2010/11/29

待望の「新版 アフリカを知る事典」

出ていたんですねえ! さっそく買いました。今朝、注文して、夕方には手元に届くところがなんともすごい。日本の、いや、東京だけだと思うけれど、このスピードはすごい。なんというか・・・。アフリカのポレポレタイムの対極!
 
 一昨日もおなじ版元の本、いや雑誌の話だったけれど、これはまったくの偶然。
「アフリカ」をやってる人で、この事典の存在を知らない人はいないし、固有名詞や歴史状況などこの事典を調べない人はいないだろうな、と思う。翻訳やっていて、Google もない時代、この事典にどれほどお世話になったかは、もう計り知れない。いまも、細かなことはやっぱり確認のためにひく。ただ、初版が1989年で、改訂新版が1999年、そろそろ新しい情報がほしいなあ、と思っていたところで、やっぱり出ましたね、ほぼ10年後に。ありがたい!

 さっそく「南アフリカ」の項をぱらぱらする。おお、ズマ政権まで記述されている(まあ、当然か)。もうひとつ、おお、と思ったのは「ンクルマ/Nkrumah」だ。いわずと知れたガーナの初代首相、初代大統領。長いあいだ「エンクルマ」と表記されてきた名前が、ついに「ンクルマ」になった。

「n」で始まるアフリカ人の名を日本語のカタカナで表記するとき、むかしは苦しまぎれに「エン」とつけたけれど、最近はアフリカにはざらにある名前のかたちと知られるようになったからか、「ン」でそのまま表記することが多くなった。たとえばチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの「ンゴズィ」は Ngozi のカタカナ表記。本当はちいさな弱拍の「」なんだけれど、この文字を小さく表記することは日本語では一般的ではないので、いたしかたなく「ン」のまま。

 とにかく、ぎっしり、みっちり情報が詰まっている。表紙はかの有名な、ティンガティンガ。しばらくはこの一冊で遊べる。

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付記:しかし、新たに見出し語として加わったチヌア・アチェベの代表作「Things Fall Apart」が「部族崩壊」となっているのは解せない。おおむかし「クッツェー」を「コーツィー」と紹介した人が命名したものと聞いているが、『崩れゆく絆』としてようやく定着してきたところだったのに、残念だ。

2010/11/27

つらら食い──北海道、石狩の「皿の上の雲」

今月の「月刊百科」に載っている中村和恵の「世界食堂随聞記」は傑作! つらら、を食う話です。

 ああ、つらら! 食いました、わたしも。石狩ではなく、空知のつらら、でしたけど。

 緑色のトタンの三角屋根から軒に吊り下がった、でっかい、でっかい、つららをじゅうのうで、いやスコップでだったか、カチンカチン割って落として、そのうちの、ちょっと細くて透明な、可愛いつららをぽきりと折り取り、紐で両肩からつるしたミトンをはめた手でしっかりつかみ、粉をまぶしたような雪を丁寧にぬぐって、おもむろに口に入れる。痛い! とんがった先がほっぺたの裏を突く。ガリガリ。うん、うまい。ファンタスティックな、不思議な味だ。

 ちなみに、北海道では手袋は「はめる」ではなくて「はく」といいました。いまもいうかな? 東京に出てきてもうずいぶんになりますが、この口調はいまでもつい出てしまい、よく家人に笑われます。

 つららばかりか、雪も食いました。まっさらな粉雪、気温が零点下もぐんと下がると、ふわふら落ちてくる雪が結晶そのものになって、目に見えるのです。視界は、白さの欠片もない東京に長くなって、いまさらながらに考えると、もうファンタジーそのもの。ああ、そうか、わたしは子ども時代、別に幻想小説なんか読まなくても、幻想に包まれる暮らしをしていたのかもしれない。
 
 そんな子どものころの記憶を、エッセイスト、中村和恵は見事にすくい取って、目の前にならべてくれます。北国が好きな人、雪や氷が好きな人、必読です!

2010/11/26

Nefeli's Tango/Here Comes the Sun など

このところ音楽のことを書いていない。最後に書いてからもうずいぶんになる。なぜか?
 答えは簡単、あまり聴いていなかったからだ。いつのまにか遠ざかっていた。それほど今年の夏は暑く、それにつづく秋も、さまざまな理由でゆっくり音楽を聴く時間に恵まれなかった。

 音楽を耳に注がない時間が長くなると、心が渇いてくる。放っておくと渇いた心がひび割れる。今年は、ひびが入る寸前まで行ったような気がする。ようやくそこから抜けることができた。ある「事件」のおかげだ。

 2日ほど前のことだ。あるパーティーで思いがけず音楽が流れてきた。50代の1人の男性がこぶりのギターをかかえて歌いだした。クラシックギターをふたまわりほど小さくしたギターにスチール弦をはったものだった(せっかくそのギターの名前を教えてもらったのに、もう忘れている/涙)。もう1人の男性が加わってデュエット。曲は60年代のS&G(もちろんよく知っている曲なのだけれど、曲名が思い出せない!)、そして2曲めはビートルズの "Here Comes the Sun" だった。
 一気に飛んだ。時間がぐんぐん遡って、くらくらするような渦のなかにいた。なにかがほぐれていった。

 今日はひさしぶりにCDをかけている。ハリス・アレクシウの「Nefeli's Tango」。昨年の夏、毎日、毎日『半分のぼった黄色い太陽』の翻訳と格闘していたとき、よく聴いた曲だ。でもそのときはCDではなく、YOUTUBE にアップされた、美しい、ギリシャのスコペロス島の映像といっしょだった。バックがこの曲 "Nefeli's Tango" だったのだ。おかげで猛暑と缶詰仕事を乗り切ることができた。

 音楽に感謝! そして音楽を愛する人たちにも、深く感謝!!

(ちなみに、上の写真は、ニーナ・シモンの有名なアルバム「Here Comes the Sun」)

2010/11/18

切り抜き帳「作品が面白いのは作者が面白いから」

「作品が面白いのは作者が面白いからだ。作品がどんなに素晴らしくたって作者がつまらない人間だったら、その作品と作者に寄り添って人生を賭けられないじゃないか。文学作品を読むのは、作品を評価するためではなく、生きていくうえでのアイディアを得るためなのだから。」

 まったく同感! 

 たったいま届いた本の帯に書かれていることばだ。忘れないうちに書きつけておく。「文学作品を読むのは評価するためではなく・・・」というところに深くうなずいてしまった。そう、「その作品と作者に寄り添って人生を賭け」ること、文学作品を長い時間をかけて翻訳するときも、このことばは深い真実味を帯びてくる。
 こんなしゃれた、心憎いことばを「あとがき」に書くのは、インスクリプトから出たこの本の著者である。
 

2010/11/16

ANC政権とたたかう87歳のナディン・ゴーディマ

サッカーのワールドカップが終わった南アフリカで「情報保護法案」をめぐる報道が目につくようになった。
 国益のため国家機密の保護をうたう法案だが、もし成立すると出版禁止や自由な議論の場が失われてアパルトヘイト時代に逆戻りする、と作家やジャーナリストたちは強く反発している。

 今月87歳になるノーベル賞作家ナディン・ゴーディマが、アンドレ・ブリンクやジャブロ・ンデベレ、ジョン・カニ、J・M・クッツェーなど、そうそうたる人物が名を連ねる嘆願書をズマ大統領に提出したのが9月上旬。さらに同月下旬、彼女はスウェーデンのヨーテボリで開かれたブックフェアに参加し、聴衆に法案反対の署名を呼びかけた。


 ヨーロッパ第2の規模を誇るこのブックフェアの、今年の焦点は「アフリカ」。ラトビア、エストニアなど、通常一カ国をテーマとするのにアフリカを一国扱いするのは、と批判もあったが、ゴーディマなど総勢70名の作家が28カ国から招かれた。

 20年前は自他ともに認める反アパルトヘイト闘士で、1990年2月までは非合法だった解放組織アフリカ民族会議(ANC)の隠れメンバーだったゴーディマはいま、政権党となって金銭をめぐる腐敗のうわさが絶えないANCと真っ向から闘う立場に立たされている。

「それはもう皮肉をはるかに通り越している」とこの作家はインタビューで語る。「人々は自由を手に入れるために死に、大きな代償を払って自由を手に入れたと思ったのに、またしてもその自由が脅かされているのだから」と。

 南ア国内ではこの法案に各界のリーダーたちも反対の態度を表明し、市民レベルの「R2K(Right to Know=知る権利)キャンペーン」も立ちあげられた。国外からの圧力も強い。

 憲法で保証された「情報へのアクセス権」をめぐる動きがどうなるか、それは今後この国がどこへ向かうかを知る重要な手がかりとなるだろう。

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付記:2010年11月9日北海道新聞夕刊に掲載されたコラムです。

2010/11/05

「群像」12月号にチママンダ来日のことを

講談社の月刊文芸誌「群像 12月号」に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ来日をめぐるエッセイを書きました。

 まあ、裏話みたいなものです。タイトルは「チママンダ旋風が残したもの」。よかったら、ぱらぱらしてみてください。

2010/11/01

アディーチェの記事が載りました

9月末に来日したチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのインタビュー記事が、今朝の朝日新聞「GLOBE」に載りました。9月27日に行われたインタビューを主体に、24日に早稲田の大隈講堂で行われたスピーチの内容も組み込まれています。

 27日はあいにく外は雨で、肌寒い一日でした。でも写真のように、アディーチェはノースリーブ。あの thoughtful な眼差しがじっとこちらを見つめています。
 

2010/10/29

アディーチェが月曜/11月1日の朝日新聞「GLOBE」に・・・

朝日新聞には、月に2回発行される「GLOBE」という別刷りがあります。本紙より少し白い紙が使われた全8ページの抜き出しで、面白い特集が載ります。

 昨年8月3日号には、この夏他界した歴史家トニー・ジャットが載りました。カメラをじっと見据える、悲しそうな、すばらしく真摯な表情に心うたれて、あの大部な著書『ヨーロッパ戦後史』上下巻(みすず書房)を購ってしまいました。
 そのときの写真に写っていた彼の悲哀をおびた眼差しが、すでに自らの発病を知っていた人の視線であったことは、うかつにも、今年8月、彼がALSによって他界したと報じる「Guardian」の記事を読むまで知りませんでした。

 その「GLOBE」の11月1日発売号に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのインタビューが載ります。上記のジャットの記事とおなじ、「著者の窓辺」コーナーです。
 インタビューは9月に来日したときのもので、アディーチェの大きな写真も載ることでしょう。

 ご注目ください!!

2010/10/20

日経新聞10月17日に『半分のぼった黄色い太陽』書評

アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』の書評が、日経新聞に掲載されました。

 日経新聞10月17日「世界の秩序と混乱、立体的に」評者:小野正嗣

ネット上には出てこないため、残念ながらリンクできません。(敬称略)

2010/10/10

『半分のぼった黄色い太陽』が21の言語に翻訳された

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのヒット作『Half of a Yellow Sun』は2006年に発表されてから、すでに多くの翻訳が出ている。(詳しくはリエージュ大学のダリア・トゥンカ氏のサイトを参照。)このたび日本語版が加わって21の言語ということになった。

「21カ国語」と書きたいところだけれど、一言語一国家ではないので「◯◯カ国語」とは書かない。 
 日本では「母国語」という表現が長いあいだ、なんの疑問もなく使われてきた。一国家一民族というフィクションが当然のように語られてきた時期とそれは重なる。それが「意図的な幻想」以外のなにものでもないことは、いまさらアイヌの人たち、沖縄の人たち、朝鮮半島出身の在日の人たちのことを持ち出すまでもなく、自明の事実だ。
 ところが、ある年齢以上の人たちにとって、これがかならずしも「自明」ではないところが厄介だ。もっと厄介なのは、現代日本語のなかに「何カ国語」という表現がしっかり根をおろしていることである。だからつい人口に膾炙したその表現に頼りそうになる。おっと、いけない、違う、違う、と意識しなければ、耳障りのよい表現をそのまま使ってしまいそうになる。実際、この表現はまだまだ目にする。とりわけジャーナリズムの世界では厚い壁のように立ちはだかるのを感じる。

 アフリカ大陸出身のたいていの作家にとって「母国語」という表現はあてはまらない。たとえばアディーチェの場合は250以上の民族が住む国ナイジェリア出身で、民族はイボである。「マザー・タング/母語はイボ語ですか?」と質問されると、彼女は「家族や親しい人たちとはイボ語で話すけれど、教育はすべて英語で受けたので、英語で考え、英語で書きます」と答える。

 大学町で育ち、幼いときから英語の本に馴染んで育った彼女は二言語(家の外ではヨルバ語やハウサ語を含む多言語)空間に生きてきた人だ。それでも本音の感情を伝え合うときはイボ語になる。実際、今回の来日時もそんなやりとりを何度か耳にした。この辺はとても微妙。

 以前、南アフリカ出身の人たちと接したときも、それと似たような体験をした。南アでは小学校の低学年までそれぞれの民族言語で学び、途中から英語になる。アディーチェよりは自民族言語で「書く」習慣が多少はあると考えていいのだろう。ズールー語やコーサ語での出版もある。
 アディーチェは、イボ語で書くことは考えられないと語った。『半分のぼった黄色い太陽』では、執拗に「英語で」とか「ピジン英語で」とか「イボ語で」とト書きが入っていて、言語への強いこだわりが書き込まれている。それが語り手の置かれた位置を明らかにもする。
 大学講師のオデニボが「アフリカで白人のミッションが成功した理由は?」と英国人リチャードに唐突な質問をし、「英語で僕は考えている」と述べる場面があった。英帝国による「精神の植民地化」手段としての徹底した英語教育の結果を、憤怒をもって大学人が語る場面だ。

 アディーチェが多くの対談やインタビューを精力的にこなす場面に同席しながら、作中のその場面を何度か思い出した。そして「旧植民地出身の作家にとっての言語」問題の複雑さについて考えていた。

*カヴァー写真は上から、オランダ語版、ヴェトナム語版、イタリア語版、ボスニア語版。
 ちなみに21言語とは、オランダ語、ドイツ語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語、スペイン語、セルビア語、ボスニア語、ギリシア語、スロヴェニア語、イタリア語、フランス語、ポルトガル(ブラジル)語、チェコ語、ヘブライ語、ポルトガル(本国)語、フィンランド語、ヴェトナム語、ポーランド語、シンハラ語、日本語。

2010/10/05

ルーシー再発見/映画「Disgrace」と小説『恥辱』 

 翻訳中のゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』はちょっと横に置いて「もうひとりのデイヴィッド」の物語を読んでいる。デイヴィッド・ルーリー、大学教授、52歳、離婚歴2回。そう、知る人ぞ知る、J・M・クッツェーの傑作『Disgrace/恥辱』の主人公である。

 友人たちがやっている映画の会で次回、スティーヴ・ジェイコブズ監督の映画「Disgrace」を観ることになった。そこで原作本をひっぱりだして読んでいる。映画を観てから原作を読み直すと、いいのやらわるいのやら、映画に登場していた俳優たちの顔がすぐに浮かんできて脳裏から離れない。デイヴィッド・ルーリーはかのジョン・マルコヴィッチだ。う〜ん、である。

 でも、いくつも発見がある。これは面白い。あ、脚本を書いたモンティセッリは、ここをこんな風に変えたのか、と原作とのちがいもよく分かる。これもまた面白い。
 再発見はなんといっても娘のルーシーだ。原作では会話部分のほかは、あくまで父であるデイヴィッドの目からみた娘として描かれているが、映画ではデイヴィッドもルーシーも観る者の視線から等距離。そのため、ルーシーに感情移入することが可能になる。つまりルーシーとの距離が縮まるのだ。

 セクハラで大学の職を失ったデイヴィッドがころがり込むルーシーの家は、東ケープにある。コーサやポンドといった先住民族との土地争奪の歴史が滲み込んでいる土地だ。その土地と「恋に落ちた」元ヒッピーの白人女性ルーシーが、3人組の若い黒人の強盗にレイプされる。それでも彼女は土地を離れない。身ごもった子供を産んで、その土地の人間になって生きていこうと苦渋の決意をするところは、作品後半の重要なテーマである。

 映画を観たあと原作を読むと、ルーシーのこのことばに作者はなにを込めた? といった問いも考えやすい。ルーシーもまた作者クッツェーの分身であることを考えるなら当然浮かんでくるはずの問いが、彼女の「かたくなさ」に呆然となって、小説が発表された10年ほど前はなかなか思い浮かばなかった。

 そんなルーシーに光をあてて再読することで、作者クッツェーと南アフリカという土地の関係もあらためて理解できる時期にきたように思えるのだけれど、どうだろうか。作者はこの小説がきっかけとなったある事件のあと南アフリカを離れたが、ワールドカップの開催もあったことだし、南アの歴史事情も、日本人にとってそれほど遠いものではなくなった、そう思いたいものだ。☆

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2013.7.4付記:2000年に起きたANCや人権委員会からの『Disgrace』への批判と、作家クッツェーがオーストラリアに移住したことには直接的な関係はない。クッツェーが1990年代半ばころからアデレードへ移り住むことを考えはじめ、書類などもそろえていたことはカンネメイヤーの「J.M.Ceotzee:A Life in Writing」でも明らかにされている。たまたま、時期的に重なったため、単純な「理由」をもとめる世界中のメディアと視聴者が飛びついただけなのだ。かくいうわたしも報道されたニュースに振りまわされた。深く反省して、ここに訂正したい。

2010/10/02

ひさしぶりに「水牛」に詩を/アディーチェさん帰国

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさんが帰国して、さまざまなお土産と宿題を残しながら「チママンダ旋風」もひと息。10月を迎えました。
 日本での「アフリカ表象」の問題点と課題は、これから私たちが真摯に取り組まなければならない重要項目です。アディーチェさんの来日と彼女が残していったことばによって、それはさらに明らかになるはずです。対談やインタビューの成果に期待したいと思います。

水牛のように」に復帰しました。右の「Café」トップラインにリンクしましたが、まだしばらくは『半分のぼった黄色い太陽』の余韻が消えないようです。

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明日、10月3日の朝日新聞書評欄に、『半分のぼった黄色い太陽』の書評が掲載されます。