Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2014/02/22

「サマータイム」のユージン・マレーとヒヒ、そしてびっくり、第三作目の舞台は最初ケープタウンだった

日々、カンネメイヤーの書いたJ・M・クッツェーの伝記を再読して、クッツェーの自伝的三部作の「訳者あとがき」のためのメモや、作家の詳しい年譜を書いている。発見がたくさんあるけれど、ここに書いてしまうと、本が出たときの楽しみを削ぐことになるので、じっとがまん! でもひとつだけ。
 
今日はクッツェーが1977年に書いた「The Burden of Consciousness in Africa/アフリカにおける自覚という重荷」というエッセイを読んだ。南アフリカが輩出したアフリカーナの天才詩人にしてナチュラリスト(ここが臭いのだが)といわれるユージン・マレーの後半生を映画化した「The Guest」(1976)という作品の評だ。ユージン・マレーを演じるのが劇作家/俳優のアソル・フガード、監督がRoss Devenish/ロス・デヴェニッシュ。南アフリカ白人の自覚のありようにも、映画の作り方にも、なかなか手厳しい評だった。

 ユージン・マレーは薬物中毒で、トランスヴァールの農園にひきこもり、そこでこの中毒から脱しようと試みた時期がある。いったん中毒はおさまったかに見えるが、結局また逆戻りして、最後は銃で自殺することになるのだが、この時期、詩人は自然のなかに身を置いて、ヒヒを観察していた。そう、ヒヒ。
 
 なぜこれを読んだかというと、『サマータイム』の「マルゴ」の章に、ヒヒを観察するユージン・マレーの話が登場するからだ。ジョンが愛してやまないカルーの風景のなかで、従妹のマルゴにそのことを、ぼつりぼつりと語る場面だ。作中の時代も1970年代の半ばを想定している。


 1977年というのはまた、クッツェーが第二作 In the Heart of the Country が出版のプロセスに入ったので、次の作品を書き出した年でもある。実際に読者が目にする第三作は『夷狄を待ちながら』だ。しかし、クッツェーがそのとき書き始めたのはケープタウンを舞台にした暗い恋愛小説で、作風もエミール・ゾラばりのリアリズム。主人公はギリシア系南アフリカ人のマノス・ミリス、コンスタンティノープルの陥落について本を書いている人物だった、というから驚く。時期は革命戦争後で、ロベン島はもはやマンデラら政治囚が補囚されているところではなく、白人難民が国連の船に乗って国外脱出する場所になっていた。

 ところが、ある事件が起きた。そしてクッツェーはそのプランを断念する。ある事件とは、その年、つまり1977年に、黒人意識運動の中心人物、スティーブ・ビコが逮捕され、拷問死した事件だった、とデイヴィッド・アトウェルは書いている。そしてクッツェーが、場所も時代も不特定の架空の舞台を設定して書き始めたのが『夷狄を待ちながら』だったと。南アフリカの検閲制度がこの時期、作家にどのような作用をおよぼしたか。。。

 アトウェルはオースティンのランサム・センターでクッツェーの草稿を調べあげている南ア出身の学者で、『ダブリング・ザ・ポイント』というエッセイ集でインタビューアーをつとめた人だ。上のユージン・マレーの映画をめぐるエッセイもこの本に入っている。
 
 件のエッセイでクッツェーは、「天才」とはヨーロッパのロマン主義が創りあげたものだ、と書く。そして、このロマン主義思想の視点からポストアパルトヘイト社会を描いたのが『恥辱』なのだ、とアトウェルは語る。なるほど、バイロンだものな。ヨーロッパ中心のロマン主義の視点からは、現代の南アフリカという土地で生きようとする娘ルーシーの苦渋の選択の意味は理解できるわけがないのだ。あの作品はそのことを書いているのか。
 さらに、バイロンはクッツェーがテキサス時代に読みふけった詩人らしい、というのも数日前に読んだカンネメイヤーの伝記に出てきた。というふうに、あちこちみんな繋がっていくのだった。ふ〜ん。