最近はもっぱら「マディバ」の愛称で呼ばれたネルソン・マンデラが危篤状態とのニュースが流れてから数カ月。ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ、95歳。ついに逝った。試練のたびに自分を鍛え抜いた、見事な政治家だった。ひとつの時代が終わろうとしている。
1990年2月2日、東京は前日に降った雪が凍って、踏みしめる靴の下でざくざく鳴った。その日、南アフリカに郵送する為替をつくるために、わたしは西新宿の東京銀行まででかけた。駅までの雪道を歩いたとき、この日のことをずっと記憶しつづけるだろう、とはっきり意識したことを、ざくざくというあの靴音といっしょにいまも鮮明に思い出す。前日の1990年2月1日は、それまで違法とされた解放組織が合法化された歴史的な日だったからだ。
当時、国家の厳しい検閲によって出版停止、記事の黒塗りなど、度重なるban(出版禁止)にもめげず、反アパルトヘイトの姿勢を貫いていた週刊新聞「Weekly Mail」を定期購読するためには、ジョハネスバーグの新聞社に書留で銀行為替を送らなければならなかった。4万円あまりの為替を作成するのに手数料が5千円くらいかかった。カード決済はまだできなかった時代だ。
周囲では、27年間も監獄に入れられていた解放闘争のヒーロー、ネルソン・マンデラがいつ釈放されるかという噂でもちきりだった。そして2月11日、本当にそのマンデラ自身が釈放された。南ア国内の人たちはもちろん、世界中の反アパルトヘイト運動にかかわった人たちが歓喜した。しかし、それにしても不名誉な「名誉白人」扱いを最後まで返上できなかった日本人、あの人種差別という非人間的な搾取制度を打倒するための世界的経済制裁の波に最後まで加わらなかった「経済利益至上主義」の日本人。人の生命より儲けを優先する日本人。この歴史的事実はいまも、忘れようにも忘れられない。(そして、いまこの国はどこへ向かおうとしているのか?)
1990年2月11日に大勢のジャーナリストや、歓迎を叫ぶ群衆が押し寄せるなかを、ネルソン・マンデラとウィニー・マンデラが拳をふりあげ、にこやかな笑みを見せながら歩いていく感動的な映像が世界中に流れた(1枚目の写真)。
その下はいまは観光地のようになっている無人の道路(2枚目の写真)、これが彼らの歩いたヴィクター・フェルスター刑務所(後にドラケンスタイン刑務所と改名)前の道だ。入口の近くに、それを記念するマンデラの銅像もあった(右下)。後半2枚は2011年11月、南アへ旅したとき、内陸のヴスターへ行った帰りに立ち寄って撮影したものだ。
ネルソン・マンデラという人物については、いまさらここで述べるまでもないだろう。「テロリスト」という汚名を着せられながら、人間としてのあるべき姿を信じつつけたこの不屈の闘士に敬意を表して、1996年に共同通信からの依頼で書いた、彼の伝記『自由への長い道(上下)』の書評を、彼の病状悪化のニュースが流れたときに、ここにアップした。