2007/11/30

鏡のなかのボードレール(2)

「自分が見せ物として貸し出されるとか、所有者である男から動物の調教師に売られたり、科学者に賃貸しされるなんて想像つきますか?」

 そんなショッキングなことばで始る記事が南アフリカの新聞に掲載されたことを、ある新聞のコラムに書いたのは1999年3月のことでした。それは、ゾラ・マセコ監督の「サラ・バートマンの生涯」というドキュメンタリー・フィルムが、南ア国内で放映された記事にまつわるものでした。ここではまず、その後日譚を。

 サラ・バートマンは18世紀末にグリクワ民族として生まれた女性です。グリクワというのは南アフリカの先住民族のひとつで、ヨーロッパ人入植者たちが「ホッテントット」という蔑称で呼んだグループに入れられてきた人たちです(2012.6.13付記:『デイヴィッドの物語』を書いたゾーイ・ウィカムによると、バートマンがグリクワだったという説には異論もありそうです。また現在グリクワとして生きる人たちは「コイサン諸民族」のひとつであるとされ、長いあいだ、コイコイ=ホッテントット、サン=ブッシュマン、とされてきた区別そのものにも疑問を呈する研究が出ています。このブログを書いたのは『デイヴィッドの物語』を訳す前だったせいか、記述がやや不正確な箇所があります。ごめんなさい。正確な詳しい情報はぜひ、もうすぐ出版される拙訳『デイヴィッドの物語』本文やドロシー・ドライヴァーさんの緻密な解説を読んで確認してください)。

この投稿は、拙著『鏡のなかのボードレール』におさめられることになりました。


つづく

2007/11/19

わたしの好きな本 (2)『ティンカー・クリークのほとりで』

 この表紙に使われている木の実がなんだかわかりますか? わかる人は相当の樹木好きです。これはプラタナス、別名スズカケノキの実。樹皮が自然に剥けて、まだら模様になった幹が、遠くから見ると不思議な印象をあたえる木です。直径3センチくらいのまるい、かわいらしい、鈴のような実をつけます。大きな葉っぱが特徴で、秋になるとバサリ、バサリと地面に落ちてくる。
 作者アニー・ディラードはこの本で1974年にピューリッツァ賞を受賞しました。日本で邦訳が出たのは1991年(めるくまーる刊)、もうずいぶん前のことですが、わたしにとってはいちばん最初に翻訳というものをやった思い出深い本です。途中で、もっぱらアフリカのほうを向いてしまったわたしに代わって、共訳者の金坂留美子さんが仕上げてくれました。
 とにかく、人間の感覚のみずみずしさが、目も眩むほどの豊穣さで書き連ねられた書物です。心を澄まし、ひたすら見つめると見えてくる、わたしたちを取り巻く世界の不思議さ、自然界の生命の豊穣さ、そして、そのあまりの無駄遣い、そこに織り込まれた不条理な美しさ、地球という惑星の美しくも残酷な風景が、細部につぐ細部の積み重ねで、読む人を圧倒させる筆致で描かれていきます。
 賑やかすぎる世俗の世界にいささか疲れた人には、とりわけお薦め。一気に読み通す必要はありません。ぱらりとページを開いた章を、折りに触れて、ぽつりぽつりと読むのに適した本です。心が洗われること必至です。
 いまは古書でしか入手できませんが、いつか、文庫になるといいなあ、と秘かに思っているのですが・・・。
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付記:プラタナスが日本に渡来したのは明治末期。街路樹として葉を茂らせるようになった大正初期に、さわやかな初夏の街の情景を歌った、アララギ派歌人の歌を一首。(篠懸樹=プラタナス、と読みます。)

 篠懸樹かげゆく女(こ)らが眼蓋に血しほいろさし夏さりにけり  
                          中村憲吉

2007/11/14

ラッキー・デューベ、ナディン・ゴーディマ

南アフリカのカリスマ的レゲエ歌手、ラッキー・デューベが死んだ。
 享年、43歳。現地時間の10月18日午後8時すぎ、ヨハネスブルグで。車で子どもたち2人を親類の家まで送っていったところを、カージャック犯に撃たれたのだ。突然の銃撃と伝えられる。
 3年後のサッカーのワールドカップ開催をひかえて、南アの治安の悪さが話題になっている矢先、国民的英雄であるデューベが殺されたとあって、南ア警察は犯人逮捕にむけて、精鋭の捜査員からなる特別捜査班を組織。犯行から3日後、5人の容疑者がスピード逮捕された。
 そのうち4人(2人はモザンビークの出身*)が起訴されて23日、ヨハネスブルグの法廷に姿を見せた。だが裁判は手続き上の問題から1週後に延期され、30日には捜査不十分でさらに1カ月延期された。
 この半月にわたって南アのメディアは、不出世のミュージシャンを惜しむ記事や、大勢のファンがつめかけた追悼集会の模様などを連日伝えている。

年に2万人が殺人によって命を落とすといわれる南アで、暴力犯罪の対象となるのは有名無名を問わない。昨年はノーベル賞作家、ナディン・ゴーディマも自宅で強盗にあった。当時82歳のゴーディマが、ためらうことなく現金と車のキーを渡すと、若い犯人たちは66歳の家政婦と彼女を物置に閉じ込めた。
 無事に救出されたゴーディマは「1人が腕で私を押さえ込んだ。腕は筋骨たくましくて滑らか。そのとき思ったわ。この腕をもっとまともなことに使う場はないものかって」と語る。「南アフリカは暴力犯罪をめぐる深刻な問題を抱えている。でも、解決は警察だけの問題じゃない。犯罪の背後にあるものを見なければ。機会を奪われ、貧困のなかから出られない若者たちがいる。彼らには教育と職業訓練と雇用の場が必要なの。犯罪を減らす方法はそれしかない」とも。
 強盗に押し入られた恐怖よりも、この国が抱える貧富の差と、職のない大勢の若者のことに心を砕く、ゴーディマらしいことばだ。

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付記:11月13日付、北海道新聞夕刊に掲載されたコラムです。

 *カージャック犯の容疑者として逮捕された4人のうちの2人が、モザンビークから「富める」南アへ流入した人たちだったことが印象的です。これは、アパルトヘイト体制下の南ア政府が周辺国に対して、「不安定化工作」を行ったことと無関係ではなさそうです。当時白人政権は、アパルトヘイト体制維持のために、周辺国の反政府勢力になりふりかまわず武器や資金をあたえて政情不安をあおり、その国が安定した国力を得ないように画策しました。その結果、政治的に混乱し、経済的に疲弊した国の代表例が、モザンビークやアンゴラだったのです。
 ゴーディマは、強盗事件によって世界の耳目が自分だけに集まることに、とても戸惑ったと伝えられています。

2007/11/09

アディーチェ! アディーチェ! アディーチェ!


 昨日発売の「週刊文春」でこの本が取りあげられました。評者の池澤夏樹氏が、アディーチェの魅力を鋭く柔らかな感覚でじっくりと読み込み、この本の同時代的な意味を明らかにしています。とりわけ、いくつかの短編に出てくる、名前にまつわる人と人の関係の問題を、「誇り」ということばをもちいて的確に指摘していたことが嬉しかった。訳者としてはとても励まされる評でした。
 Muchas gracias!
 せっかくなので、中日新聞/東京新聞に書いた拙文を、ここに移動します。
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 いま一度、C・N・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)のことを。
 この9月で30歳になったばかりのナイジェリアの俊才、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品を初めて読んだときは、心地よい驚きがありました。すばらしく切れのよい、心にしみる文章をさらさらと書ける、天性の資質に恵まれた作家がついにアフリカから出てきた、と思ったからです。
 短編集『アメリカにいる、きみ』のためにセレクトしたのは、運よく渡米した少女が異文化のなかで働きながら、恋人に出会い、閉塞感から解放されていく表題作をはじめ、ナイジェリアや米国を舞台にした、心にまっすぐ届く10編です。さまざまな国の人と隣り合わせになる暮らしのなかで、困難な同時代を生きるアフリカ人の声を、肩ひじ張らずに楽しんでもらえる本にしました。
 いま世界文学の先頭を切っている作家です。(2007年9月25日、河出書房新社より発売、1890円)
        東京新聞(10/25)夕刊「翻訳ほりだし物」より
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☆おまけ情報:もっと読みたいと思われる方は、つぎのサイトに最新作が載っています。この作家は、なんだか、ある種のリトマス試験紙みたいな存在になっていきそうな気配です。
My American Jon ←作家の写真も!
REAL FOOD ←これは最新エッセイです。
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2007/11/08

『バーガーの娘 上/下』by ナディン・ゴーディマ


1991年のノーベル文学賞を受賞した南アフリカの女性作家、ナディン・ゴーディマの代表作。
 この作家は、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離)政策との関係で、日本でも名前だけはずいぶん早くから有名になってしまったけれど、本格的な長編作品が邦訳されたのはこの『バーガーの娘』(福島富士男訳/みすず書房 1996年)が最初でした。それまでにも短編集は何冊か出ていましたが、1994年に中編『ブルジョワ世界の終わりに』が出て、1996年にこの『バーガーの娘』が邦訳されました。
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 物語は1960年代初頭、12歳か13歳の少女ローザ・バーガーが、拘禁された母親に差し入れをする場面からはじまる。父も母も、結婚した当初から、反体制活動のために逮捕され、拘禁される生活をくりかえしてきた。たったひとりの弟は、幼くして溺死。やがて母は病死し、父も獄死する。
 南アフリカのオランダ系白人、アフリカーナーの名門に生まれながら、そのアフリカーナー集団とは真っ向から対立する活動をつづけてきた父(ネルソン・マンデラの弁護をしたブラム・フィッシャーがモデル)と母をもって生まれたローザは、それまでよりどころとしてきた家族を失い、27歳のときに、逃げるようにヨーロッパへと旅立つ。
(それは当時、白人にしか許されない「自立のための旅」ではあったのだけれど。)
 ニースに住む、父の前妻、カーチャのもとへ身をよせたローザは、そこでめぐり逢ったフランス人と恋に落ちる。バカンスが終わり、ロンドンで落ち合うはずだった恋人の代わりに、彼女が出会ったのは……。
 全体にピーンと張りつめた緊張感。ひとかけらの幻想も許さないことば遣い。語りの相手を交替させながら、自在に会話を組み込んでいく独特な文体。心理の裏の裏を読む、屈折した光によって描き出される、さまざまな人物像。
 一歩まちがえると絶望の奈落の底へ蹴落とされるような状況で、踏みとどまり、生き延びるための、その精神のありようを描ききろうとする姿勢に、ゴーディマとはこんな作家だったのか、とあらためて思った。
 マンデラが終身刑をいいわたわされたリボニア裁判(1963-4年)あたりから、ローザが帰国して投獄される1976年のソウェト蜂起直後までの、南アフリカの現代史を小説というかたちに結晶させた作品である。南アでは発禁処分を受けたこともある。
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付記:その後おなじ訳者で1998年には『この道を行く人なしに』が出ています。アパルトヘイトから解放されたこの作家の、じつにのびやかな筆の運びが楽しめる傑作です。その書評はこのサイトへ

2007/11/07

『ポイズンウッド・バイブル』

 バーバラ・キングソルヴァー(Barbara Kingsolver)はわたしの大好きな作家です。米国のベストセラー作家で、邦訳も何冊かあるのですが、どういうわけか、日本ではあまり知名度が高くありません。もったいないことです。
 ここではアフリカを舞台にした、『ポイズンウッド・バイブル』(永井喜久子訳、2001年 DHC刊)という、とても読ませる作品を紹介します。
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 舞台は中央アフリカ、時は1959年。米国南部出身のバプティスト協会牧師ネイサン・プライスが、妻と4人の娘を連れて、コンゴ川流域の村へ伝道に赴く、そこから物語ははじまる。妻のオーレアナ、15歳になる長女レイチェル、一歳年下の双子のレアとエイダ、そして幼いルース・メイ、この5人が交互に登場して、それぞれの視点と声とことばで、体験を語る形式で話は進んでいく。
 娘たちが気乗りしないアフリカ行きで、宣教師一家がたどり着いたのは、ベルギー領コンゴのキランガという村だ。「未開の人間に福音をもたらす」という「西欧的使命」をかたくなに信じる父は、村人の考えや習慣には聞く耳を持たず、自分たちの行いが、村人に災厄をもたらすことなど想像すらできない。
 家族を支配し、暴力を振るう男のもとで、食べ物さえも自力で手に入れざるをえなくなった妻や娘たちは、生き延びるために、否応なく自立の道を歩みだす。動乱のさなかに、美貌が頼りのレイチェルは、南アフリカの白人操縦士と逃亡し、気丈だがマラリアで動けなくなったレアは、愛するコンゴ人アナトールと結婚。エイダのほうは母親とアメリカに帰国して医者になり、幼いルース・メイは悲惨にも……。

 60年代のアフリカでは、民族自立の機運のもとに、続々と独立国が生まれた。旧ベルギー領コンゴも60年6月に独立し、民衆の強い支持を得て、ルムンバが首相に選ばれる。しかし、鉱山資源の豊富な南部カタンガ州が分離独立を宣言し、米政府の暗躍によってルムンバは逮捕され、虐殺される。それに続くさまざまな事情が、96年にいたるまで、モブツの完全独裁体制を許したのだ。
 そういった政治状況をきちんと書き込みながら、米国のベストセラー作家、キングソルヴァーはみごとな語り口で、コンゴという、豊かで過酷な自然と文化のなかに、身ひとつで投げ込まれた女たちの運命を、克明に描き出す。生き抜いていく女たちの語りによって姿をあらわすアフリカ、それが本書の最大の魅力となっている。
 フィクションならではの細部とリアリティーで、ふだんは遠いアフリカが、ぐんと身近に感じられること必至。とにかく読ませる。小説好きにはたまらない一冊である。
 原文で読みたい方は、こちらへ。

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付記:2001年9月、時事通信社によって配信された記事に加筆しました。
バーバラ・キングソルヴァーは、2001年秋の自国軍によるアフガニスタン攻撃に反対の声をあげた「もうひとりのバーバラ」でもあります。

2007/11/04

『サルガッソーの広い海』──ジーン・リース

 いまは古書でしか入手できないようですが、今月から刊行が開始される「世界文学全集」(河出書房新社)の第2期に入ることになった、ジーン・リース著/小沢瑞穂訳『サルガッソーの広い海』(みすず書房刊、1998年)。
 紙幅の関係で、以前書いた書評では触れることができませんでしたが、中村和恵さんによる巻末の解説が秀逸です。中村さんはその後、リースをめぐる大変興味深い文章をいくつも発表しています。カリブ海文学を考えるとき、この作品はとても面白い位置にあります。映画にもなりました。

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 シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」といえば、一昔前はだれもが読んだイギリス小説の古典といえるだろう。私はまず小学校の図書室で見つけた少女版──たしかタイトルは『嵐の孤児』(すごいタイトル!)──で読み、つぎに中学のころ、家の書架に並んでいた世界文学全集で再読した。そこには、孤児院を出たジェーンを家庭教師として雇い、やがて彼女に結婚を申し込む、口ひげをたくわえたお金持ちの紳士、ロチェスターなる人物が登場した。
 だが本書は、そのロチェスターの最初の妻、ジャマイカ出身の女性の目から書き改められた物語なのだ。狂女さながらに屋敷の屋根裏に幽閉されていた、あのバーサである。

 十代の私は「ジェーン・エア」をどのように読んだか。伯母一家から虐待され、孤児院では極貧と厳格な規律に苦しめられ、ようやく安定した職をあたえてくれたロチェスターの愛を得たのも束の間、重婚しようとした氏のおぞましい経歴を知り……と波乱万丈のジェーンの生涯に自分を重ね、夢中になって読みふけったのではなかったか。そのように読めるストーリーのなかで、植民地生まれのこの「忌まわしき狂女」は、ジェーンの幸福を邪魔する、不気味な存在として脳裏に焼きついていた。

 けれども、その女性の側からしてみれば、本国からやってきて、彼女の遺産目当てに結婚したこの名門の男性こそ、支配欲、無理解、放蕩、自己憐憫を絵に描いたような典型的イギリス人ということになる。彼女のほうは、生まれた土地から、根こそぎむしりとられるようにして連れ去られ、軟禁され、家に火を放って狂死するのだから。イギリスという異郷=帝国は、決して彼女をありのままには受け入れることはなかった。アントワネットという名前さえ、一方的にバーサと変えられてしまった。

 作者のリースは一八九〇年、カリブ海のドミニカ島に生まれたクレオールの作家だ。ヨーロッパ植民者の系譜だが、カリブの風と暑熱を全身に吸い込んで育った。黒人になりたかった、白人の、女性の、作家である。この幾重にも屈折したスタンスが、彼女の生まれた時代とともに、解き明かされるのを待つ混沌といった魅力を、この作品にあたえているように思える。

 とはいえ、作中、私がもっとも共感をおぼえたのは、オービア(魔術)を使う元奴隷のクリストフィーヌといいう黒人女性だったのだけれど。
 さまざまな意味で、いま、世界を見るときに不可欠な、視座の転換を確認できる作品である。

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付記:1999年1月24日付「北海道新聞」に掲載されたものに加筆しました。

2007/10/29

わたしの好きな本(1)『ハーレムの少女 ファティマ』


 ときどきこんな書評コラムもアップします。これまで書いたものが中心ですが、ずいぶんむかしのものも顔を見せます。へえ〜、そんな本があるんだ、と新鮮な気持ちで読んでくれる方がいることを願って…!
 まず第1回はファティマ・メルニーシー著/ラトクリフ川政祥子訳『ハーレムの少女 ファティマ』(未来社、1998年刊)。
 9年前に出たものですが、この本の中身はいまもって新しい!
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 モロッコの古都フェズを舞台にした、8歳の少女の目で見た女たちの日常生活の物語。そう書くと、なんとなくわかったような気になるかもしれない。
 でも、読み進むうちに、そんな思い込みは子気味よく裏切られる。
 むしろ、読み手である私たちのなかには、いまだにイスラム世界の内側、ベールに隠された暮らし、といったステロタイプなイメージとして、彼女たちを「未知の世界」に閉じ込めておきたい欲望が、意識されないまま眠っているのではないか。この本を読んでから、私はそんな疑問にとらわれている。
 過去百年にわたって、西欧キリスト教世界を通して見た世界観を否応なく学ばされてきた日本人にとって、これは新鮮な驚きや発見が随所にちりばめられている本だ。
「ハーレム」ということばひとつとっても、私たちが抱いているのは「権力を握った一人の男が多くの女性を囲っている後宮」といったイメージだけれど、そんな思い込みはさらりとくつがえされる。
 イスラム世界では、決しておろそかにされてはならないフドゥード(神聖な境界線)によって、多くの不自由を余儀なくされながらも、女たちは束縛の裏をかく術をみごとに発達させ、したたかに、賢明に生きてきたこと、そして、いまも生きていることが、少女の目を通して活写されていくのだ。
 なかでも私を爽快な思いにさせてくれたのは、主人公ファティマの母方の祖母、農場に住むヤースミーナだ。町中に住む女たちよりもずっと行動範囲が広くて、馬を乗りまわしたり、自然のなかで生き生きと暮らす場面が、じつに印象的。とりわけ、大勢の女たちが川べりで、競争しながら皿や鍋を洗う場面は圧巻。
 著者、ファティマ・メルニーシーは1940年生まれの、著名な社会学者で、モロッコ、フランス、アメリカで学び、海外で初めて博士号を取得したモロッコ女性だという。目からウロコの好著。
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付記:1998年10月初旬、共同通信社が配信したものに加筆しました。
(2001年9月以降、イスラム世界の情報はぐんと増えましたが、ごくふつうの人びとの暮らしが見えるものは、どうなのかしら?)

2007/10/28

チヌア・アチェベにマン・ブッカー国際賞


 「近代アフリカ文学の父」といわれるナイジェリアの作家、チヌア・アチェベ(Chinua Achebe)がこの6月にマン・ブッカー国際賞を受賞した。この賞は隔年に受賞者が発表され、個別の作品ではなくその作家の仕事全体にあたえられるもので、賞金は6万ポンド(約1400万円)。
 1958年に出版されたアチェベのデビュー作『Things Fall Apart/崩れゆく絆』はこれまで世界中で1000万部以上も売れた超ロングセラーだ。200ぺージほどの小説だが、アフリカ文学を知るためにも、植民地化による近代アフリカ社会の変遷を知るためにも、必読の書といっていい。70年代に邦訳が一度、出たようだが、現在は入手困難。ぜひ新訳で読みたいものだ。
 受賞後、アチェベはBBCに対して「アフリカ文学がやろうとしてきたのは、世界文学という概念の枠を押し広げることだった──そこにアフリカを含めること、アフリカは含まれていなかったわけだから」と述べた。この作家が『闇の奥』を書いたジョゼフ・コンラッドを「べらぼうな差別主義者」と呼んだことが長いあいだ、英文学者たちのあいだで物議をかもしてきたことを考えあわせると、エキゾチズムではないアフリカ文学が世界文学のなかに正当な位置を占めるためには、半世紀の道のりが必要だったということだろうか。「英文学」から「英語(圏)文学」へと視点の転換が進む時代に、現在76歳のこの作家の存在を評価せざるをえない時代になってきた、と考えていいのだろうか。

 若手作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ──アチェベとおなじイボ民族出身──がガーディアン紙に、尊敬する大作家の受賞を喜ぶコメントを寄せていた。彼女自身この7月に、ビアフラ戦争の内実を克明かつ人間的に描いた2作目長編『Half of a Yellow Sun/半分のぼった黄色い太陽』でオレンジ賞を受賞したばかり。

 ビアフラ戦争というのは1960年代末に、石油資源の利権をめぐってナイジェリアで起きた内戦で、その後もこの国はアフリカ諸国の例にもれず、「資源があるゆえの」政情不安定に悩まされている。
 しかし、豊かな口承文芸を背景に持つ、アフリカ最大の多民族国家であるナイジェリアはまた、南アフリカとならんで、多くの文学者を生み出してきた国でもある。しばらくは、ナイジェリアから目が離せない。
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付記:2007年8月28日付「北海道新聞」に掲載したコラムに加筆しました。

2007/10/19

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(5)

 思えば、この作家の笑顔の写真はそれほど多くはない。翌30日、「ベケットを見る8つの方法」と題した講演で、クッツェー氏は写真に残るベケットやカフカの眼差しは、凍りついたような視線、犬のような目、といったことばで語られることが多いが、イメージと実物には大きなズレがあるのではないかと疑問を投げかけた。
 カフカはよく「ミスフィット」という語とともに語られるが、じつはこの作家は保険会社につとめる優秀な社員で、写真の眼差しによって作り出され、流布しているパーソナリティとはちがい、同僚たちから尊敬されていたのだ、それにしても「fit=適合する」という語は、たった一音節ながら、なんと容赦ないことばだろうか、と。その前に延々とくり返された「サルとおぼしき生物=it と餌の入った箱の話」は、とどのつまり、「生き延びるための適応」を意味する、この「フィット」に繋がっていたのではないか、それに続く写真と眼差しの話も、冷たい、気難しい、人嫌い、といわれてきたクッツェー氏自身について暗に語っていたのではないか、とわたしは妙に納得した。この作家の境涯とも、じゅうぶん重なるように思えたからである。

 南アフリカ社会でアウトサイダーとして育ち、1960年のシャープビル事件のあとに故国を出る決心をし、大学卒業後にケープタウンを飛び出して行った先のロンドンでは、旧植民地生まれの部外者として歓迎されず、その後わたった米国からもヴィザの発給を停止されて、1971年に31歳で、アパルトヘイト体制の南アへ覚悟の帰国を余儀なくされたクッツェー氏は、以来、検閲制度をかいくぐりながら密度の高い小説作品をつぎつぎと世界に送り出してきた。解放から5年後、息子の死からちょうど10年後に、ようやく、のびやかな筆致で書いた『恥辱』を発表したが、アパルトヘイト撤廃後の南ア社会で生きる人たちを容赦なく描いたこの傑作は、翌年5月「人種差別的だ」として政府与党と人権委員会から公的に批判されることになる。
 2002年、クッツェー氏はついに南アを離れた。(作家自身は、あるインタビューで「祖国を出るのは離婚に似て内密なものだ」として、その理由をはっきりとは語っていないが、南アを離れたことは『恥辱』をめぐる批判や、その後の出来事と無関係だとは思えない。)(付記/2015.11.13:その後、J・C・カンネメイヤーの伝記などによれば、クッツェーがオーストラリアへ移住する計画を立て始めたのは1990年代の早い時期で、1999年の時点ですでにその計画はかなり進んでいた。したがって『恥辱』をめぐる騒動はたんなる偶然の一致だったことが明らかになっている。)そして03年10月にノーベル文学賞を受賞し、06年3月にはオーストラリアの市民権を得るにいたった。

 顔写真には撮影者と被写体となる人の関係がはっきり出る。9月29日の初会見の最後にわたしが撮った写真も、いざ現像してみると、ほおのあたりは笑っているのに、深い悲しみをたたえたような目もとは、とても厳しい。
 だがしかし、である。翌日、2時間半におよぶ講演が終わって、サインをもらう読者の長蛇の列からようやく解放されたクッツェー氏に、挨拶のために近づいて行ったときのことだ。
 「こんばんわ」といって手を差し出すと、一瞬「誰だ?」と相手を射すくめるように凝視したあと、その顔にこぼれんばかりの、破顔の笑みが浮かんだのだ。鋭く光る目の下には、これまで頑固に、厳しく、自分を律して生き抜いてきたことを思わせる、無数の皺が刻まれていた。
 そのときわたしは一瞬のうちに理解した。彼が見せるこの微笑みは、やがてわたしの記憶のなかで、飴色の光を放ちはじめることになるだろう、と。(了)☆☆☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/18

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(4)

 確かめておきたいことがひとつあった。作家のミドルネーム「M」をめぐる欧米メディアの対応に関するものだ。ある新聞にすでに書いたことだが、ここでも再度書いておきたいと思う。
 作家の名前はジョン・マクスウェル・クッツェーで、作品にはデビューから一貫してJ・M・クッツェーと記されてきた。しかし欧米の主要メディアはこれを、ジョン・マイケル・クッツェーと勝手に読み替えてきた。米のニューヨークタイムズ紙も、英のタイムズ紙やガーディアン紙も、仏のルモンド紙も。はては文学事典の類いまで。いくつかの根拠から「マクスウェル」が正しいことはわかっていた。
 1999年の『恥辱』で2度目のブッカー賞を受賞したとき、長年購読してきた南アの新聞「メール&ガーディアン」にも「マクスウェル」とあったので、やはり、とうなずいた記憶がある。しかし、なぜ欧米のメディアが訂正しないのか、疑念は晴れなかった。そこへ2003年10月3日のノーベル賞受賞記事内に、米のニューヨークタイムズと英のガーディアンが記者の署名入りで「生まれたときはマイケルだったが、それをマクスウェルに変えた」と書いた。この辻褄合わせを迂闊にも、わたしは真に受けてしまったのだ。
 「生まれたときからマクスウェルで、名前を変えたことはない」と彼が、静かに、確固たる口調で語るのを聞いたとき、あれは確かめもせずに作り上げた記事だったのだ、とそれを鵜呑みにした自分が恥ずかしかった。
 さらに「フランス語訳の『少年時代』でも裏表紙にジョン・マイケル・クッツェーと書いてありましたが」とたたみかけると、氏からは「彼らはジャン・マリー・クッツェーとまでいったんです!」ということばが返ってきた。大きな声ではなかったけれど、抑えた語気は烈しかった。
 なぜこういうことになるのか。このようなズレがなぜ起きるのか。ずっと考えてきて思い至ったのは、この作家のスタンスはある意味で、西側メディア、とりわけ欧米諸国のメディアが流す情報と事実との差を可視化することに貢献している、ということだった。ズレはそのまま放置する。一方的な決めつけをして恥じないのは、気づかなければならないのは、メディア自身なのだ、と。これは『マイケル・K』の第2章で医者が主人公の名前を誤って「マイケルズ」と呼びつづけたり、『フォー』で舌を切られて発語できないフライデーのある動作に、主人公が勝手な意味づけを行ったり、といった場面を書き込むことで、「名づけ」をめぐる権力構造を可視化させる手法にも通底する。

 話は音楽のことや彼が訳したオランダの詩人たちの作品、あるいはその訳詩集に彼が書いたオランダの国民性のことなどにおよび、ふたたび日本語の翻訳書へともどっていった。日本では一般に翻訳書には「訳者あとがき」というスペースがあることなど、作家にとっては耳新しい話だったようだ。
 そして「クネーネの叙事詩の翻訳にはとても苦労しました。その翻訳の最中に『マイケル・K』を読んだのですが、それがオアシスのように感じられて」というわたしのことばに、作家は「ふふっ」と笑い声をもらした。(つづく)☆☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。