Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/04/03

ぶれずに怒りたい、正しく怖れたい

 あちこちのブログから、今回の原子力発電所の事故後の政治やメディアをめぐって、はっきりと「原発ノー!」という声が聞こえはじめた。その特徴は、これまでの「便利で」「快適な」「都会型」の生活を根本的に見直そう、という論調に裏づけられている。

 たとえば、norah-m さんの「福島原発事故によせて」
 それを引用した Mon pays natal さんの「山川草木鳥獣虫魚のために」
 あるいは、ハマイカブレイクさんの「ことばのポトラック」について書いたことばたち

 これほど大きな汚染とダメージを土に、水に、海に、それをたよりに生きている生き物すべてにおよぼしながら、人びとの生活を徹底的に破壊した「人災」である原発事故を避けることができなかった「知識人」「専門家」たちの責任のがれと、論理のすりかえの巧みさは、いったいどこからくるのだろう? 本当にことばを失う。いまだに原発を推進するというこの国の政治は、富めるものの経済利益を調整するだけなのか。

 彼らが「ことば」を専門にあつかう権力をもつ人たちであることにも、打ちのめされる思いがする。
 
 でも、あきらめるのはまだ早い。生きているかぎり、あきらめるのは自分の人生を放棄することに等しいのだから。

 理不尽なことには「ぶれずに怒りたい!」 放射能はいたずらに不安がらず、信頼できる人たちから情報をえて「正しく怖れたい!」
 
(写真はネット上で見つけた50〜60年代?の日本)