この21日から始まったブエノスアイレスのブックフェアに参加しているジョン・クッツェー、以前ならこういった「トーク」にはほとんど出ない姿勢を崩さず、ケープタウン時代は「引きこもり作家」などと呼ばれていたのに、オーストラリアへ移ってからずいぶん変わったものだ。とても社交的になって、自宅に友達や同僚や仲間を招いて、冗談をいいながら話もするようになったのだから。(おかげでわたしも2014年にフェスの参加者といっしょに招かれ、彼の手料理までご馳走になった!)
とりわけここ数年の南アメリカ諸国訪問への、彼の熱の入れようはすごい。先日もメキシコへ行ったばかりだった。コロンビアもよく訪れている。ブエノスアイレスのこのブックフフェアのあとは、サンマルティン大学で3回目のセミナーを控えてもいるわけだから、とりわけアルゼンチンへの出没頻度が高いといえる。
臨機応変にその場で応答するのが苦手だから、講演はもっぱら書いたものを朗読する形式でやってきたクッツェーだが、チャレンジ精神旺盛に、大きく自分の殻を破っていく姿がまぶしい。今年で76歳になったクッツェーは、人生の残り時間は若い人たち、とりわけ「南」の人たちへ何かを確実に手渡そうという意気込みが強く感じられる。
2013年に出た小説 The Childhood of Jesus は、ある種の哲学小説、あるいは、文学的テーマパークのようにさまざまなテーマを浅くちりばめた作品と見えながらも、大きな枠組みで見ると、あれはクッツェー流の「子育て論」であり「教育論」ではないかとわたしなどは思ってきたのだけれど、今年9月に出るという The Schooldays of Jesus という新作のタイトルを見ると、やっぱりなあ、と思わざるをえない。タイトルを日本語にすると『学校へ通うイエス』というか、『イエスの学生時代』というか、制度としての「学校」と「教育」に重点を置く作品になるのかしらん、と想像してしまう。
『少年時代、青年時代』はまさしく彼のSchooldays だったわけだし、立場は変わるけれど『サマータイム』だって、今度は職場としての学校が舞台になった作品だった。彼の母親が長年教師だったこともあって、クッツェーはずっと「教育」と切っても切れない関係に身を置いてきた人間なのだ。社会制度としての教育に鋭い光をあてるときがやってきても、少しもおかしくはない。作家としてのクッツェーと、教師としてのクッツェーは、まぎれもなく同一人物なのだから。そして、二人の子供を育てた「親」としてのクッツェー。この部分がとても微妙なのだけれど。
自分がこの世に生まれてきたのはなんのためか、自分の vocation/天職はなにか、とずっと自問しつづけてきた人ならではの視点で書かれる彼の文章は、いつだって、ややもするとたった一つの「国」の内部で視野狭窄におちいりがちな人間を、ぐんと見晴らしのいいパースペクティヴのなかへ連れ出すパワーをもっている。このパワーがなんといってもクッツェーの文章の醍醐味なのだ。新作が楽しみだ。
今日もまた、あいかわらずのクッツェー話でした!
とりわけここ数年の南アメリカ諸国訪問への、彼の熱の入れようはすごい。先日もメキシコへ行ったばかりだった。コロンビアもよく訪れている。ブエノスアイレスのこのブックフフェアのあとは、サンマルティン大学で3回目のセミナーを控えてもいるわけだから、とりわけアルゼンチンへの出没頻度が高いといえる。
臨機応変にその場で応答するのが苦手だから、講演はもっぱら書いたものを朗読する形式でやってきたクッツェーだが、チャレンジ精神旺盛に、大きく自分の殻を破っていく姿がまぶしい。今年で76歳になったクッツェーは、人生の残り時間は若い人たち、とりわけ「南」の人たちへ何かを確実に手渡そうという意気込みが強く感じられる。
2013年に出た小説 The Childhood of Jesus は、ある種の哲学小説、あるいは、文学的テーマパークのようにさまざまなテーマを浅くちりばめた作品と見えながらも、大きな枠組みで見ると、あれはクッツェー流の「子育て論」であり「教育論」ではないかとわたしなどは思ってきたのだけれど、今年9月に出るという The Schooldays of Jesus という新作のタイトルを見ると、やっぱりなあ、と思わざるをえない。タイトルを日本語にすると『学校へ通うイエス』というか、『イエスの学生時代』というか、制度としての「学校」と「教育」に重点を置く作品になるのかしらん、と想像してしまう。
『少年時代、青年時代』はまさしく彼のSchooldays だったわけだし、立場は変わるけれど『サマータイム』だって、今度は職場としての学校が舞台になった作品だった。彼の母親が長年教師だったこともあって、クッツェーはずっと「教育」と切っても切れない関係に身を置いてきた人間なのだ。社会制度としての教育に鋭い光をあてるときがやってきても、少しもおかしくはない。作家としてのクッツェーと、教師としてのクッツェーは、まぎれもなく同一人物なのだから。そして、二人の子供を育てた「親」としてのクッツェー。この部分がとても微妙なのだけれど。
自分がこの世に生まれてきたのはなんのためか、自分の vocation/天職はなにか、とずっと自問しつづけてきた人ならではの視点で書かれる彼の文章は、いつだって、ややもするとたった一つの「国」の内部で視野狭窄におちいりがちな人間を、ぐんと見晴らしのいいパースペクティヴのなかへ連れ出すパワーをもっている。このパワーがなんといってもクッツェーの文章の醍醐味なのだ。新作が楽しみだ。
今日もまた、あいかわらずのクッツェー話でした!