エムリン・ミシェルのこのアルバム「Cordes & Ame」で、びんびん心に響くハイチクレオールの歌を聞いたのは、エドウィージ・ダンティカの『アフター・ザ・ダンス』を訳していたころだから、もう5年も前になる。ほかにもブックマン・エクスペリアンスやブッカン・ギネ、ラムといったミュージシャンのアルバムを手当たり次第に聴きながら、アフリカン・アメリカン文化の核ともいえるカーニヴァルに思いをはせた。
エドウィージは2002年1月の初来日のときや、翌2003年8月に結婚1周年記念旅行をかねて、連れ合いのフェドさんといっしょに再来日したときは、まだ、初々しさの残る若い女性といった感じだったけれど、いまでは3歳の娘の母親だ。最近の写真をみると、なかなかの貫禄ぶりを思わせる表情に変わってきて、頼もしいかぎり。
2003年夏には、来年がハイチ独立200年のお祝いだといっていたのに、年が明けるとすぐに、またしてもクーデター。アリスティド大統領は国を出て、国内はほとんど無政府状態に近くなった。
エドウィージがニューヨークの父母のもとへ行った12歳まで、彼女を育ててくれた牧師のジョゼフおじさんも、なんとしてもハイチでがんばると主張しつづけたけれど、ついに米国へ渡った。ところが、81歳の彼の健康状態はすこぶるわるく、移民局の心ない対応であっけなく死んでしまった。翌2005年にエドウィージとフェドに娘のミラが誕生して、それを待っていたかのように、エドウィージの実父もまた肺の病気で他界する。
この間のことをづづった自伝的な作品「Brother, I'm Dying」をいま読んでいる。昨年、本が出たときすぐに買ってはあったのだけれど、ほかの仕事にかまけて、1章を読んだだけで「積読」の棚に差し込まれていたのだ。
1789年のフランス革命からわずか5年後に、世界で初めて建国された黒人共和国ハイチはいま、皮肉なことに、世界の最貧国となってしまった。コロンビアから米国へ流れる麻薬の中継地として、軍や警察がその利権に絡み、利益は一部特権階級の懐へ。紛争地でみるおなじみの構図。背後に見え隠れするのはまたしても、例の超大国の二重外交。
来日したときにエドウィージが、最近の日本のことを聞いて、眉曇らせながらいったことばを思い出す。「ハイチは貧しいけれど、人びとは毎日の暮らしを精一杯生きている。自殺する人はいない」
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追記:最近のインタビューで、彼女は「自分の娘の孫の世代のことを考えたら、オバマを支持する」と語っていた。自分が乗っている小型車、Toyota Echo に「Obama Yes」というステッカーを貼って・・・。