Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2023/06/23

「恋愛」をめぐる UNLEARN

つい先日も日本のジェンダーギャップ指数125位 前年より後退、G7で最下位というニュースが流れたばかり。

 ブログ内を検索していたら、ちょうど5年前に書いた「はきちがえのはきだめから脱出するには?」という投稿を見つけた。

 80歳を過ぎた男性作家であるJ・M・クッツェーが書いた『ポーランドの人』(白水社)を、日本語に訳出した記念として、再度ここにアップしておく。光が当たっているテーマは、両者に通底しているからだ。日本語社会の周回遅れ、なんとかしたい!
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6月22日(2018年)

某大学教授で文芸評論家でもあるという60代の男性がセクハラで訴えられた。ニュースなどのことばを読むかぎり、自分が特権をもつ位置にある教育者だという認識が著しく欠如している。文学者であることで免除されると本人が思い込んできた長い歴史と、まあ仕方がないとそれを許してきた周囲の教育者・文学者などの価値観の、すべてが時代後れでゴミ箱に入れて削除してしまいたいようなウイルス性有害物と思われる。

 文学者であることを名乗るなら、まず、「恋愛」という表現の定義を学びなおしてほしい。

 恋愛感情とは、ひとりの人間がもうひとりの人間を、とても、とても大事に思い、憧れ、その人を独占したい、欲しいと思う性的欲望をも含んだ感情のすべてを呼ぶのだが、同時に、相手から自分もまたおなじように大事に思われ、憧れられ、独占したいと思われ、欲しいと思う性的欲望をもたれたいという気持ちであって、あくまで「対等な関係」が底になければ成立しないはずだ。それが近現代の思想的な始まりだったのだと。

 某教授のいう感情はまったくそれとは異なり、60代のオスの欲望にきれいなことばの衣をかぶせたものにすぎず、相手との「対等な関係」などまったく眼中にないものであることは疑いの余地がない。文学者として、これを「恋愛感情」などとゆめゆめ呼ばないでほしい。はなはだしく意味をはきちがえているといわざるをえない。近現代の日本の男性文学は(まあ女性文学もある意味)、この「はきちがえのはきだめ」からどう出られるか、が根底的に問われているような気がするが、どうだろう。

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2018年の付記:

備忘としてfacebook に記したオピニオンを転記しておく。ちょっと語調はあらいけれど、それも含めて。希望も含めて。

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2023年の付記:だから対等の人間として相手を見ているなら、「俺の女にしてやる」とか「俺の恋人にしてやる」とか「俺の女房にしてやる」という表現は全く出てこないはずだ。相手のことを深く知りたい、理解したい、という気持ちが相手に受け入れられたとき初めて、相互のやり取りが始まるんだ。一方的な「妄想」に突っ走ってしまわないことが、めっちゃ大切なんだよな。

追記:まあ、人間として対等であることは大前提だけど、恋愛感情のバランスに不均衡があるときは──そしてこれはいつの時代もとても多いんだが──悲しいかな、どちらかに悲恋、失恋が待ってるわけだけどね。でも支配、被支配の関係を示す「俺について来い」とか「お前を幸せにする」といったセリフが横行した時代が、ホント長かった。それって、どんだけ「主従の関係」を反映しているか、足元から考え直したほうがいいよね。いまだに自分の夫を「主人」と呼んでる女性たちも、もちろん男女問わずに「オタクのご主人」という人たちも!