2011/04/29

「日本」という現場、個々人のフロント

こういう発言をする人がいる、ということに同時代人として希望を感じる。

小出裕章氏:

どこかにモデルを求めてはいけないと思うんです。今あるのは、私たちのこの「日本」という現場があるわけで、それをどうやって変え、どういうところにもっていけるかという、たぶん、そういうことしか意味がないだろうと思います」

「ですから、東京みたいなきらびやかな街をつくることが豊かだと思ってる、六本木のような街を豊かだと思う、それは私は全然違うと思っています」

「私は、聞いていただいたように「東京の街づくりが間違えている」と言ったわけで、いわゆる大都市のつくり方が間違えている。それは逆に言えば、過疎地のつくり方も間違えているということです」

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「野に暮らす」と書いて「野暮」というが、しばらく前から「野暮」のどこがわるいの? とわたしは、ことあるごとに反論することにしている。おしゃれな都会の洗練された「粋」がもっともすばらしいものとされてきた、日本の中央文化主義の価値観そのものを変えることはできるだろうか? 

 原発をめぐる日本人の心の動きは、この文化の問題と不可分に結びついている。
 
 もちろんそれは田舎の、過疎地の、農業などを営む人たちの心や人間関係のあり方とも不可分だ。

 集団でも組織でもない、個人、が立ちあがるか、社会、ができるか、試されている。