今日、12月15日(日曜日)、マンデラの遺体はイースタンケープ州の彼の生地クヌに埋葬される。アパルトヘイト時代から一貫して盟友であったデズモンド・ツツ主教の出席しない葬儀のあとで。(註/紆余曲折の末、ツツ主教は参列することになったようです。)(左の写真は遺体がクヌまで運ばれるようす。)
「ネルソン・マンデラが長い生涯を終えた──長いとはいえ、嘆かわしいほど切り詰められた人生だった。終身刑に処されて、人間としての最良の時期を27年間も幽閉されて過ごしたのだ」
と始まるのは先に紹介した、J・M・クッツェーのネルソン・マンデラへの追悼文(12月6日付の「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙)。マンデラという人物のプロフィールと「彼の国」に対して果たした役割を、適確な、無駄のないことばでクッツェーは書く。以下に引用しながら紹介する。それはこう続く──
「幽閉されながらも、彼は無力であったわけではない。長い刑期の最後の数年、事実上、彼は国の外交政策に対しては拒否権を行使し、看守たちに対しては統制力をますます強めていった。
F・W・デクラークとともに──モラル上ははるかに劣る人物ながら彼もまた彼なりに、南アフリカ解放への貢献者だ──マンデラは1990〜94年という危険な時代に、騒然となった彼の国を統括した。その大いなる個人的な魅力を発揮して、新しい民主的な共和国内には白人の居場所もある、と白人たちを説得し、一方では一歩一歩着実に、分離主義をかかげる白人右翼勢力を骨抜きにしていった。
その正統な権利によって大統領になるころ、マンデラはすでに老人だった。公正な経済秩序を創造するという、時代の差し迫った仕事に対して、彼がもっと多くのエネルギーを注ぎ込むことができなかったのは、不運だったとはいえ無理もなかった。ANCの他の指導者同様、彼は世界規模で起きている社会主義の崩壊に不意打ちをくらい、政党は新たな、略奪を目的とする合理的経済理論に哲学をもって対抗することができなかった」
これは先日のブログにも一部引用したところだが、「彼の国」と書いているところにわたしの針はぴくり、ぴくりと大きく触れた。「ニューヨーカー」(12月5日付)に載ったナディン・ゴーディマの文章の書き出し:「おなじ時代におなじ故国にネルソン・ホリシャシャ・マンデラと生きてきたことは、わたしたち南アフリカ人が共有する導きであり恩典だ。わたしはまた彼の友人になるという恩典にあずかった。私たちが会ったのは1964年・・・」とはひどく対照的だ。そしてクッツェーはマンデラという人間について、曇りない歴史的な光をあてる。
「マンデラの個人的、政治的権威は、アパルトヘイトには武力をもって抵抗する、という鍛え抜かれた防御論と、その抵抗のために受けた過酷な刑罰に基礎をおいている。さらにさかのぼるなら、・・・(中略)・・・これが個人としての一貫性というヴィクトリア朝風の理想と大衆のために献身的に奉仕することを、彼の目前に示しつづけたのだ。
・・・中略・・・
マンデラは過去においても偉人であり、死期が近づくころには世界的な偉人になっていた。偉大さという概念が歴史的陰影のなかに後退していくとき、彼はおそらく偉人といわれる最後の人になるだろう」
「偉人=偉大な人物」という考え方が消えようとする時代に、われわれは生きているのか。
しかしまた、ゴーディマの先の文章の結びが、ウィットとユーモアに富んだ人だったマンデラのエピソードを伝えているのは嬉しい。マンデラが獄中にあったとき、すでに他に恋人ができていたウィニーと1996年に正式に離婚したあと──マンデラは1998年にグラサ・マシェルと結婚した。モザンビークでポルトガルの植民地支配と闘った解放闘士であり、モザンビークのサモラ・マシェル初代大統領夫人だった人だ。マシェル大統領は、アパルトヘイト政権を支持する南アフリカ人の工作によると言われる飛行機事故で殺害された・・・結婚式の「誓います」という儀式と喝采ののち、グラサはマシェルという名前をこれからも名乗ると公言した。それをどう思うかと問われたマンデラは──「彼女の」名前を名乗ってほしい、と彼女から言われなかったのは良かったよ──と答えたという。
5日にマンデラが長い一生を終え、その翌日6日に、今世紀最悪の法律といわれる「特定秘密保護法」が日本の国会で、十分な審議もないまま、多くの人たちの反対や慎重論を踏みにじるようにして、まるで、民主制とは形式を踏めばいいのだといわんばかりに暴力的に採決された。忘れない。