて信じがたい!)

 数年前に家人から漱石はこれと薦められて、読みかけては中断してきた『道草』を一気に読了できたのは嬉しかった。それで、発見!
 これは漱石の傑作中の傑作ではないのか。地味な作品といわれているらしいけれど、とんでもない。ファンタジー性を一切使わないで、妻である鏡子とのやりとり、子供とのやりとり、それにまつわる自分の生い立ちとの葛藤、実の父母や兄姉と自分の位置関係、養父母との腐れ縁と絡まり合いの収め方を、ここまで赤裸々に、簡潔に書いたものはなかったのではないか。
 漱石の自己分析の鋭さ、自意識の奥にさらに高いところから光をあてようと奮闘する力技に脱帽しながら、爆笑する場面も何度かあった。記憶との距離感と批判力がすごいのだ。
 漱石という作家は、一貫して、自己セラピーのために小説を書きつづけた作家だった。絶筆となった『明暗』の直前に書いたものだけに、凄みと切実さと真摯さがないまぜになっている。漱石ってこんなに面白かったのか。

 学校の教科書で習った『坊ちゃん』の登場人物にキヨという下女がいた。全面的に主人公を受け入れ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、といってくれる女性だ。もう死んでしまったお婆さんの姿で描かれていたが、キヨというのは漱石が結婚した相手、つまり鏡子夫人の本名だというから驚いた。そうか、「紺無地の絽の帷子に幅の狭い黒繻子の帯」をしめたお婆さんの姿でしか記憶されていない実母と、妻である鏡子をミックスして、幼いころはこういう女性に育てられたかった、と初期には甘いファンタジックな人物像を描いていたのかと膝を打った。
 もう一度、『坊ちゃん』も読み直してみよう。

 しかし、夏目漱石の自己分析力を光らせる、英語からの翻訳文体と、漢文脈と、ころがすような江戸弁の混じり合った独特の文体は、新聞にはうってつけだっただろう。というか、新聞向けにそのように書いたのだろう。次回を期待させる区切りといい、それを受けてまた始める書き方といい、新聞にコラムのように発表することで漱石の文体はつくられていったのだな、といまさらながら納得した。
 だから、だろうか、小説といっても伏線を張って、あとでそれが一気につながる、といった構造的な仕掛けはあまり感じられない。しかし。この自己分析力、自己批判力、時間と記憶に対する意識は、残念ながら、それ以後の作家にはあまり引き継がれなかったように思う。それを継ぐ作家があらわれなかったのは、どことなくバッハがロマン主義時代に打ち捨てられたことに重なるような気がするが、どうだろう。

 次は『明暗』、そして『こころ』『行人』かな。時間をさかのぼるようにして『吾輩は猫である』まで読めるといいな。
 鏡としての女性からみた漱石を読む。鏡子夫人の名前は、ひょっとして、「おまえは俺の鏡になってくれ」といって漱石が換えたのではないか、とひとり妄想しながら楽しんでいる。

2016/03/05

緋寒桜に鳥がきた

 めっきり春めいてきた。緋寒桜に鳥が来ている。なんという鳥だろう。(付記:ヒヨドリだと教えてくださった方がいました。Muchas gracias!)
『鏡のなかのボードレール』のゲラ読み終了。たくさん入る図版のキャプションも書いたし。

 これで一区切り。ふうっ! 仕事が一区切りするのと、春がやってくるのと、つぎつぎと鳥たちがやってくるのが重なるのは、なんだか嬉しい。
(シンプルなデジカメでめいっぱいズームにして撮ると手ぶれが起きてしまい、1枚目はちょっとピンボケです・涙)

 さてさて、つぎは『アメリカーナ』の分厚いゲラだ。いざいざっ!

2016/03/04

「ブラウン・ベイビー」 by ニーナ・シモン

今日の音楽。ニーナ・シモンの「ブラウン・ベイビー」。1962年に発売されたアルバム「アット・ザ・ヴィレッジ・ゲイト」のB面の最初に入っている曲だ。B面なんてことば、みんな知ってるだろうか? LP時代。この曲との衝撃的な出会いについてはずいぶん以前だけれど、ここに書いた
 ニーナがこの曲を歌ってから54年。アメリカという国の黒人をめぐる野蛮な暴力はいま.........

Brown Baby をまた聴く春の曇り空。

2016/03/02

津島佑子の本がきた

なんだかここ一カ月は、力が抜けた時間だった。長い訳稿を送ったあとしばらくは、読みたいのに読めなかった本の山をどんどん崩していくぞっと、気負い立って本を手にとったはいいのだけれど、数冊読了したところでアウト。「しばしお休みなされ」という心身の芯からの命令で、ひたすら休養した。

まず、やってきた本たち
 その間に、何人もの人が逝ってしまった。逝ってしまって、あ、しまった、もっとちゃんと読んでおくべきだったのに、そうしたかったのに……と悔やんでもあとの祭り。その一人、津島佑子(1948年3月30日〜2016年2月18日)。

 70年代から読んでいたのだ。『寵児』や『光の領分』は雑誌掲載のかたちですぐに読んだ。そうだ、『生き物の集まる家』はまだ学生のころ、四畳半アパートで読み終えて、箱入りのその本を箱に収めて、読後の濃密感にため息をついた。そのとき感じたものの記憶は、いまでも確かによみがえる。

 しかし、80年代に入って、子育てに追われて、読書にあてられる限られた時間に、まず読んだのはトニ・モリスンであり、アリス・ウォーカーであり、トニ・ケイド・バンバーラだった。そして藤本和子、森崎和江、石牟礼道子、etc.etc.
 津島佑子がアイヌ民族のことや、沖縄のことや、台湾のことに深い関心をもち、作品にもそれは如実にあわわれている、ということを見聞きしながら、いつかじっくり読まなきゃなと思いながら、今日になってしまった。そして、津島佑子はもういない。合掌。

「救済としての差別」の書き出し
 目の前に残されているのは、しかし、多数の作品。心して、これと向き合っていくことになるのだろう。そういえば、訃報を聞いたときに真っ先に思い出したのは、津島佑子がトニ・モリスンの『青い眼がほしい』に書いていたエッセイのことだった。朝日新聞社からシリーズの第1巻目として出たバージョンだ。

 そこに「トニ・モリスンという作家の存在を、私はこのシリーズで初めて知り、作品を読むことができたのだったが、それは私にとって幸運なことだった」と始まる「救済としての差別」という津島佑子の文章があった。藤本和子の編集によるこの本が出たのは1981年のことだ。
 思えばそれが「始まり」だったのだ。あれからもう35年になる。