アデレードに着いたとたんに目に入った樹木、それはジャカランダだった。もう花の盛りはすぎてはいたが、若葉の季節にまだ美しい色合いを見せていた。左の建物はアデレード大学構内にあるエルダー・ホール。内部は教会で、イベント初日の夜にJ・M・クッツェーの朗読会が開かれたところだ。
アデレードに向かって出発する前の一週間は、なぜかシーンと静かだったメールボックスが、10時間あまりのフライトのあとホテルに着いてPCをセットアップした途端に、新着メールがいくつも届いていて驚いた。そのなかに詩集『記憶のゆきを踏んで』の一編「ピンネシリから岬の街へ」を今年の「現代詩手帖年鑑」に入れたいというメールがあった。
詩のタイトルの裾に「──JMCへ」と入っている通り、これは1960年代にケープタウンからロンドンへ渡った青年ジョン・マクスウェル・クッツェーに捧げる詩なのだ。詩集を2日後にクッツェー自身に手渡す予定だったのだから、まさに good timing!
もちろん作家は日本語が読めるわけではないけれど、でも彼は若いころ中国語を学んでいるため、漢字はある程度読めるのだ。
翌日は、初夏のアデレードの青紫のジャカランダの花びらをながめながら街を歩いた。オーストラリアはアジアに近い。アデレード大学構内にあるのは、教会ばかりではない。こんな孔子像も立っていたのだ。
アデレードに向かって出発する前の一週間は、なぜかシーンと静かだったメールボックスが、10時間あまりのフライトのあとホテルに着いてPCをセットアップした途端に、新着メールがいくつも届いていて驚いた。そのなかに詩集『記憶のゆきを踏んで』の一編「ピンネシリから岬の街へ」を今年の「現代詩手帖年鑑」に入れたいというメールがあった。
詩のタイトルの裾に「──JMCへ」と入っている通り、これは1960年代にケープタウンからロンドンへ渡った青年ジョン・マクスウェル・クッツェーに捧げる詩なのだ。詩集を2日後にクッツェー自身に手渡す予定だったのだから、まさに good timing!
もちろん作家は日本語が読めるわけではないけれど、でも彼は若いころ中国語を学んでいるため、漢字はある程度読めるのだ。
翌日は、初夏のアデレードの青紫のジャカランダの花びらをながめながら街を歩いた。オーストラリアはアジアに近い。アデレード大学構内にあるのは、教会ばかりではない。こんな孔子像も立っていたのだ。