Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/04/16

このくにを捨てばやとおもふ更衣

このところずっと考えてきたことを言い当ててくれた翻訳家がいます。
 それまでほとんど毎日のように更新されていたブログが、3.11以降ぴたりと止まってしまい、どうしたのかと思っていましたが、今日のブログを読んでわかりました。池田香代子さんのブログ

「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」という表現をtwitterで発見した池田さんはこう述べます。

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「ふくいち」とは、言わずと知れた福島第一原子力発電所のことで、東京電力がつけた略名です。親しみ深さを狙っているのでしょう。それをそのまま受け止めて、「つもり」という語をつなげて、恐ろしい過酷事故を起こした原発をかわいらしく擬人化しています。過酷事故による放射性物質放出も、「もくもくする」とユーモラスに表現しています。

「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」

そう書いた方に、この事態を矮小化する意図はなかったでしょう。そうではなく、「ふくいち」にこうして呼びかけて、哀しみを表現しているのだと思います。これが私たちの、綿々と続いている心性なのではないでしょうか。「私たち」がどのような範囲を示すのか、私にはわかりません。古来、この列島に住まう人びとなのか、アジアなのか、その一部なのか、あるいは地理的境界に意味はなく、権力からの遠さが「私たち」を規定するのか。わからないままに「私たち」と言っています。

怒るのではない。そこにあるのは哀しみ。どんな凶悪な厄災にも、「ふくいちよう」と呼びかけて、呼びかけ可能なものに変換して、引き受ける。引き受けてしまう。逃げない。たたかわない」

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 これを読んで思いました──日本人ってホントに、どうして怒らないの?(今日ばかりはステロタイプにも「日本人」ということばをわたしも使います!!)これほど生命が軽んじられているというのに。こんな理不尽がおこなわれているというのに。憤怒はふつふつとわいてきます。憂いに沈むこともあるけれど、沈んでばかりもいられないじゃない・・・子どもたちのことを考えると。

 再度いいたい! 地震と津波、これは天災です。でも、原発事故はあきらかに人災です。人災は人が作り出した災厄です。おなじ過誤をくりかえさないために、徹底的にその原因を明らかにして、責任の所在も明らかにして、防御する手だてを講じることができます。だから、

 人災を天災みたいに受け入れないこと!

 無力感におちいらないためにも、本来はメディアは決定権をもつ人たちの行動をチェックしなければならないはずです。決定権をもつ人=権力をもつ人です。ジャーナリズムは権力をチェックする、メディアの存在意義はそこにある。

 ことばに関わる人間の「希望」もそこと深くつながっているはず。

 日本のメジャーなメディアが世界中から批判されているのは、ここではないか。とりわけTVは・・・わずかな例外をのぞいて権力の出先機関になっている。その構造を日本人は受け入れてきた? はるむかしから? そんなのいやだな、わたしは。生きているかぎり。

 多くの人がたたかわない? ずっと、ずっと? 命じられたことはするけれど、ひとりの個人として、おのれの心の底の声を聞いて、なにものかに抗い、たたかうことがない? たたかうという行為がいま一人の「他者」を発見すること、「他者」へはたらきかけること、「他者」との連帯=愛をも可能にすることなのに。諦観は、その愛する行為を始めないことなのに。

 なぜ??


 この国を捨てばやとおもふ更衣   流火

むべなるかな。
 これは太平洋戦争に青年将校として行った人が戦後あるいてきた結果を自問する句です。ひとりの個人が(おそらくはかつて自分を一体化させた)「国」と向き合い、それを問うところまでは進んだ。でもいま「捨てばや」と思ってみても、生きている限り、愚直にこの先も歩いていかなければならないことを多くの人は知っている。ひとりひとり、この土地を、この「日本語という島」を、このときを。だから、もうそんな「あわれ/我=彼」心情のうちに留まってはいられないわね。

*ネットから拝借した写真はわたしの大好きな北国のリンゴの花。