Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2008/05/02

J・M・クッツェーの文体──読書、切り抜き帳(8)

 インタビュー嫌いで有名な作家、J.M.クッツェーが思いっきり饒舌に語った9つのインタビューがある。インタビューのプロジェクトは、クッツェーがデイヴィッド・アトウェルとともに1989年に計画し、再録を終えたのが1991年の初め、1992年に出版されたエッセイ集『ダブリング・ザ・ポイントDoubling the Point』(ハーヴァード大学出版)の各章導入部におさめられた。最後の、全体を回顧した独白調の語りが、その時点でのこの作家の自画像を描いていて興味深い。
 この本には70年代から80年代にかけて書かれたエッセイが集められていて、ここ数カ月のあいだ『鉄の時代』につける年譜や解説を書くために、かなりまとめて再読した。そして、こんなことばにぶつかった。

「フロベールが述べているように、文学でも通俗文学ほど literary な傾向の強いものはありません」 (Doubling the Point, p338 )

 この「literary」という語、言語についていわれるときは「文語調の」という意味になるようだけれど、オクスフォード英英辞典を引くと二つ目の意味に「having a marked style intended to create a particular emotional effect」という説明が出てきた。要するに「特別な感情的効果を創り出そうとする意図が目立つ文体」ということだろうか。なるほど、ここで使われているのは、その意味か。それが通俗文学の大きな特徴ということか──。
 上で引用したクッツェーの語りでは、アレックス・ラ・グーマという南アフリカの作家について1974年に発表した文章が自分としては気に入らない、と述べながら、ラ・グーマの文体が「過剰なほどliteraryだ」と指摘している。過剰な文飾がほどこされた文体が通俗文学の特徴だ、とするのは、フロベールの無駄のない文体を考えると、なるほど、と思う。

 クッツェーの文章もまた文飾とは無縁の、無機的とまでいわれる、切り詰めるだけ切り詰めた節約型文体であることは誰もが指摘するところで、それは作家自身も認めている──自分の家族の文化的ルーツは、アフリカに移植された西欧の農民文化だから、質素、倹約が特徴なのだ、といって。

 でもクッツェーの鍛え抜かれた文章はまた、比類なく美しく、その美しさは、おそらく彼の文章の静けさと関連している。ざわつきがなく、明晰で、引き締まっている分、読んでいて、はげしく快い緊張感をもとめられる。ぐいぐい惹きつけて読ませながら、ひとつひとつのことばの余韻や意味の深さを味わい、語と語のあいだに漂う余白でじっくり考え、自問することを誘われる文体ともいえるだろう。クッツェー文学を読む醍醐味は、その静けさを聞き取ることにあるのかもしれない。Age of Ironを訳していてそう思った。