2010/10/05

ルーシー再発見/映画「Disgrace」と小説『恥辱』 

 翻訳中のゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』はちょっと横に置いて「もうひとりのデイヴィッド」の物語を読んでいる。デイヴィッド・ルーリー、大学教授、52歳、離婚歴2回。そう、知る人ぞ知る、J・M・クッツェーの傑作『Disgrace/恥辱』の主人公である。

 友人たちがやっている映画の会で次回、スティーヴ・ジェイコブズ監督の映画「Disgrace」を観ることになった。そこで原作本をひっぱりだして読んでいる。映画を観てから原作を読み直すと、いいのやらわるいのやら、映画に登場していた俳優たちの顔がすぐに浮かんできて脳裏から離れない。デイヴィッド・ルーリーはかのジョン・マルコヴィッチだ。う〜ん、である。

 でも、いくつも発見がある。これは面白い。あ、脚本を書いたモンティセッリは、ここをこんな風に変えたのか、と原作とのちがいもよく分かる。これもまた面白い。
 再発見はなんといっても娘のルーシーだ。原作では会話部分のほかは、あくまで父であるデイヴィッドの目からみた娘として描かれているが、映画ではデイヴィッドもルーシーも観る者の視線から等距離。そのため、ルーシーに感情移入することが可能になる。つまりルーシーとの距離が縮まるのだ。

 セクハラで大学の職を失ったデイヴィッドがころがり込むルーシーの家は、東ケープにある。コーサやポンドといった先住民族との土地争奪の歴史が滲み込んでいる土地だ。その土地と「恋に落ちた」元ヒッピーの白人女性ルーシーが、3人組の若い黒人の強盗にレイプされる。それでも彼女は土地を離れない。身ごもった子供を産んで、その土地の人間になって生きていこうと苦渋の決意をするところは、作品後半の重要なテーマである。

 映画を観たあと原作を読むと、ルーシーのこのことばに作者はなにを込めた? といった問いも考えやすい。ルーシーもまた作者クッツェーの分身であることを考えるなら当然浮かんでくるはずの問いが、彼女の「かたくなさ」に呆然となって、小説が発表された10年ほど前はなかなか思い浮かばなかった。

 そんなルーシーに光をあてて再読することで、作者クッツェーと南アフリカという土地の関係もあらためて理解できる時期にきたように思えるのだけれど、どうだろうか。作者はこの小説がきっかけとなったある事件のあと南アフリカを離れたが、ワールドカップの開催もあったことだし、南アの歴史事情も、日本人にとってそれほど遠いものではなくなった、そう思いたいものだ。☆

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2013.7.4付記:2000年に起きたANCや人権委員会からの『Disgrace』への批判と、作家クッツェーがオーストラリアに移住したことには直接的な関係はない。クッツェーが1990年代半ばころからアデレードへ移り住むことを考えはじめ、書類などもそろえていたことはカンネメイヤーの「J.M.Ceotzee:A Life in Writing」でも明らかにされている。たまたま、時期的に重なったため、単純な「理由」をもとめる世界中のメディアと視聴者が飛びついただけなのだ。かくいうわたしも報道されたニュースに振りまわされた。深く反省して、ここに訂正したい。