窓から差し込む陽の光がまぶしい日曜日。
昨日は池袋まで行ってきた。立教大学の「共生社会研究センター」が日本の反アパルトヘイト運動を記録するためのアーカイヴを作ってくれて、その記念イベントがあったからだ。
1989年10月に長いあいだ獄中にあった政治囚が解放されはじめ、翌1990年2月にネルソン・マンデラが釈放されて、血みどろの混乱と権力移譲のかけひきを経て、南アフリカがアパルトヘイトという軛からようやく解放されたのが、1994年だ。
このプロセスは、ベルリンの壁が1989年11月に崩れて、旧ソ連を中心とする共産圏経済が崩壊していった時期とみごとに一致していた。この歴史的事実は、しっかり記憶にとどめておきたい。
あらためてここに、アパルトヘイトとは何だったのか、その体制内で生まれ、生きた作家 J・M・クッツェーの定義を再掲しておく。今年5月にパレスティナ文学祭に参加したクッツェーが「最後の日に行なったスピーチ」の一部である。
アパルトヘイトとは、人種あるいは民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義した集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を固めるためのものだった。
「排他的な集団」というのはヨーロッパから大陸南端に上陸して土地を奪っていったヨーロッパ白人部族のことをさす。最初はオランダ系、それにイギリス系植民者が加わって少数グループとして白人至上主義を先鋭化させていった。
1980年代に入って国際連合が「Crime against Humanity=人道に反する罪」と定義づけてから、アパルトヘイトは西側諸国の普遍的価値観である「人権」に反するものとして槍玉にあげられ、やがて、その体制は崩壊していった。だが、そこには大国を軸にした「経済的利害」の天秤の存在があったことはしっかり記憶されていくべきだろう。根幹には常に植民地主義的経済の世界システムが働いていたのだ。共産圏諸国の後ろ盾で独立することの多かったアフリカ諸国が採掘権を握る膨大な資源を有する大陸、そのアフリカ大陸へ西側諸国がアクセスするための入り口、それが南アフリカという国だったという指摘もクッツェーは『ヒア・アンド・ナウ』でしている。
そしてニホンという国は、尻尾を振るようにして黄色い肌をした有色の「名誉白人」となり、経済的なやりとりのためのみに嬉々として「白人扱い」してもらい、他の有色の人たちと自分は違う、という差別感情を内面化していった。こんな恥ずかしいことはない。そんなねじれた感情が、「見ないことにした現実」(自分たちの顔)がいまも尾を引きずっている。
さて、20年以上前にいっしょに行動した懐かしい顔ぶれが、まるで同窓会だね、と笑い合うおしゃべりの翌日、はらりと新聞を広げると……毎日新聞の「2016 この3冊」に中島京子さんがアディーチェの『アメリカーナ』をあげてくれているではないか。
あれ、一週間前もこれと似た展開が……という既視感とともに、嬉しさがこみあげてくる。
「人種」が特別の意味を持つ大国・アメリカの現在を描いて……人種問題を正論で語るときの欺瞞や鬱屈も描かれ、トランプ次期大統領を生んだ社会の背景が……
『アメリカーナ』という小説は、アメリカという世界の大国で「人種」がどのようなものとして機能しているかを、クリアに、詳細に、描き出していく作品でもあるのだ。それもナイジェリア出身の若い女性の曇りない目を通して。
戦後、ややもすると「単一民族」などという妄想に目を塞がれ、アメリカ製ホームドラマ、西部劇、ディズニー映画などで目くらましを食らいながら、「白いアメリカ」やその反転像としての「黒人文化」に憧れてきたニホンが、多民族国家であるアメリカ社会内の「本当は見たくない、見たくなかった現実」を根底部分から容赦なく描き出している作品であるかもしれない。そろそろこういう事実ともまっすぐに向き合おうか、「トランプのアメリカ」から目をそらすわけにはいかないのだから。
そして。今日のグーグルは、なんと、1977年に当時のアパルトヘイト政権の警察が拷問・虐殺した黒人意識運動の主導者スティーヴ・ビコの写真だ。そうか、12月18日はビコの誕生日だった。享年31歳の彼が生きていたら今年70歳。アフリカの若き指導者の多くは、とても若いうちに、暗殺、虐殺された。ビコ、ルムンバ、トマス・サンカラ、カブラル。ルムンバのようにCIAがらみのケースも多いだろう。
ちなみにナイジェリアは南アフリカのアパルトヘイトに対して、常に反対をとなえてきた国である(これは南部アフリカ諸国もおなじだ)。アディーチェも小学生のとき獄中にあるマンデラの話を聞いて、みんなでお小遣いからカンパをした、とどこかで語っていたっけ。
昨日は池袋まで行ってきた。立教大学の「共生社会研究センター」が日本の反アパルトヘイト運動を記録するためのアーカイヴを作ってくれて、その記念イベントがあったからだ。
1989年10月に長いあいだ獄中にあった政治囚が解放されはじめ、翌1990年2月にネルソン・マンデラが釈放されて、血みどろの混乱と権力移譲のかけひきを経て、南アフリカがアパルトヘイトという軛からようやく解放されたのが、1994年だ。
このプロセスは、ベルリンの壁が1989年11月に崩れて、旧ソ連を中心とする共産圏経済が崩壊していった時期とみごとに一致していた。この歴史的事実は、しっかり記憶にとどめておきたい。
あらためてここに、アパルトヘイトとは何だったのか、その体制内で生まれ、生きた作家 J・M・クッツェーの定義を再掲しておく。今年5月にパレスティナ文学祭に参加したクッツェーが「最後の日に行なったスピーチ」の一部である。
アパルトヘイトとは、人種あるいは民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義した集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を固めるためのものだった。
「排他的な集団」というのはヨーロッパから大陸南端に上陸して土地を奪っていったヨーロッパ白人部族のことをさす。最初はオランダ系、それにイギリス系植民者が加わって少数グループとして白人至上主義を先鋭化させていった。
1980年代に入って国際連合が「Crime against Humanity=人道に反する罪」と定義づけてから、アパルトヘイトは西側諸国の普遍的価値観である「人権」に反するものとして槍玉にあげられ、やがて、その体制は崩壊していった。だが、そこには大国を軸にした「経済的利害」の天秤の存在があったことはしっかり記憶されていくべきだろう。根幹には常に植民地主義的経済の世界システムが働いていたのだ。共産圏諸国の後ろ盾で独立することの多かったアフリカ諸国が採掘権を握る膨大な資源を有する大陸、そのアフリカ大陸へ西側諸国がアクセスするための入り口、それが南アフリカという国だったという指摘もクッツェーは『ヒア・アンド・ナウ』でしている。
そしてニホンという国は、尻尾を振るようにして黄色い肌をした有色の「名誉白人」となり、経済的なやりとりのためのみに嬉々として「白人扱い」してもらい、他の有色の人たちと自分は違う、という差別感情を内面化していった。こんな恥ずかしいことはない。そんなねじれた感情が、「見ないことにした現実」(自分たちの顔)がいまも尾を引きずっている。
さて、20年以上前にいっしょに行動した懐かしい顔ぶれが、まるで同窓会だね、と笑い合うおしゃべりの翌日、はらりと新聞を広げると……毎日新聞の「2016 この3冊」に中島京子さんがアディーチェの『アメリカーナ』をあげてくれているではないか。
あれ、一週間前もこれと似た展開が……という既視感とともに、嬉しさがこみあげてくる。
「人種」が特別の意味を持つ大国・アメリカの現在を描いて……人種問題を正論で語るときの欺瞞や鬱屈も描かれ、トランプ次期大統領を生んだ社会の背景が……
『アメリカーナ』という小説は、アメリカという世界の大国で「人種」がどのようなものとして機能しているかを、クリアに、詳細に、描き出していく作品でもあるのだ。それもナイジェリア出身の若い女性の曇りない目を通して。
戦後、ややもすると「単一民族」などという妄想に目を塞がれ、アメリカ製ホームドラマ、西部劇、ディズニー映画などで目くらましを食らいながら、「白いアメリカ」やその反転像としての「黒人文化」に憧れてきたニホンが、多民族国家であるアメリカ社会内の「本当は見たくない、見たくなかった現実」を根底部分から容赦なく描き出している作品であるかもしれない。そろそろこういう事実ともまっすぐに向き合おうか、「トランプのアメリカ」から目をそらすわけにはいかないのだから。
そして。今日のグーグルは、なんと、1977年に当時のアパルトヘイト政権の警察が拷問・虐殺した黒人意識運動の主導者スティーヴ・ビコの写真だ。そうか、12月18日はビコの誕生日だった。享年31歳の彼が生きていたら今年70歳。アフリカの若き指導者の多くは、とても若いうちに、暗殺、虐殺された。ビコ、ルムンバ、トマス・サンカラ、カブラル。ルムンバのようにCIAがらみのケースも多いだろう。
ちなみにナイジェリアは南アフリカのアパルトヘイトに対して、常に反対をとなえてきた国である(これは南部アフリカ諸国もおなじだ)。アディーチェも小学生のとき獄中にあるマンデラの話を聞いて、みんなでお小遣いからカンパをした、とどこかで語っていたっけ。