2008/07/03

わたしのジャズ修業(3)──ニーナ・シモン

恐かった。こちらをにらんでいる、そう思った。「あなたがたに、わたしの歌が本当にわかるの?」と詰問されているようでもあった。

 大手町のサンケイ・ホールのステージにその人は立っていた。アップの髪に、腕と胸の出る白いロングドレスを着て、ピアノのキーを、太い腕で、力を込めて、叩くようにして弾いた。そして、喉から絞り出すような声で歌った。

 ニーナ・シモン。

「ニューポート・ジャズフェスティヴァル・イン・ジャパン」に出稼ぎにきたのだ。愛想なんか微塵もない。ほかのミュージシャンがお義理で見せる笑顔を、この人は一度も見せなかった。60年代の米国で黒人を中心にして盛り上がった公民権運動、その運動の渦中にいて、ディーヴァだった人だ。

 全然わかっていないのかもしれない、とそのときわたしは本気で考えた。そもそも「わかる」って、いったい何だ? ジャズはいい、ジャズじゃなければ、なんてはしゃいでいるけれど、上っ面をなでてるだけじゃないのか、と痛感したのもこの瞬間だった。まさに、頭から冷水。思えばそのとき、大きな宿題をもらったのかもしれない。黒い塊のような、理解不能のものを抱え込むことになったのだから。
 ニーナ・シモンを自分の部屋で聴くことは、ほとんどなかった。厳しすぎるのだ。疲れて帰ってきて、人は、また叱られるような歌を聴きたいとは思わない。アン・バートンやサラ・ヴォーンなんかのほうが、ずっと気持ちがやわらかくなって、肩の凝りもとれる。

 でも、ひっかかりはずっと続いていた。80年代初め、子育ての真っ最中に、トニ・モリスンの『青い目が欲しい』やアリス・ウォーカーの『メリディアン』を読んだとき、ここにあるのは、ニーナ・シモンの歌声とおなじ水源から流れてきた声だ。ことばになった声だ、つながった! と思った。意識の下で脈々と流れてきた水脈が、あるとき、ふいに、もうひとつの水脈と合流する瞬間だった。わが人生の最初の混乱期から、すでに、10年以上のときが流れていた。
 

2008/07/02

わたしのジャズ修業(2)──ブラウン・ベイビー

ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
おまえが大きくなっていくときは、
たっぷりと入ったカップから飲んでほしいもんだね、
すっくと、まっすぐに立って、胸をはって、
はっきりと、まわりに聞こえる声でしゃべるんだよ。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
年月がたっていくだろ、そのときは、
頭をしっかり、高くあげるんだよ、
正しいことがちゃんと通る規則のなかで、生きられるようになるといいね、
おまえには、自由へつづく道を歩いてほしい、
ちっちゃな、茶色の赤ちゃん、
だからお眠り、ぐっすりとお眠り、
このわたしの腕のなかで、安全に、お眠り、
おまえのお父ちゃん、お母ちゃんがおまえを守ってくれるまで、
おまえに降りかかる危害から守ってくれるまで。
ブラウン・ベイビー、あたしが一度ももったことのないものを、
おまえが手にするようになるなら、あたしは嬉しいよ、
人という人の心から、憎しみという憎しみが全部消えて、
いい子のおまえが、もっとましな世のなかで生きることになるんならね。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー。
             (作詞作曲/オスカー・ブラウン・Jr.)
             ************
 
それがいつだったか、はっきりと覚えてはいない。しかし、どこでこの曲を耳にしたか、それはよく覚えている。青森だ。店の名は忘れた。
 何度目かの夏休みの帰省のときだ。当時、東京から北海道へ帰省するには、上野から夜行列車に乗り、夜明け近くに青森駅について、早朝の青函連絡船に乗り継ぐのが一般的だった。空路はまだまだ高嶺の花の時代。
 青函連絡船の出発時刻までに少し時間があったのか、あるいは、東京へ帰る往路に立ち寄ったのかもしれない。とにかく、そのジャズスポットまでの地図を片手に、青森の街を歩いたことがある。

 地下の細長い店だった。入った途端、ウーン、なかなか良い音が響いているな、と思った。奥のほうに「山水」のスピーカーが2つ、少し内側に顔を向けてならんでいた。中音域の伸びがすばらしいのでボーカル向きといわれた、前面が透かし彫りになった美しいスピーカーである。
 珈琲をたのみ、店内を見まわしていると、パリパリ、と針が盤面をこする音がして、いきなり、その声が聴こえてきた。下腹部に響く、すごい声。ニーナ・シモンの「ブラウン・ベイビー」だった。

 目をあげると、遠くカウンター近くにそのLPのジャケットが飾ってあった。「いまかけているアルバムです」という意味だ。Nina Simone at the Village Gate. そこまではよく覚えている。でも、それが赤と黒のルーレット盤のジャケットだったのかどうか、よく覚えていない。いま手許にあるのは、テイチクが英国版のシリーズを出したLP「ニーナ・シモン・コレクション第6集」で、白地に、歌うニーナの横顔が描かれたものだ。ルーレット盤は、CDとして、随分あとから買った。

 でも、最初のときに受けた衝撃の感覚だけは、何十年たったいまでも、曲を聴くたびにもどってくる。あれから歩いてきた自分の道も、ぼんやりと見えてくる。(つづく)

***** オリジナル歌詞 *****
Brown Baby ──by Oscar Brown Jr.

Brown baby, brown baby. 
As you grow old
I want you to drink from the plenty cup,
I want you to stand up tall and proud,
And I want you to speak up clear and loud,
Brown baby, brown baby, brown baby,
As years go by,
I want you to go with your head up high,
I want you to live by the justice code,
And I want you to walk down freedom's road,
You little brown baby,
So lie away, lie away sleeping,
Lie away safe in my arms,
Till your daddy and your mamma protect you
And keep you safe from harm.
Brown baby, it makes me glad
You're gonna have things that I never had,
When out of all men's hearts all hate is hurled.
Sweety, you're gonna live in a better world,
Brown baby, brown baby, brown baby.

わたしのジャズ修業(1)──樽

 ジャズを聴きはじめたのは1969年の秋ごろだったように思う。4月に入学した大学が、あれよ、あれよ、というまに全学ストライキに入り、授業がまったく行われなくなってから、ほぼ1年がすぎていた。この1年間は、いま振り返ってみても、わが人生における最大の混乱期のひとつであったと思う。
 北の田舎に帰っても、やることがなく、「現場」から引き離されているというもどかしさに、すぐに東京に舞い戻った記憶がある。授業がないので、この期間はすべて独学。なにを学んだかというと、授業ではやらないことのすべてだ。それが現在にいたるまでの人生の基礎、わたしの原型を形づくった、といっても過言ではない。そこで出会ったもののひとつ、それがジャズだった。

 「スイング・ジャーナル」という分厚い雑誌に載っているジャズスポットの名前と電話番号、住所などを、茶色いリングノート(いや、スパイラルノートかな)の裏表紙にびっしりと書き出し、まず山手線と中央線の駅近辺から、手当たり次第にのぞいていった。独りで行動した。あのころ、映画も、ジャズも、本屋も、よほど気のあう仲間でなければ、いっしょに行くということはなかった。なんでも、たいていは独りでやった。そこで自分がまず、なにを聴き、なにを感じたか、それをことばにすることに全力をあげたかった。他人の感想に耳をかたむける余裕がなかったのだろう。

 新宿のピットイン(表の店と裏のライブスポット)、DIGとDUG、アカシア(なぜかロールキャベツが名物)、渋谷のスウィング、デュエット、ついでにホーローびきのカップで珈琲が出てきたブラック・ホークも、お茶の水のNARU、四谷のイーグル、神保町の響とコンボ、新橋の裏通りのビル6Fにあるジャンク、吉祥寺のファンキー(ここはフロアによってかける音楽がちがって、4Fがヴォーカルだったと思う)、ロックが多いビバップ、あちこちのぞいてみたあと、肩の凝らないスポットを見つけた。立教通りの「樽」という店だ。

 池袋から外側へ歩いて30分ほどのところに住んでいたので、大学までの道すがら、ちょっと立ち寄ることができた。そんな利点もあったけれど、毎日のように通ったのは、その店にはとても素敵なウェイトレスのお姉さんがいたからだ。もの静かで、成熟した大人の雰囲気を醸し出しながら、わたしがいつも独りで入っていくとニコッと笑って、つっぱった感じの女学生に決して反感を抱いていないことを伝えてくれた。(当時は、ジャズ喫茶へ独りで入っていく女学生というのは、きわめてまれな存在だったのだ。女性客は、たいていは男性に連れられてやってくるか、面白半分に連れ立って入ってくるケースが多かった。)
 その店はレコードをじかにかけることもあったけれど、カウンターの横に大きなTEACのオープンリールデッキが設置されていて、銀色のリールが2個ゆっくりとまわっていた。音はすばらしかった。珈琲のおかわりが半額、というのもよかった。読みかけの本をテーブルに出して、2時間ほどねばるのが常だった。(つづく)
 

2008/06/29

コサックという犬──『少年時代』より

 犬がほしい、母親はそう決める。ジャーマンシェパードがベストね──いちばん賢くて、いちばん忠実だから──でも、売りに出されているジャーマンシェパードはいない。そこでドーベルマンが半分、ほかの血が半分混じった仔犬にする。その子は自分が名前をつけるといってきかない。ロシア犬ならいいのにと思うので、ボルゾイと呼びたいところだが、本物のボルゾイではないので、コサックという名前にする。だれにも意味がわからない。みんなは、コス・サック(食糧袋)という意味にとって、変な名前だという。
 コサックは聞き分けのない、訓練されていない犬だと判明する。近所をうろついては庭を踏み荒らし、鶏を追いまわす。ある日、その子の後ろから学校までずっとついてくる。どうしても追い返すことができない。怒鳴りつけて石を投げると、両耳を垂れ、尻尾を両足のあいだに挟み込み、こそこそ離れていく。ところが、その子が自転車に乗ると、またすぐ後ろから、大股でゆっくりと走ってくる。とうとう、犬の首輪をつかみ、片手で自転車を押しながら、家まで連れ戻すしかなくなる。激怒して家に着いた彼は、もう学校へは行かないという。遅刻したからだ。
 十分に成長しないうちに、コサックはだれかが出したガラスの砕片を食べてしまう。母親がガラスを排泄させるために浣腸をしてやるが、回復しない。三日目、犬がじっと動かなくなり、荒い息をして、母親の手を舐めようとさえしなくなると、母親はその子に、薬局まで走っていって、人に薦められた新薬を買ってくるよう命じる。大急ぎで薬局までいって大急ぎで戻るけれど、間に合わない。母親の顔はひきつり、うつろで、彼の手から薬ビンを取ろうともしない。
 コサックを埋めるのを手伝う。毛布にくるんで庭の隅の土のなかに埋めてやる。墓の上に十字架を立て、その上に「コサック」と書く。もう別の犬を飼いたいとは思わない。みんながみんな、こんな死に方をするはずはないとしても。
         J.M.クッツェー『少年時代』(みすず書房刊)より
**********
付記:少年時代のクッツェーが南アフリカの内陸ですごしたころのメモワールです。動物への陰湿な暴力を描いたシーンですが、訳したあとも忘れられない場面のひとつです。

2008/06/27

映画『Disgrace/恥辱』のシナリオライターは語る

 J.M.クッツェーの1999年に発表された小説『Disgrace/恥辱』が映画化された。主演がレイフ・ファインズからジョン・マルコヴィッチに変わって(たしか、ファインズの前にも別の候補が噂されていたような…そう! ジェレミー・アイアンズ! この俳優がデイヴィッド・ルーリーを演じるのを見てみたかったナ)、最終的にはオーストラリアのスティーヴ・ジェイコブズ監督、アナ=マリア・モンティセッリ脚本によって完成。撮影は2007年はじめに、ケープタウンとその近郊シーダーバーグで行われ、ケープタウン大学も撮影場所に使われた。
 脚本を書いたモンティセッリは女優からシナリオライターに転じた人で、クッツェーのこの小説を買ったとき、まさか自分がそのシナリオを書くことになるとは思わなかったそうだ。「でも、すぐに、これはすばらしい映画になると思ったの・・・いろんな思想や複雑なものがぎっしり詰まった本だから・・・さんざんスクリプトを読んだけれど、どれも陳腐で意外性に欠けていた。思想ってものがない、というか、自分を見つめさせるような、困難なことに直面させられて、それを否応なく、深く考えさせる論点が含まれていないの」。
 映画を監督したスティーヴ・ジェイコブズはモンティセッリの夫。「THE AUSTRALIAN/2007年7月18日付」に彼女のインタビューが掲載された時点で、2008年の公開に向けて、映画はポストプロダクションの最中だというから、フィルムはすでに完成したと考えていいのだろう。

 アパルトヘイト撤廃後の南アフリカを舞台にした小説『恥辱』の主人公は、「大学改革」に失望した大学教授だ。教えている女子学生のひとりを誘惑したことをきっかけに、彼の人生は混乱のきわみに陥る。モンティセッリによると、このキャラクターは彼女に、映画のなかで、男の欲望と、権力と、偽善を深くさぐりたいと思わせたという。アフリカで映画を製作したいと思っていた、モロッコ生まれのモンティセッリは、映画『恥辱』でその夢がかなったわけだ。

 英国の映画製作会社のいくつかが、この小説の映画化権についてオプションをもっていたため、その期限が切れるのを待って、彼女はこの物語の映画化を熱望する人たちの列に加わった。もちろんその前に、原作者クッツェーに自分のシナリオライターとしてのデビュー作「ラ・スパグノーラ」(2001)を観てもらい、強い印象をあたえておいた。

「わたしにとって最も重要なことは、この本を歪曲しないこと、素材に誠実であることだった」と彼女は述べている。「シナリオを書くための決め手は、登場人物たちがなぜその行動をとるのか、彼らがどのように考えているのか、そのような状況のもとで生きるのはどういうことか、それをきちんと理解することだった。良いスクリプトを書くのは本当に大変だけれど、でも、こつをしっかり理解すれば難しくはなくなるものよ」とも。

 オーストラリアや南アフリカでは、2008年公開が予定されている。
 日本でも、一般上映されるといいなあ!

****************
You ought to be in pictures:THE AUSTRALIAN,July 18, 2007」をもとに加筆しました。

2008/06/22

エデンの園──イナ・ルソー

  エデンのどこかで、この時代のあとになお、
  まだ立っているだろうか、廃墟の都市のように、
  打ち捨てられ、不気味な釘で封印された、
  幸運に見放された園が?

  そこでは、うだる暑さの昼のあとに
  うだる暑さの夕暮れと、うだる暑さの夜がきて、
  黄ばんだ紫色の木々の枝から
  朽ちかけた果実が垂れているだろうか?

  その地下世界には、いまもなお、
  岩々のあいまに広がるレースのように
  縞瑪瑙や黄金の
  未発掘の鉱脈が伸びているだろうか?

  青々としげる葉群れのなかを
  遠く水音をこだまさせて
  この世に生きる者は飲まない、川面なめらかな、
  四本の小川がまだ流れているだろうか?

  エデンのどこかで、この時代のあとになお、
  まだ立っているだろうか、廃墟のなかの都市のように、
  見捨てられて、ゆっくりと朽ちる運命を背負った、
  誤りであると知れた園が?

**************
 この詩のオリジナルはアフリカーンス語。1954年に発表されたイナ・ルソー(1923〜2005)の第一詩集『見捨てられた園/Die verlate tuin』におさめられています。今回は、J.M.クッツェーの英訳からの重訳です。訳者ノートにはこうあります。

「1954年という年は、白人のアフリカーナー民族主義者たちが波にのって、その頂点に登りつめた時代だ。国内的には、彼らが建設しつつあったアパルトヘイト国家に反対する者を徹底的に鎮圧する途上にあり、国外的には、その執拗な反共産主義が西側諸国からの支持ないし黙認を、なんとか取りつけたところだった。彼らがその信奉者に約束した未来は、繁栄と安全である。したがって、この時点であらわれた「エデンの園」は驚きに満ちた、心おだやかならぬテキストであり、しかも、政治的に多岐にわたるどの視界にも入ってこない、若いアフリカーナー詩人の手によるものである。
 形式やイメージは伝統的手法を用いているが、「エデンの園」はあいまいな詩だ。内容的には南アフリカをあらわす形跡はまったく見あたらない──作品が書かれた言語をのぞいて皆無だ。だが、ひとたび「南アフリカ」というキーフレーズが息づくとき、この詩は花のように開いてくる。最初のヨーロッパ人入植者がアフリカの最南端に入植したのは、オランダ人商人が東インドを含むアジア東南部地域へ航行させる船に、新鮮な果物と野菜を供給するためだった。彼らが設計した庭園──いまもモダンな、ケープタウンの中心にある、いわゆるカンパニー・ガーデン──は、ルソーによって、ユダヤ・キリスト教神話の天国の楽園と関連づけられ、ゆえに、堕落のない国家への回帰という、新たな出発の約束に結びつけられている。これはヨーロッパ人によるアメリカスの植民地化に、きわめて強い影響をあたえた約束でもあった。
「mislukte tuin」 つまり、誤りであると知れた庭、あるいは、誤りであると知れた植民地を、見捨てらたものとしてだけでなく、過去の霧のなかに遠くかすんでしまったものとして、ある不特定の未来の日から逆に見つめる、この詩の深いペシミスティックな視点は、ルソーのまわりで未来永劫の彼方まで続くと吹聴されていた、白人キリスト教徒の南アフリカのヴィジョンとは真っ向から対立する」

 1954年という時点で、このような詩を書いていたイナ・ルソーという詩人の作品は、とても気にかかります。

(左の写真は1965年ころのカンパニー・ガーデン)

 

2008/06/15

ブークマン・エクスペリアンス──LIBÈTE

Boukman Eksperyans というハイチのグループがいます。1804年に奴隷たちが蜂起して、世界で初めて黒人共和国を打ち立てたハイチですが、政変、また政変で、人びとの苦悩は絶えません。そのハイチの伝統的宗教、ヴードゥー教と深いつながりをもつ音楽を、すごく楽しめるリズムにのせて奏でてくれるグループ、それがブークマン・エクスペリアンスです。わたしの好きな1995年のアルバム「LIBÈTE(PRAN POU PRAN'L!)/FREEDOM(LET'S TAKE IT!)」から1曲「ガンガ」を紹介します。ガンガというのは数あるヴードゥー教の精霊の名前。オリジナルの歌詞はハイチ・クレオール語です。

GANGA (Traditional)

Anpil koze k'ap pase
Gen je ki la ki pa janm ka wè
Bouch ki la, ki pa janm pale
Zòrèy ki la ki pa janm tande
Men nou menm ki wè, k' tande
Fòk nou pa ret de bra pandye
Zanj yo se sou nou yo mize
Pou nou met lakou yo sou pye
An nou rele Ganga
(Refwen)
Ganga wouke se kon sa Ganga pale
Ganga wouke
E! voye rele Ganga
Ganga wouke se kon sa Ganga pale
Ganga wouke
E se wouke n'a wouke Ganga
Ganga wouke
Wouke, wouke Ganga
Ganga wouke
Se kon sa Simbi koze
Ganga wouke
Kon sa Ganga koze
Ganga wouke
Se wouke, n'a wouke Ganga
He He! Ala yon ti peyi dwòl O
Chak fwa yo panse' n koule
Yo wè'n remonte
Yon jou pou chasè, yon jou pou jibye
Wi se kon sa Granmèt la vle' l
Kèlke swa sa y' eseye
Nèg Kiongo k'ap toujou devan
(Refwen)
Hey Hey!
E ya ya ya!
Yo chèche yo fouye
Men yo pa jwenn
Kote rasin nou ye
Tout bon vre
(Refwen 2x)

LAKOU=「ラクー」は死後の世界


ガンガ(伝承)

たくさん、たくさん、ことが起きてる
まるで盲人みたいにふるまうやつ
まるで耳が聞こえないみたいにするやつ
口がきけないみたいにするやつ
でも、知ってるし、分かってる俺たちは
腕組みして立ってるわけにはいかない
精霊が俺たちを当てにしている
ラクーをこの世にもたらすことを
ガンガを呼ぼう
(リフレイン)
  ガンガが遠くで吠えてる、それがガンガの語り方
  ガンガが遠くで吠えてる
さあ! ガンガを呼び出そう
  ガンガが叫ぶ、それがガンガの語り方
  ガンガが叫ぶ
ほら! 嘆いている、俺たちもガンガに嘆こう
  ガンガが嘆く
悲鳴をあげろ、悲鳴をあげろ、ガンガ
 ガンガが悲鳴をあげる
そうやってシンビは語るんだ
 ガンガが叫ぶ
ガンガの語り方だ
 ガンガがわめいてる
叫んでる、俺たちもガンガに叫ぼう
  ガンガが叫ぶ
ったく、なんて変な国なんだ
俺たちがやられるたびに
俺たちはまた立ちあがる
追っ手のための日、獲物のための日
そう、それが全能の神が望むこと
やつらがどうあがこうと
俺たちコンゴは、勝つ
(リフレイン)
ヘイ! ヘイ! ヤ、ヤ、ヤ!
やつらは探して、掘り返す
でも、見つけられっこないさ
俺たちのルーツがどこにあるか
本当は、本物は
(リフレイン)

2008/06/04

もう森へなんか行かない──(2)

「Ma Jeunesse Fout le Camp/わたしの青春が逃げていく」という曲はフランソワーズ・アルディのオリジナルではなく、ギイ・ボンタンペッリ/Guy Bontempelliの作詞作曲だ。1973年に日本で初めて出たアルバム「フランソワーズ」(ECPM-24)のA面4曲目に収められている。
  
 73年から翌年にかけて、フランソワーズ・アルディの邦盤は、ゴールドディスクも含めるとEPICレーベルだけで6枚リリースされている。このアーティスト、なかなかのヒットだったのがわかる。アルディの歌はのちに山田太一のテレビドラマの主題歌にも使われたそうだ。そんな数ある彼女の曲のなかで、なにはさておき、わたしはこの「もう森へなんか行かない」を推す。切々と歌う白眉の一曲である。歌詞のつづきはこんなふうだ。

  わたしたちはもう、
  スミレを探しに、森へなんか行かない
  今日は雨が降って
  わたしたちの足跡を消してしまうから
  それでも、子どもたちは
  しっかり歌をおぼえている
  でもわたしにはそれがわからない
  でもわたしにはそれがわからない

  わたしの青春が逃げていく
  ギターの奏でる曲にのって
  静かに、ゆるやかな歩調で
  このわたしから離れていく
  わたしの青春が逃げていく
  それは舫い綱を断ち切ってしまった
  その髪のなかに
  わたしの20歳の花を差して

  わたしたちはもう、森へなんか行かない
  すぐに秋がやってくるから
  わたしは退屈を摘み取りながら
  春を待つ
  それがもう帰ってこなくて
  もし、この心が震えたら
  それは夜が来るから
  それは夜が来るから

  わたしたちはもう、森へなんか行かない
  もうわたしたちが、いっしょに行くことはない
  わたしの青春が逃げていく
  あなたの足どりとともに
  どれほどそれが、あなたに似ているか
  あなたにわかっていたら…
  でもあなたにはそれがわからない
  でもあなたにはそれがわからない
 
 フランス人にとって「森へ行く」というのは、軽いピクニックのような感じなのだろうか。ちょっとしたおやつを持って、近くの森へ遊びに行く。仄暗い森のなかには、さまざまな生き物がいて、春ならスミレ摘み、秋ならきのこ採り、子どもは解放感いっぱいで遊び惚け、大人も木漏れ日のなかを散策する。
 ちょっと調べてみると、18世紀に作られた「Nous n'irons plus au bois/私たちはもう森へは行かない」という曲があって、いまでは子どもの遊び歌になっているとか。歌詞は、かのポンパドール夫人が作り、メロディはグレゴリオ聖歌の「天使のミサ」と呼ばれる曲が使われているそうだ。ロンドのように1番の歌詞の最後が2番のあたまにくり返されて、2番の最後が3番のあたまに出てきて、といった感じで延々とづづく形式。

1.私たちはもう、森へは行かない
 月桂樹が伐られてしまって
 この娘が
 拾い集めにいくわ

 *ルフラン*
    さあ、ダンスに加わって
   みんなが踊るのを見て
   跳ねて、踊って
   好きな人にキスしてね

2. この娘が
 拾い集めにいくわ
 でも森の月桂樹が
  伐られたままにしてていいの?
 *ルフラン

3. でも森の月桂樹が
  伐られたままにしてていいの?
 だめだめ、ひとりずつ順番に
 拾い集めにいくのよ
 *ルフラン

 いかにも、フランス風の遊び歌だ。パプーシャが歌う「森へは行かない」とはずいぶん違う。アルディが歌う曲はフランス語だから、フランス人にとってはもちろん、このわらべ歌が連想されるはずだけれど、でも、曲想はむしろ、喪失を歌うパプーシャの歌に近い。

 ふと思うのは、かりにこの曲が日本で「私の青春が逃げていく」というオリジナルタイトルのまま紹介されていたら、こんな強い手がかりといっしょに記憶に残っただろうか、ということだ。「森へ行かない」という暗喩があったからこそ、パプーシャの歌の歌詞を見たとき、アルディのことを思い出したのではなかったか。おまけに「森へなんか」である。この「なんか」を加えた当時の担当ディレクターの目は、いや耳は、急所を心得ていたといえそうだ。

もう森へなんか行かない──(1)

 ずっと気になっていたことがある。ある歌詞の一行。
 10年ほど前に『立ったまま埋めてくれ』(青土社刊)という本を訳した。ロマ民族(ジプシー)をルポしたイザベル・フォンセーカの名著だ。そのプロローグ「パプーシャの口からこぼれた歌」のなかに、つぎようのような歌詞が出てくる。

  おお、いったい、どこへ行けばいいの?
  わたしに、なにができるというの?
  物語や歌は
  どこで見つければいいの?
  わたしは、森へは行かない。
  そこでは川と出会えないから。
  おお、森よ、わたしの父よ、
  わたしの、黒い父よ!

 パプーシャ(本名ブロニスワヴァ・ヴァイス、1910-87)はポルスカ・ロムだった。クンパニア(キャラバン)を率いて旅をしていたポーランド・ジプシーの女性だ。この歌詞は、彼女の才能にいちはやく目をつけた詩人、イェジ・フィツォフスキによって、当時のポーランド社会主義政権の徹底した同化政策の手がかりとして「表」に出されたロマの歌のひとつである。
 ずっと気になっていたのは「わたしは、森へは行かない」というところだ。訳しながら、どこかで聞いたような歌詞だなあ、と思ったのだ。記憶の奥にずっとしまいこまれたなにかと響きあうフレーズ。

 パプーシャはまた、こんなふうにも歌う。

  森と川のほかは、
  だれもわたしをわっかってくれない。
  歌にしてきた森と川の物語は、
  みんな、みんな死んでしまった。
  なにもかも、それといっしょに行ってしまった… 
  そして青春の日々もまた。

 先日、思いたって埃だらけの一枚のLPをターンテーブルにのせてみた。針を落とすとこんな歌詞が流れ出てきた。

  わたしの青春が逃げていく
  一篇の詩といっしょに
  ひとつの韻からもうひとつの韻へ
  腕をぶらつかせながら
  わたしの青春が
  枯れた泉の方へ逃げていく
  そして柳を切る人たちが
  わたしの20歳を刈り取っていく
  
  わたしたちはもう、森へなんか行かない
  詩人の歌
  安っぽいルフラン
  へたな詩句
  みんなで歌ったっけ
  パーティーで出会った男の子を
  思い浮かべながら
  もう名前さえおぼえていない子
  もう名前さえおぼえていない
 
 1967年にリリースされたフランソワーズ・アルディのアルバムに入っていた「Ma Jeunesse Fout le Camp/わたしの青春が逃げていく」という曲である。(つづく)

2008/05/13

ヴェロニク・サンソン──Amoureuse/Vancouver

 30数年ぶりに、埃っぽいヴェロニク・サンソンのLPアルバムを引っ張りだして聴いた。雑誌「ラティーナ5月号」に彼女のインタビュー記事が載っていたからだ。でも、そもそものきっかけは、この号にアディーチェの『アメリカにいる、きみ』の書評が載っていると教えてくれた知人がいたからで、その表紙がヴェロニク・サンソンだったのだ。おお、なつかしい!!

 手許に残っているLPアルバムは、1972年の初アルバム『愛のストーリー/Amoureuse』(日本版は1973年発売)と、1976年の来日記念アルバム『ヴァンクーヴァー/Vancouver』。なんといっても初アルバムの出だしの曲「Amoureuse」が、声ののびやかさといい、曲まわしといい、だんとつに良い。この2枚のアルバムのあいだに、もう2枚出ているのだけれど、手許にはない。でも、雑誌のディスコグラフィーにのっているジャケ写真を見る限り、どちらもよく覚えている写真だから、あるいは、買ったのかもしれない。だれかにあげてしまったのかな。手許にあるのは2枚とも、当時は非売品あつかいのプロモーショナル・コピーだから、ほかのアルバムは売ってしまったのかもしれない。
 なぜ、ヴェロニク・サンソンをなつかしい、と思ったかというと、じつは、この来日記念版『ヴァンクーヴァー』の歌詞を、依頼されて訳したことがあったのだ。いま見ると拙い訳だけれど、ヴェロニクと1歳ちがいのわたしには、とても面白い体験だった。もう32年前のことだけれど。 

 雑誌の記事を読むと、ヴェロニク・サンソンはフランス初の女性シンガーソングライターという位置づけになるらしい。
 1949年生まれで、裕福な家庭で育っている。でも、父母は対独レジスタンスの経歴の持ち主で(その後、父親は保守系国会議員になった)、2人姉妹の妹に生まれ(両親は男の子が欲しかったとか)、60年代から、つっぱり、反逆、家出、音楽活動、アメリカ人のロッカーと結婚、離婚と、一生反抗期みたいな人生だったのかもしれない。

 そうか、そういうことだったのか。当時、その歌声を聞いたとき、わたしがまず感じたのは、「ひりひりするような痛みと愛されたいという心の渇き」だ。「自立しようとするフランス女の強さと脆さ」の感覚もあった。なにしろ、自己主張が強い。あの国の文化や歴史を考えれば、あたりまえだけれど、当時、愛聴していたバルバラのような、絶望的な暗さから突き抜けてくる深い魅力は、なかった。ジャズ・ヴォーカルのもつ包み込むような声の力も。でも、それはないものねだりだろう。
 日本では荒井由実が出てきたころだ。
 スティーヴン・スティルスと結婚して男の子を産んで、アメリカのコロラド住まいになって孤立感を深めているようなヴェロニクの歌声は、いささか荒れ模様ではあるけれど、いま聴いてもなかなか魅力的だ。その後、スティルスと別れて、離婚訴訟でもめて、アル中になって、息子に支えられてアル中を治療して・・・。
 ヴェロニクもなかなか大変だったんだねえ、と思いながら30数年ぶりに聴いていると、アン・バートンのLPをかけたときは、近寄ってきてふんふんと嗅ぎまわったわが家の猫も、ヴェロニクの歌声とは相性がわるいのか、遠くで、ちんまりと緊張した面持ちで聴いているではないか。これには思わず笑ってしまった。
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註:アル中と「ヴァンクーヴァー」といえば、思い出すフランスの女性作家は誰でしょう?
 答えは、マルグリット・デュラス。もうひとつ共通項がありますね。男の子をひとり産んでいること。
 

2008/05/09

エドウィージ・ダンティカとエムリン・ミシェル

 エムリン・ミシェルのこのアルバム「Cordes & Ame」で、びんびん心に響くハイチクレオールの歌を聞いたのは、エドウィージ・ダンティカの『アフター・ザ・ダンス』を訳していたころだから、もう5年も前になる。ほかにもブックマン・エクスペリアンスやブッカン・ギネ、ラムといったミュージシャンのアルバムを手当たり次第に聴きながら、アフリカン・アメリカン文化の核ともいえるカーニヴァルに思いをはせた。

 エドウィージは2002年1月の初来日のときや、翌2003年8月に結婚1周年記念旅行をかねて、連れ合いのフェドさんといっしょに再来日したときは、まだ、初々しさの残る若い女性といった感じだったけれど、いまでは3歳の娘の母親だ。最近の写真をみると、なかなかの貫禄ぶりを思わせる表情に変わってきて、頼もしいかぎり。

 2003年夏には、来年がハイチ独立200年のお祝いだといっていたのに、年が明けるとすぐに、またしてもクーデター。アリスティド大統領は国を出て、国内はほとんど無政府状態に近くなった。
 エドウィージがニューヨークの父母のもとへ行った12歳まで、彼女を育ててくれた牧師のジョゼフおじさんも、なんとしてもハイチでがんばると主張しつづけたけれど、ついに米国へ渡った。ところが、81歳の彼の健康状態はすこぶるわるく、移民局の心ない対応であっけなく死んでしまった。翌2005年にエドウィージとフェドに娘のミラが誕生して、それを待っていたかのように、エドウィージの実父もまた肺の病気で他界する。  
 この間のことをづづった自伝的な作品「Brother, I'm Dying」をいま読んでいる。昨年、本が出たときすぐに買ってはあったのだけれど、ほかの仕事にかまけて、1章を読んだだけで「積読」の棚に差し込まれていたのだ。

 1789年のフランス革命からわずか5年後に、世界で初めて建国された黒人共和国ハイチはいま、皮肉なことに、世界の最貧国となってしまった。コロンビアから米国へ流れる麻薬の中継地として、軍や警察がその利権に絡み、利益は一部特権階級の懐へ。紛争地でみるおなじみの構図。背後に見え隠れするのはまたしても、例の超大国の二重外交。
 来日したときにエドウィージが、最近の日本のことを聞いて、眉曇らせながらいったことばを思い出す。「ハイチは貧しいけれど、人びとは毎日の暮らしを精一杯生きている。自殺する人はいない」

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追記:最近のインタビューで、彼女は「自分の娘の孫の世代のことを考えたら、オバマを支持する」と語っていた。自分が乗っている小型車、Toyota Echo に「Obama Yes」というステッカーを貼って・・・。

2008/05/02

J・M・クッツェーの文体──読書、切り抜き帳(8)

 インタビュー嫌いで有名な作家、J.M.クッツェーが思いっきり饒舌に語った9つのインタビューがある。インタビューのプロジェクトは、クッツェーがデイヴィッド・アトウェルとともに1989年に計画し、再録を終えたのが1991年の初め、1992年に出版されたエッセイ集『ダブリング・ザ・ポイントDoubling the Point』(ハーヴァード大学出版)の各章導入部におさめられた。最後の、全体を回顧した独白調の語りが、その時点でのこの作家の自画像を描いていて興味深い。
 この本には70年代から80年代にかけて書かれたエッセイが集められていて、ここ数カ月のあいだ『鉄の時代』につける年譜や解説を書くために、かなりまとめて再読した。そして、こんなことばにぶつかった。

「フロベールが述べているように、文学でも通俗文学ほど literary な傾向の強いものはありません」 (Doubling the Point, p338 )

 この「literary」という語、言語についていわれるときは「文語調の」という意味になるようだけれど、オクスフォード英英辞典を引くと二つ目の意味に「having a marked style intended to create a particular emotional effect」という説明が出てきた。要するに「特別な感情的効果を創り出そうとする意図が目立つ文体」ということだろうか。なるほど、ここで使われているのは、その意味か。それが通俗文学の大きな特徴ということか──。
 上で引用したクッツェーの語りでは、アレックス・ラ・グーマという南アフリカの作家について1974年に発表した文章が自分としては気に入らない、と述べながら、ラ・グーマの文体が「過剰なほどliteraryだ」と指摘している。過剰な文飾がほどこされた文体が通俗文学の特徴だ、とするのは、フロベールの無駄のない文体を考えると、なるほど、と思う。

 クッツェーの文章もまた文飾とは無縁の、無機的とまでいわれる、切り詰めるだけ切り詰めた節約型文体であることは誰もが指摘するところで、それは作家自身も認めている──自分の家族の文化的ルーツは、アフリカに移植された西欧の農民文化だから、質素、倹約が特徴なのだ、といって。

 でもクッツェーの鍛え抜かれた文章はまた、比類なく美しく、その美しさは、おそらく彼の文章の静けさと関連している。ざわつきがなく、明晰で、引き締まっている分、読んでいて、はげしく快い緊張感をもとめられる。ぐいぐい惹きつけて読ませながら、ひとつひとつのことばの余韻や意味の深さを味わい、語と語のあいだに漂う余白でじっくり考え、自問することを誘われる文体ともいえるだろう。クッツェー文学を読む醍醐味は、その静けさを聞き取ることにあるのかもしれない。Age of Ironを訳していてそう思った。