どんな災厄が襲ってきても、毎年、春はやってくるのだ。「春をうらんだりはしない」という詩を思い出す季節はやってくるのだ。
またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
あの有名なヴィスワヴァ・シンボルスカの詩(沼野充義訳)だ。今年もまた、この詩のことばを一行一行、噛み締める。
ところが、いざ音楽を聴いてみると、こっちの耳が軟弱になっているのか、どうも音が硬い。友人によると、心地よい音になるまで30時間くらいかかるそうだ。がんがん好きな音楽をかけて、装置自体をならす必要があるらしい。ふ〜ん、そうなのか。これまでそんなことを意識したことはなかったなあ、やっぱり聞き手の変化かなあ、などと思いながらいろいろかけてみる。
外は小雨。気温もぐんぐん下がっていくが、室内はふんわり暖かく、しかし輪郭はシャープなオーボエの音色が響く。これで「暗い日曜日」は乗り切ろう。
今日はクッツェーが1977年に書いた「The Burden of Consciousness in Africa/アフリカにおける自覚という重荷」というエッセイを読んだ。南アフリカが輩出したアフリカーナの天才詩人にしてナチュラリスト(ここが臭いのだが)といわれるユージン・マレーの後半生を映画化した「The Guest」(1976)という作品の評だ。ユージン・マレーを演じるのが劇作家/俳優のアソル・フガード、監督がRoss Devenish/ロス・デヴェニッシュ。南アフリカ白人の自覚のありようにも、映画の作り方にも、なかなか手厳しい評だった。
なぜこれを読んだかというと、『サマータイム』の「マルゴ」の章に、ヒヒを観察するユージン・マレーの話が登場するからだ。ジョンが愛してやまないカルーの風景のなかで、従妹のマルゴにそのことを、ぼつりぼつりと語る場面だ。作中の時代も1970年代の半ばを想定している。
アトウェルはオースティンのランサム・センターでクッツェーの草稿を調べあげている南ア出身の学者で、『ダブリング・ザ・ポイント』というエッセイ集でインタビューアーをつとめた人だ。上のユージン・マレーの映画をめぐるエッセイもこの本に入っている。